にはとり
僕はよくわからないたまごから生まれ、自分で自分を定義しなければならなかったので、自らを『にはとり』と名付けた。
意味は特になくて、なんとなく僕の顔がそれっぽいなと、揺れる水面を見ながら思っただけだ。
僕はにはとりとして、生まれた橋の下で二年ほど生きた。
ある日、川の向こうから舟がやってきて、僕を乗せていってくれることになった。
僕は橋の下の友達に別れを告げて、向こう岸へ行った。
そして出会ったのだ。『にわとり』と。
僕の住んでいた橋の下とは違って、こちらの岸にはたくさんの人々が住んでいた。
にわとりはこちらではよくある名前らしく、たくさんいた。
僕はまるで自分が偽物のような気がしてきて、にはとりをやめたくなった。
別に誰かにいじめられたわけでもないし、不便をしたわけでもない。
気にせず生きられればそれでよかったのかも知れないけれど、どうしても僕は、『にわとり』ではない『にはとり』の自分が、こちらの岸のひとを混乱させるのではないかという、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったのだ。
僕は悩みに悩んだ。
うしろの「とり」は、羽が生えている自分をよく表していると思うので、変えない。
ということで、「自分は何とりなのか」という哲学的問題に取り組まなければならなくなった。
水面を眺める。どう見ても、にはとりなんだけどな。
適当につけた名前は結構気に入っていて、顔も性格も、にはとりという少し間抜けな響きが似合っているように思える。
やきとり、ちりとり、のっとり、べっとり……
ありとあらゆる二文字のひらがなを前につけたけれど、どうにもしっくりくるものはなく、これはいいと思ったものはたいてい、既にあるものだった。
僕は何とりなんだろう――
やけくそ気味に『なにとり』と名付けようとしていたところに、噂を聞きつけたにわとりがやってきた。
「やあ、君、にはとりやめるんだって?」
「うん。いま新しいのを考えてる」
「なぜ変えるの? いいじゃない、にはとり」
「恥ずかしいよ。橋の下で生まれたから知らなかった田舎者みたいな感じもするし」
「誰もそんなこと思わないって」
にわとりは、くーっと首を伸ばしてストレッチをした。
「名前が似てて事件が起きるなんて、古今東西どこでもあると思うけどね。有名なのは、サイとサメ字面似すぎ問題かな。厚生労働省の文書が流出したと思ったら、サイとサメを混同していたために予算に大きな食い違いがあって、でも調べたら、当時臨時雇用していた派遣社員がわざと起こした大規模改ざん事件だったんだ。そこから次々黒いお金が出てきて、最終的に首相が辞任になったよ」
その話を聞いて、僕はますます、にはとりをやめたくなった。
自分の知らないところでそんな混乱を起こしてしまったら、精神が耐えられそうにない。
……でも。
「あのね。本当は僕、にはとりっていう名前、気に入ってるんだ」
「へえ、ならいいじゃない」
「でもやっぱり、『にわとり』だらけのこの土地で『にはとり』を続けるのは、恥ずかしい」
橋の下に帰ろうかなと思ってる。
そう伝えると、にわとりは、ぱちぱちとまばたきしたあと、小さく「コケッ」とつぶやいてから言った。
「わかった。いいこと考えた。あのね、にはとりを増やせばいいんだよ」
「……増やす? どうやって?」
「ほら、たまに生まれるだろ? よく分からないたまご。あれの名前を全部『にはとり』に統一してしまえばいいんだ」
「そんなことできるはずな……」
僕が言い終わるより先に、にわとりがパサっと羽を広げた。
もこもこの手羽先の中には、USBメモリ。
僕が目を瞠ると、にわとりはニンマリと笑った。
「そうだよ。お察しのとおり、サイサメ問題を起こした犯人は――」
*
「……というのが、この『にはとりハウス』ができたきっかけなのじゃ。皆には内緒じゃぞ」
「はい! おじいちゃま!」
僕の秘密をすっかり聞き終えた少年は、羽をばたつかせながら、園庭に戻っていった。
もう、七十年も昔の話だ。
僕たちは、謎の出生を遂げるたまごを集め、引き取り、育て始めた。
せっせと赤ちゃんの世話をする僕の横で、パチパチとパソコンのキーボードを叩いていたあの横顔が、忘れられない。
僕を含め、無国籍状態のたまごたちに名前を与えるのは簡単だった……と、にわとりは言っていた。
リクライニングベッドの背を起こし、はしゃぐ子供たちを眺める。
咳き込むと、水色の手羽先に鮮血が散った。
僕はまもなく死ぬだろうが、にはとりハウスで一番おしゃべりなあの少年は、きっと皆に、このことを話してくれるだろう。
こんな僕を『にはとり』として生かしてくれた彼の元へ、僕もまもなく逝く。
ベッドサイドにいつも置いている、六十五年前の新聞。
三面の隅には、国政を混乱に陥れたにわとりの死刑執行が、小さく報じられている。
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