『雨月先生は催眠術を使いたくない』発売1ヶ月SS 新宿コクーンタワーサイゼリヤの乱

 講義の始まりとともに現れ、終わるとどこかへ消える、神出鬼没の心理学准教授・有島雨月。
 雨月の行方を探すのは、なかなか骨が折れる。大学構内に、複数の隠し住処を持っているからだ。
 玲は旧ゼミ棟の一階のドア前に立ち、深呼吸した。
 三十分ほど構内を走り回り、全て捜し尽くした。となれば、もうここ、実験動物の飼育室――通称・有島動物園しかありえない。
 ゴンゴンと強めにノックしドアを開けると、やわらかな太陽光が射し込む楽園に、一瞬怯んだ。
 ここへ来ると、秒速でリラックスしてしまう。しかし、きょうはそんな場合ではないのだ。
「雨月先生!」
 部屋の中央にある大きな止まり木を迂回して進むと、案の定、雨月はロッキングチェアに沈んでうたた寝をしていた。
 胸の上には、フトアゴヒゲトカゲのおぼろが乗っている。
 金色の大きめなトカゲ。きょろりとした顔で玲のことを見上げており、可愛さのあまりとろけてしまいそうになる……が、そんな場合ではない。
 玲は再び声を張った。
「雨月先生! 起きてください!」
「…………なに」
 片目をうっすら開けたその表情は、『迷惑』という二文字がでかでかと書いてあるようだった。
 こんなにも学生を邪険に扱う先生が居ていいものなのか?
 心理学の先生ならなおのこと、優しく人の心に寄り添ってくれるような、温かみのある好人物であってほしいものだが……。
「ライン既読無視しないでください。不破さんが相談に来てるんです。なんか緊急みたいで」
「まさか、捜査二課の刑事が緊急事態に民間人を捜し回るほど、日本の警察は凋落ちょうらくしたの?」
 玲は、自分の頭に怒りマークが二、三ついているのを感じる。
 なんだろう。このひとの脳は、ひねくれ発言を出力しないと動き出せない仕組みにでもなっているのか?
 雨月が渋々といった様子で体を起こし、ブランケットをたたみ始める……と、背後のドアがバンと開いて、大股歩きの不破が入ってきた。
「あれ!? うーちゃん居るじゃん! さっき来たとき居なかったんだけどな」
「先生、やっぱライン見てたんじゃないですかっ」
 玲はため息をつきながら、この大捕物の真相に思い至る。
 きっと自分たちは、追いかけっこをしてしまっていたのだ。四つの隠し住処をぐるぐると、大の大人が……いや、大きいお子様のようなわがままを言う先生がひとり交じっているが。
 不破はおかしそうに笑いながら、ロッキングチェアに近い窓際にもたれかかった。
「有島さぁ、高二のとき同じクラスだった森田って奴覚えてる?」
「……? うん、覚えてるよ。会話をしたことはないけど」
「いや、森田の方はめちゃめちゃお前に話しかけてたけどな……。ま、覚えてただけいいか」
 雨月と不破は高校からの友人で、有島生徒会長・不破副会長の『ありふわコンビ』として、学校内で中心的な存在だったと聞いている。
 人嫌いの雨月に憧れたり懐いたりする生徒が多数いたと不破は言っていたが、玲には全く想像がつかない。
「不破は仲が良かったの?」
「いや、俺もそんな仲良かったわけじゃなくて、四年前の同窓会で連絡先交換したくらいだったんだけど……先週急に『有島くんの連絡先を知らないか。ふたりで食事をしたい』ってメールが来てさ」
 雨月が無反応なのに対し、玲はぶわっと前のめりになる。
 そんな、恋愛小説の始まりみたいなメールが!? ……と思いかけて、すぐに考えを改めた。
 ふたりの母校は、由緒正しき男子校である。
 いや、男性同士があり得ないなんていうのは、令和の時代に合わないか?
 玲が多様性について考え込む横で、ふたりの会話は続く。
「……特に関わりのなかった同級生が急に連絡を寄越したとき、たいていは、政治活動か怪しいビジネスの二択と考えて差し支えないのだけど」
「俺も、真っ先に選挙だと思ったよ。なんつったって、東京の統一地方選挙は今週末だからな。でも、指定してきた日は来週だったから、選挙の線は消えた。……けど、俺を経由して怪しいビジネスを持ちかけてくることも無くね?」
「そうだね。同窓会に来ているということは、不破が現職刑事だということも承知だろうし。……かといって、困っていることを相談したいというわけでもなさそうだ」
「そーそー。ほんとに困ってんなら、すぐ会いたいってなるだろ。来週まで待つ意味が分かんねえんだわ」
 不破は片手を腰に添えながらボリボリと頭を掻いていたが、やがて満面の笑みを浮かべ、雨月の目線までしゃがんで首をかしげた。
「うーちゃん、俺も一緒に行くから、来て」
「はあ? 嫌だよ。正式な捜査依頼でもないのに」
「別に、何か情報を吐かせたいとかじゃなくて。いざというときに、ちょっととろんとさせてくれればいいからさ」
「そんなもの、力ずくでどかして帰ればいいでしょう」
「いやいや、刑事が下手に民間人を怯えさせるようなことしたら、すぐ不祥事にされちまうんだから。警察って案外立場弱ぇーのよ。な? 居るだけでいいから。おねがーい」
 拝み倒すように手のひらをスリスリと擦り合わせる不破に、雨月は真顔のまま答える。
「じゃあ織辺さんも連れて行く」
「は!? なんでわたし!?」
 まさか話を振られると思っていなかった玲は、思わず二歩後ずさる。
 しかし雨月はなんでもないふうに続けた。
「確実に僕が森田くんの正面に座るため。三人で行った場合、ボックス席で森田くん対僕らふたりで座る形になるし、斜めからでは催眠がかけづらい。けれど、教え子が来たとなると、僕の隣は確実に織辺さんになり、不破が通路側をふさいでくれれば、僕と森田くんは壁側で対面に座ることができる」
 完璧な理論で、なんの反論も思い浮かばない。一見万能の催眠術の弱点は、目を合わせなければかけられないところなのだ。
 不破は「お〜」と感心してみせたあと、のんきに笑った。
「俺としても、玲ちゃんが来てくれると助かるな。催眠発動中にうっかり俺までかかっちゃったら、大惨事だろ?」
 地獄絵図を想像する。
 意識がとろんとした成人男性がふたり、心の奥底を打ち明け始めてしまう。
 聞いてもいない本音がダダ漏れする不破も気の毒だし、意図せずふたり分の記憶の箱を開けてしまってグロッキーになる雨月を、誰が助けるのか……。
「分かりました。わたしも同行します」

 新宿コクーンタワーの地下、サイゼリヤのボックス席。
 真面目そうな眼鏡の男性が、ちょっと困ったように笑っていた。
「不破くんも来てくれてありがとう。でも……大丈夫かなあ」
 雨月はめんどくさそうな表情で、テーブルの下では早くも、指で3の形を作っている――3は『覚えているが意図的に隠していることを聞き出す』だ。
 玲は焦って雨月の手をはたいた。そして小声で非難する。
「ダメですよっ、同級生なのに。今後も関わりがあるかもしれないじゃないですか」
 3を使うと手っ取り早い一方、隠していることを無理やり言わされたという記憶が相手に残ってしまうので、これを使った相手とは二度とまともなコミュニケーションは取れなくなるのだと言っていた。
 しかし雨月は、眉間にしわを寄せて、玲の訴えを一蹴する。
「僕は同窓会には行かない」
「そういう問題じゃ……」
 文句を言おうとしたところで、森田が手のひらで玲の方を指した。
「ええと、そちらは?」
「あー、有島が受け持ってるゼミの子。玲ちゃんっていうの、可愛いだろ」
 森田は未知の生物を見るかのように、玲と雨月をチラチラと見比べている。
 セクハラ的な目線ではないが……と思いかけたところで、この視線の意味に気づき、玲は大声を上げた。
「あっ! ふ、不適切な関係ではないです! えっと、このあとフィールドワーク的な実習がありまして、わたしは別で食事をとろうとしていたのですが先生がおごってくださるということで、常に金欠のわたしは他人のお金で食事をするのが三度の飯より大好きなのでついてきたんですよ!」
 ああ、バシ大文学部への道を応援してくれた予備校の先生、ごめんなさい。日本語が崩壊しました。
 玲が内心うなだれていることに、雨月が気づく様子はない。森田は笑っている。
「あはは。大丈夫、分かってるよ。有島先生は硬派でしょ?」
 硬派というか、硬派を通り越して固く閉じた貝状態なのだが、そんなことは言えない。
「あの、わたしお邪魔でしたら席外しますが……」
「全然居てくれていいっていうか、ぜひぜひ、現役女子大生にも意見を聞きたいな」
 森田がかばんから取り出したのは、iPadだった。
 画面にはポスターらしきものが表示されている。
「俺、広告代理店に勤めてるって言ったじゃん。いま、警視庁が若者向けの薬物乱用防止キャンペーンの企画を募集してて、うちも作ってるんだけど、心理の専門家から意見が聞きたくて」
「うわ、すまん。俺が居たらまずい話題だったのか!」
 聞けば、公共団体が企業に発注する際は、公平を保つために、コンペ形式で募集をするのだという。
 森田の会社もその入札に参加するつもりで雨月に相談しようと思ったのだそうだが、その相談の場に現職刑事がいたとなると、談合疑惑が生まれてしまう……。
 有島とふたりでというこだわりの謎が解けると同時に、森田は両手を顔の前で合わせた。
「不破くんごめん、オフレコで……!」
「おけおけ。俺は何も聞いてない。玲ちゃんとドリンクバーをタダ飲みしに来ただけだから。な?」
「あっ、はい。そうです。サイゼのドリンクバーで元取るのが趣味なので」
 森田は苦笑い気味に頭を下げたあと、雨月の方へ顔を向けた。
「で、有島くん。客観的に見て、どう? こんなので若者がドラッグやめると思う?」
 ポスターは、なんとも毒々しい色使いだった。
 原色の黄色背景に大きな赤い文字で『STOP薬物乱用!!』と書かれており、その周りには、ドロドロに溶けた脳みそが浮かんでいたり、制服姿の男女が正気を失った目で倒れていたりと、……まあ、端的に言ってセンスは無さそうだ。
 雨月は腕組みをし、微動だにしないまま答えた。
「やめるかやめないかで言ったら、これを見てもやめようとは思わないだろうね。……まあ正直、それはどのポスターにも言えるのだけど。紙切れを見て薬はやめようと思える倫理観の持ち主は、そもそも手を出さない」
「玲さんはどう?」
「あー……大変申し上げにくいのですが、ちょっと……わたしには刺さらなかったですね……」
 広告代理店のひとに意見するなんておこがましすぎるのではないかと恐縮したのだが、森田は、分かっていたというように笑った。
「だよねえ? 上司のデザインなんだけど、俺も、これはセンス無いと思って。なんとか意見ひっくり返したくて、『京橋大学の心理学の准教授に見てもらってダメ出しされた』って言えばいけるかな〜と」
「えっ!」
 玲は思わず声をあげてしまった。……いや、この展開はまずい。
 圧倒的に人格がねじくれた社会心理学者の有島雨月が最も忌み嫌うのは、権威性を持ち出して理論を押し通そうとする者、特に心理学を都合よく扱う人間が大嫌いで――要するに森田は、雨月の地雷を踏み抜いてしまっている可能性が高い。
 めちゃめちゃ怒っているのでは……と身構えたのだが、意外にも雨月は、涼しい顔のままだった。
 そして、棒読みテンションのまま短く告げる。
「不破はいま、生活安全部の所属じゃないよ」
「は!?」
 森田が目を丸くして、不破の方を見る。不破は突然の話題についていけていないようで、首をかしげているが。
「残念だったね、あてが外れて。不破は三年前に、捜査二課に異動したんだ。だから、そのドラッグ啓蒙とやらには一ミリも関わらない。確かに不破は僕の意見を聞きすぎるところがあるから、不破本人への直接的な相談ではなくても、僕が意見を出したものを会議で持ち上げてくれる可能性もあったかもしれないけども……残念でした」
「いや、いやっ。別にそういうつもりじゃないよ! そもそも不破くんに来てほしいとか俺言ってない」
 雨月がそっと、人差し指をくちびるにつける。
 そして、じっと森田の目を見つめながら、静かに言った。
「不破宛に有島呼び出しメールを送るように指示した人間のプロフィールと、言われた正確な日時と場所を教えて?」
 森田の視線がとろりと溶ける。
「株式会社アドラーク企画開発部一課、寄木和夫。四月十五日午前――」

 コクーンタワーから地上へ上がると、空は夕焼けに染まっていた。
 不破が肩を貸す形でズルズルと引きずられる雨月の顔は、体内の色素というものが全て失せてしまったかのような蒼白だった。
「うぅ……広告代理店の営業職の男に催眠なんて使うんじゃなかった……」
「雨月先生、大丈夫ですか? お水飲みます?」
「ドリンクバー飲みすぎて気持ち悪い」
 きょう三人は、催眠術に関して新たな知見を得た。
 口が達者すぎる相手に催眠をかけると、雨月が質問のつもりではなかったものまで汲み取って、ペラペラしゃべってしまうらしい。
 恐ろしい速さで体力を消耗していった雨月は、完全にグロッキーだった。
「あはは。まー、よかったじゃん、新しい実験結果が分かって」
「やっぱりこんな忌々しい能力、死んでしまえばいい。こんな、非科学的な……う」
「タクシー呼ぶか」
「え!? わたし乗れません!」
 雨月と不破と関わり始めてから、タクシーに乗る回数が増えた気がする。
 質素倹約が染み付いた玲にとって、タクシーの料金メーターは天敵であり、まだまだ慣れないのだが。
「ま、ふたりのおかげで、談合事件が未然に防げたってことで。市民の皆様、ご協力ありがとうございました」
 全てを録音した不破は、このまま警視庁本部に戻り、この件を報告するという。
 不破がこんな調子なので忘れそうになるが、警視庁捜査二課は、企業の不正を暴く精鋭部隊なのだ――よりによって異動先が二課だなんて、森田はついていないと思う。
「雨月先生、回復してください。わたしタクシー乗りたくないです」
「君と一緒に帰りたいなんてひとことも言ってないよ僕は」
 そういうところが! うちの弟妹と変わらない駄々のこね方だというのに!

(了)

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