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皮を剥いたリンゴ、中芯抜き。

私が小さかった頃、母は一度だけ寝込んだことがある。
今、考えてみればインフルエンザだったんだと思う。
病院へ行ったのだろうか。それすら記憶にない。

母は基本、とても丈夫な人で、お腹が痛くなったこともなく、怪我をしたこともなく、もちろん入院もしたこともなかった。風邪くらいで寝込む人ではなかったので、残りの家族(父、姉、私)は、高熱を出し、ふとんから全く起き上がれない母に戸惑った。

今なら、タクシーを呼んで病院へ連れて行く。もしくは往診を頼むだろう。しかし、私の父は、社会性にかなり欠落しているところがあって、具合が悪いなら、寝ていればいい。としか考えないようなところがあった。

母が寝込んでしまうと、まず、食事に困った。

私がなんとかいたしやしょう。

と、言えるほど、私はオトナでも、しっかりもんでもなかったので、大海に放たれたような幼稚園児は、ひたすら呆然とするばかりだった。

ギリギリまで悩んだ父が、見よう見まねで、夕飯を作りだした。
何を作ってくれたのか、全く記憶にないが、ものすごく美味しくなかったことだけは覚えている。

米を研ぐ。水の量を計る。火にかける。

そんな手順さえ知らない父は、意識が朦朧としている母にご飯の炊きかたを聞いていた。
母があの状態で、うまく説明できたとは思えないし、いくら伝えたとしても、即席麺すら作ったことのない父が、きちんと炊けるはずもなく、結果、芯だらけの硬いご飯が出来上がった。

おかずは何だったんだろう。それも覚えていない。
ただ、味がかなりいい加減で、何を食べているのかさっぱり分からなかった。砂糖と塩を間違えたり、分量もかなり適当だったと思われる。

そのあまり美味しくないご飯が、朝昼晩の3回が3日くらい続いたが、なかなか母は元気にならなかった。一日がとても長く、幼い私は、このまま母に捨てられるような気がしていた。

そう、私は恐ろしいくらいの母っ子だった。
父は姉にも私にも愛情を示す人ではなかったし、躾と言って、よく殴られていたから、とにかく怖かった。

ひとつだけ思いだせるのは、
父が剥いてくれたリンゴだ。

剥きかたが、母のそれとは違っていた。

まず、リンゴを縦に割る。
上と下のヘタを取る。
皮を剥く。

ここまでは同じ。
その後、母はそれをまた半分に割り、芯を取り皿に盛る。

父は、ふたつになったリンゴの真ん中に残る芯を、包丁の角を駆使し、くり抜いた。
ご飯すら炊けない武骨な太い手が、やりにくそうに小さなリンゴを扱う。眉間にシワを寄せて、まるで芸術作品を作るみたいに。

お父ちゃん、そこ、取らなくてもいいんだよ。
皮だけ剥いてくれればいいよ。

私はそう言ったが、聞こえてるのかいないのか、悪戦苦闘の末、

「皮を剥いたリンゴ、中芯抜き」

という、作品が出来上がる。

そして、私に差し出すのだった。
幼稚園児が食べるには大きすぎる半分の大きさのリンゴを。皿にも載せず、たった今、剥いたばかりのそれを私の目の前に。

ご飯は炊けない。でもリンゴはこんなに丁寧に剥くんだな。

そう思い、丁寧に食べたのを覚えている。

4日目になり、隣のおばさんが、栄養ドリンクを何本か持ってきてくれた。そういうものがこの世あるということを知った瞬間だった。

父の作ったご飯を食べられなかった母は、栄養ドリンクをチューチューと、それはそれは美味しそうに飲み、メキメキと元気になった。
数十年経った今でも、

「あの時の栄養ドリンクは、本当にありがたかった」

と、母は言う。
丁度、回復期になっていたんだと思うが、父のご飯のことは一言も触れずに、栄養ドリンクだけを褒める。
最も、母は栄養ドリンクを飲むまでの3日間、殆ど食べ物を口にしていなかったかもしれない。

ご飯を食べるという行為は、
生きていく決意そのものだ。

あの日、ひたすら重苦しい空気の中で、それでも硬いご飯を無言で噛み締めたのは、共に生きてゆこうという無意識の決意だったと思う。
家族が揃って食卓を囲むのは、チームだからだ。
最近は、仕事や塾通いで、仕方なくバラバラに食事をする家庭も多いが、家族は出来るだけ一緒に食事をしたほうがいい。

お茶も淹れられない父が、料理をしてくれた3日間は、今も尊く忘れがたい。
あの硬いご飯で、私達は生き延びた。

そして、あの芯抜きリンゴは、父の詫び状だったのかもしれない。
芯だらけのご飯しか炊けなかったけど、せめて、リンゴだけは丁寧に剥かせてくれ、と。

うん、ありがとう。
芯はそのままで良かったんだけどね。




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