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「マーキュリー・ファー」を見た。とんでもないものを見た。

 何かを言おうとして無限にいらないことを言ってしまいそうな作品だった。
 地元公演に喜んで赴いたはいいものの、事前情報を殆ど仕入れずに臨んだため、終劇後のえもいわれぬ脱力、放心、ままならなさ、やりきれなさに寄り道もできず帰る羽目になった。主観で述べる感想としてはまさにこの一言に集約されるのである。とんでもないものを見てしまった。吉沢亮が言っていた通り、かなりとんでもなかった。

 その「とんでもなさ」が何に依拠するかは諸説ある。2005年のイギリスで初演された舞台である。数字にして実に今から17年前。17年前の恐怖、対立構造、醜悪な加害が今の時代に至ってなお、パラレルな別世界の事象ではなく「この世」にあるものとして感じ取れたことは大きい。生きている世界の話として直接伝わってくるので、観客は終始ひりついた気持ちで舞台を眺めることになる。生々しさが息を詰まらせ、想像力を掻き立ててくる。そうあってほしくないという「逆」の理想を尽く実現されるので、己の中のどこかボケた部分をぶん殴られて打ちのめされる。
 それでなくとも主演は吉沢亮と北村匠海という若手を代表する名優。イケメン俳優の呼び声も高く、熱狂的な女性ファンも多数いるだろう(自分もその括りに入ってないとは言えない)。その2人がこの難役に臨んだ、誤魔化しのない本気ぶりもまた見どころ。そして兄弟役、互いの運命を握るソウルメイト役など今までのフィルモグラフィが物語る信頼関係で裏打ちされ、メタ的な説得力も強い。エリオットが吉沢ならダレンは北村で、もしくはダレンが北村ならエリオットは吉沢で、と囁いた人がオタクだけではなくおそらく制作サイドにもいた事実が嬉しい(憶測)。

 話のわかりやすさという点に絞るなら、なにか複雑なギミックがあるというわけではない。「姫」が誰なのかも予測がつきやすいし、世界観は徹底してわりと不説明なので、考えるより感じる構造になっている。
 搾取され抑圧され、善悪の判断が曖昧なまま体だけ大人になったようなダレンの甘ったれぶりと、ダレンの兄であることがひとつ自分のアイデンティティになっているかのようなエリオットの危うさ、それを取り巻く周りのゆがみが多層構造になっているので、キャラクターへの理解を深めることが即ち作品の理解につながっていく。
 また作者コメントを参照するならば、この作品が出来上がった背景に2003年のイラク侵攻があるのだという。現実の戦争がフィクションのベースになっている例は世界にいくつも例があるが、現実の戦争を題材として出来上がった作品の上演中に新たな戦争が始まった例はそう多くはないだろう。多かったら困る。そういうわけもあって、フィクションでありながらフィクションである以上の訴求力を持ってしまった。個人的にはこうした読解はあまりしないようにしているが、演者のSNSを見ていると「マーキュリー・ファーが持っているメッセージ性」という話をしていたので、寧ろそう受け取られることを意図して表現していたのだろうと解釈したい。

 普遍的な兄弟愛、家族愛に贖罪意識とトラウマが絡み、性的に未熟で判断能力も拙いダレンを守るべく、肩肘張っているエリオットの最後の行動。彼らの役は声に力のある役者でないと成り立たない重みがあり、彼らの痛切な声の力が観客の情緒を揺さぶっていた。そういう意味では、このイギリスで生まれた舞台が日本において、日本語で上演されて、日本語話者の聴衆に訴えかける力を持ったのは非常に意義深いことである。舞台には原語でなければ伝わらない部分と、母国語でなければ感じ取れない部分がそれぞれあって、今回こうして和訳で上演された舞台には後者の魅力がふんだんに生かされていた。

 分類としては非常にビターな話だったが、それだけ考えさせられ、咀嚼させられ、常に鑑賞したときのことを考えてしまうコンテンツだった。舞台が千秋楽を迎えてから1ヶ月が経とうとしているが、まだまだ終劇後に味わった砂を噛むような感触は健在であり、折に触れてパンフレットを読み返してしまう。読み返しながらエリオットのことを考え、ダレンのことを考え、その度に崩落の音と砂の味がする。自分自身普段は映画を見ているため観劇の経験はそう多くはないのだが、この経験が後の観劇に響いてくる側面もまた否めないと思った。

 また、これは個人的な嗜好になるが、あまり「美しすぎない現実のヨーロッパ」が好きなので、退廃的で薄汚れていて、朽ち果てて燻んで淀んだ都市のイメージを舞台上で再現されたのはかなりポイントが高かった。きっと日本から想像で描くとああはならないし、その生々しさが物語全体に現実味を帯びさせるのに作用した部分は大きいと思う。
 拡張した現実が望まない裏打ちを与えてしまった今の世の中ではあるが、たしかにあの場に生きていたダレンやエリオット、傷ついていた周りの大人や若人が、その生き様でもって鑑賞者に与えた影響は甚大である。

 真面目な感想を書いてしまったが、ひとつだけ欠点というか残念だった点を挙げるとすれば、「マーキュリー・ファー」の柿落とし公演記事の中ですでに、終盤のダレンとエリオット(血まみれのつなぎ…)のシーンを一枚の写真として掲載してしまったことである。あれはもうネタバレというより、あの一枚であの作品の肝になる部分を伝えてしまっていたように思う。あのシーンに演者たちが至るまでの2時間の軌跡を目の当たりにしてほしい。叶うことならこの作品にまつわるすべてを記憶から消して、まっさらな状態で見に行きたいもの。多分そうしたらこの先数ヶ月は心の底から引きずるんだろうが。

 以上です。最後になりますが、この世のすべての殺し合いが正当化されず、そもそも死なずに済むことを心の底から祈っています。

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