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「猫が死なない社会」株式会社neconote

シュレディンガーの猫の話ではありません。

僕が代表を務める株式会社neconoteが、2023年10月1日をもって3期目を迎えました。ので、「会社の存在意義について考え直してみよう」とまぁ、そんなところです。

with Cat Welfare Society

これがneconoteのタグライン。直訳したら「猫の福祉社会とともに」といったところでしょうか。絵空事を実現するための会社ではなく、その社会と共に歩んでいく会社でありたい。そんな思いでwithなんて表現を入れています。

さてMVVはというと、こんな感じ。

SHAKE the neconote|株式会社neconoteチェックインガイド

実現したい世界線に対し、neconoteの価値を明確に。それを実現するための行動と気持ちのあり方を整理しました。一言一句、心から納得しているし、チームに浸透させるための適切な表現だと自負しています。

でもふと思うことがあるんです。

「言葉を話せない猫の幸せってなんだろう?」
「人間の価値観(形而下)で幸不幸を判断できるのか?」
「同意を得ないまま生殖本能に介入していいのか?」

大前提、完全室内飼養や不妊去勢手術は必要なもの。殺処分や外暮らしの残虐性と過酷さは理解しているつもりですし、その解決には不妊去勢手術によるバースコントロールが最善手だと僕も考えています。

そのうえでもう一度問うてみます。

「言葉を話せない猫の幸せってなんだろう?」
「人間の価値観(形而下)で幸不幸を判断できるのか?」
「同意を得ないまま生殖本能に介入していいのか?」

完全室内飼養や不妊去勢手術は必要なものです。それでもやっぱり、この問いの答えには不十分な気がしてならないのです。


思考のアウトラインから固めていきます。

国際的な動物福祉の基本は、5つの自由の保障。

1.飢えと渇きからの自由
2.不快からの自由
3.痛み・傷害・病気からの自由
4.恐怖や抑圧からの自由
5.正常な行動を表現する自由

公益社団法人 日本動物福祉協会より

殺処分や外暮らしが、1~4を著しく毀損していることは言わずもがな。だから、完全室内飼養や不妊去勢手術。

では、「家畜化」されたイエネコにとっての「正常な行動を表現する自由」とはなんなのだろうか?
【注)ぼくたちがふだん目にする猫は、ほとんどがイエネコという種です】

生殖本能を奪われたうえに、人間スケールで設計された家の中で行動制限されることが「正常な行動を表現する自由」なのか?

実家で暮らすカブオ。由来は、公園でカブトムシを食べているところ保護されたこと。

ここで思考を止めたくなるくらい幸せそうですが、「これ以上」はないのか?

「正常な行動を表現する自由」を保障したうえで、いまの幸福度を保つことはできないのか?

現時点では難しそう。

というのが、いまのぼくの結論です。

仮に、家の内外を行き来できる暮らし方(あるいは地域猫)が「正常な行動を表現する自由」を保障するものとする。都市部で行えばロードキルの危険に否応なく晒されるし、農村部で行えばエリアの広大さに管理が行き届かなくなり、野獣や縄張り争いなどのリスクによりQOLが担保されるとは言い難い。(海外の都市では”共存”している事例があるので研究中)


ここからが本題。


「家畜化」されたイエネコが「正常な行動を表現する自由」をするために、僕らができることはあるのだろうか?

それが「死なせない」ことなんじゃないか、と最近考えるようになりました。

物理的な「安心安全」かつ「正常な行動を表現する自由」を実現することが難しいのであれば、「家畜化」されたイエネコの「正常な行動を表現する自由」を「人間と暮らすこと」と読み替えてみる

そうすれば、完全室内飼養も不妊去勢手術によるバースコントロールにも説明がつくんじゃないか?

生物的な最終段階として訪れる死に対し、「人間と暮らすこと」で「死なせない」ようにできるんじゃないか?

そんなことを考えるわけです。

「人間は二度死ぬ」では猫も同じだろう。

ノーベル文学賞を受賞した20世紀フランスの作家アンドレ・ジッドは、著書『失われた者たち』で死をこう表現しました。

『人間は二度死ぬんだよ』とペロが叫んだ。『ひとたび肉体が死んだとき、それが人間の終わりではない。最後の一度が死で、二度目の死が、最後に人が名前を口にされなくなったときだ。

アンドレ・ジッド 「失われた者たち(Les Faux-Monnayeurs)」1925

先ほど、「家畜化」されたイエネコの「正常な行動を表現する自由」を「人間と暮らすこと」と読み替えてみました。

そのうえで物理的な「安心安全」かつ「正常な行動を表現する自由」を実現することが難しいのであれば、僕らにできるのは「死なせない」ことなんだろうを考えたわけです。

その猫が生前に出会った人間たちが、その猫を弔い悼み、記憶していくことで、その猫の二度目の死は防げると考える。逆に、人間の管理下から外れ人知れず死んでいくことは、一度目の死と二度目の死がまとめて来ることになる。そんな考え方です。

だから、猫と人とが「ご近所づきあい」するくらいの距離感で、お互いに敬意を持てる関係性を育てていきたい。そのための環境づくりと仕組みづくりに取り組んでいきます。

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