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砂の話

サウナや銭湯がそうなんだけど、意図的に情報を遮断することで思考がトリップする。まず自分が何者かを考えて、砂になる感覚に陥る。そこからの揺り戻しで、いまを生きる意味とか自分の幸せ、ねこを助けるアイデアなんかを巡る。端折るとこんな感じ。

今日はそんな話を少しばかり。

「砂になる感覚」っていうのは、自分と世界の境界線がよくわからなくなる感覚のこと。どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。切った髪や爪は明らかに自分ではなくて、でもそれは自分だったわけで。

ではその"切り離す"行為が自分と世界を分けているのか。

そうではない気がする。

では、切り離されていない髪や爪が自分ではないのだとしたら、自分の身体はどこまでが自分なのか。むしろ、どこが自分なのか。脳?心臓?それとも魂?どれもピントこない。どれか一つを取り出して「これが自分です」と言い切れるものが思い当たらない。

では、自分はどこにいるのか。西洋哲学的な視点で強引に解釈するならば、そう考えている意識だけが自分である。となる。

どうも釈然としない。

まあ、この問題は僕より頭の良い人が考え尽くしても答えが出なかった問題なので、この辺にしておく。

次に気になるのは、そんな「自分」はなぜ生きているのか。

理由を問われると、その唯一性を見出そうとするのは、広告会社出身の悪い癖だろうか。どうも、そこに必然性がないと不安になってしまう。「なんとなく」ではクラアイアントに怒られたからね。

生きる意味に唯一性を持たせるのであれば、「自分」に依存するのが一番手っ取り早い。「自分」のために「自分」が生きる。では、その現象を認識している「自分」がいなくなれば、生きる主体も客体もいなくなる。つまり、生きることが約分できるということになる。生きていなくていいわけだ。

こう考えていくと、マッドサイエンティストやシャアの気持ちが少しわかるような気がする。人間や世界が生きることに関して合理的に考えれば考えるほど、無くていい存在(むしろない方がいい存在)に思えてくるから。

そこで人間は考える。それではどうも寂しい。

だから、他者に依存することをしている。生きる意味も生かされる意味も、生きる行為の客体を「自分」意外にすることで、相対的に「自分」の価値を保とうとしているのだ。だから「自分」は群れ、協力し、時に殺し合う。

それぞれがそれぞれの生きる意味に従って、「自分」に干渉し合う。他者のために「自分」を生きる。そう簡単ではないけれど、単純な図式だ。

「自分」を自分だけで完結しようとするとき、また砂になる感覚に襲われるだろう。

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