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我が身かな 草鞋履き替え

"二足の草鞋を履く"なんて言葉があるけれど、僕を含め三足も四足も履いている人が多いんじゃないかなって思う。

僕は僕の好きなことをやっていたら、いまみたいになっていた。まちづくりの会社に属しながら雑貨店を経営し、保護ねこの仕事もして、空き家活用のプロデュースもして、オンラインイベントのディレクターもしている。趣味では映画祭のお手伝いなんかもさせてもらってる。自分が何者かはよくわからないけど、それなりの充足感と程よい渇きを感じながら毎日を過ごしている。

いろんなことに関わっていると、もちろん大変なことも多いけど、案外ポジティブなことの方が多いというのが最近の僕の結論。理由は単純で、精神的な逃げ場があるから。

いわゆる「仕事ができるやつ」ではない僕は、結構やらかす。(本当に申し訳ない...)やらかすと分かりやすく落ち込むので、消火した後はちょっと違うことを考えたい。そんな時に、僕が別の職場でやらかしたことなどお構いなしに進んでるプロジェクトがあることは、”自分の居場所が残されている”と言い換えることができると思うんです。「現実逃避=仕事しない。ダラける」ではなく、「現実逃避=別の仕事をする」と置き換えできちゃえば、結構いろんなことに手を出すことがメリットだったりもする。(メリットは他にもたくさんあるんだけどね)

最近"依存先を増やす"という言葉に出会った。(出会った時は少し違う文脈で語られていたんだけど)社会のなかに自分の居場所を増やすことはまさにこれで、例えば友人Aと喧嘩した際に相談できる友人Bがいるだけで安心できるよね。それは友人C~Zがいればなおのこと。でも逆に、友人Aしか相手がいない時に喧嘩をしたら、きっと心は折れちゃうと思うんだ。だから、依存先を増やすことは浮ついてるんじゃなくて、「自分」を自分として保つためのリスクヘッジでもあるんだよね。人に怒らなくなったのも、同じ理由かも。感情的になってもいいことないしね。

僕の場合、プロジェクトに関わるときの理由はほとんど”人”だから、よく「えらいね」って言われるんだけどちょっと違和感で、「好きでやってるし、むしろこっちが助けられてるのにな」って思いながら、そんなことを言われても会話が変な方向に行くので「そーねー」とか言いながら照れ隠しをしています。

自分で言ってから気づいたけど、(語弊を恐れずに言うと)ねこ以外のプロジェクトはジブンゴトとして関わってないな。あくまで誰かの応援だから、主役はその誰かで、自分はいつも裏方にいる気がする。応援したい誰かが輝いてればそれが嬉しいからそれでいいのかな。うーん。

雑にまとめると、自分のモチベーションは「ねこ」「好きな人」から生まれてます。ありがとう。おかげで明日も頑張れそうです。

我が身かな
草鞋履き替え
支えられ

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