ツイッターで書いた妄想物語19

7/20
人類がサイコキネシスを使えるようになったのは、いまから2万年ほど前に、疫病が蔓延したからだと言われている。
かつての祖先たちは、家族に罹患者が出ると、一日中共用スペースの消毒と換気に追われていたのだそうだ。
念力が使えるようになった理由は2つの説がある。
1つは、疫病に罹ることを防ぐためにモノに触れないよう生活しているうち、自然と念力能力が備わったという説。
もう1つは、疫病そのものにDNAを変異させる何かがあったという説。
何にせよ、人類がゆるやかに「触れる」という機能を捨てていくことで、疫病は終息した

……そんな夢を見ながら、せっせと消毒作業に励む夜

(了)
8/18
「あーまじで無駄なことしたわ。クソ」
石ころを蹴飛ばす友人を見て、僕は密かに思う。
人生に無駄はなく、そのときに意味が分からなくても、数年後に『あ、あのときのあれだ』ってなったりするのだ
すぐに結果が出ないものを無駄だったと切り捨てるのは、運命に対しておこがましい行為である
本当に、人生の最後の最後の瞬間まで、いま目の前で起こしたこれが無駄で終わると言い切れるのか? 寿命の最後の瞬間が見えるのか?
僕がじっと見ていると、友人は半眼で言った
「お前のそういうマジ無駄なこと考えてそうな顔うける」
「うっせぇバーカ」
無駄な言い合いとは言い切れないはず
(了)
8/20
夢の中で、「じゅんすたいままで歴史的コンテンツに全然触れてこなかったんだよなー」って言ってて、不意に「あ、おじゃる丸ずっと見てた!!!」ってなり、もしかして江戸も何かあるのでは……って考えて「ぜんまいざむらい!!!!」となったところで起きた

江戸じゃなくてからくり大江戸だけどな
8/21
壁掛け時計が遅れ始めて3日。徐々に弱っていくように、スイープ秒針が、1秒間を1秒以上の時間をかけてのろのろ進むのを観察している。
6→12に上るときは苦しそうに見えるし、12→6は足腰に自信が無くてこわごわ下りているように見える。
完全に止まったら電池を替えようと思う。それまでは、スマホで実際の時間を見て仰天すればいい。
(了)
9/27
(全く記憶にないメモに書いてあった「理性が家出しそう」という文を使うことを試みる)

「僕が絵を描けたのは、不具合だらけの15年の人生で溜めてきた苦しみや不幸を書き写していたからってだけなんだよ。3年間描き散らして、ある程度の名声も得て、不幸体験を切り売り切り売りしていった結果はどうだ? もう描くものが残っていない。15年をすっからかんに消費して、燃えかすみたいになって何もできなくなって引きこもって……僕が次に絵を描けるのは、15年後なのか? また15年劣等感を煮詰めて暮らせば3年くらいはもつ? そのころに僕の需要はあるのか? 画壇に僕の居場所なんてあると思うか?」
母親を罵り続ける僕の理性は、どこかへ家出してしまったのかもしれない。僕自身は一歩も外に出られないのに。
僕を俯瞰する外側の僕と、絵に過剰な期待を寄せる母親に腹を立てる内側の僕が、乖離していく。
芸術のセラピーなんて死んでしまえ。僕が癒されたなんて思うな。僕はただ、不幸を紙に転送していただけなんだ。

(頑張ったけどやっぱり使いこなせなかった)

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