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カエルみたいな目になるまで泣いた話。

昨夜は、久しぶりに泣いた。
朝、鏡を見たら、結構な感じで瞼が腫れていた。
カエル。しかもガマガエル。

ケロケロ

2年前、父が亡くなった時、うまく泣けなかった。
入院してから亡くなるまでの2ヶ月間のほうが、泣いていた。
亡くなるかもしれないという恐怖と、受け入れなきゃならない悲しみに、毎晩、目をつぶってから泣いていた。
正確に言うと、泣いていることに気がついた。
目をつぶっているときは、涙が溢れていることに気づかない。ふとした拍子に目を開けたら、瞼の中に溜まっていた涙が頬にこぼれてきて、やっと自分は泣いていたんだと気がついた。

この時期が、一番、つらかったな。

亡くなってからは、やることが多すぎた。
病院は臨終を告げてすぐに「何時に病院を出ていけますか?」と、聞いてきた。

ああ、無情。

ちょっと待って。今、亡くなったばかりですよ。
覚悟はしてたけど、亡くなってからの準備などしていない。
その前に、まだ、この事実を受け入れていない。
仕方がないことだけれど、システマチックに事を運ぼうとする病院に、悲しみと苛立ちさえ覚えていた。

葬儀屋を決めて、父を実家へ運んで「おうちに帰ってきたよ、お父さん」なんて言ってすぐに、お通夜と葬儀の日程や、香典返し、参列者の人数など、葬儀屋とその日のうちに決めなきゃならないことが山ほどあった。

人生は、選択、選択、選択の連続。
どんなに辛い瞬間でも、選択を迫られる。
こちらのタイミングなどお構いなしに。

あれから、泣いていなかった。
実感がなくて。
虎のように君臨する我が家の長がいなくなり、一家は、まさに一本の太い柱を失ったように、残りの母、姉、私の3人で、どうバランスを取ればいいのか迷っていた。

そんな、2年間。

私は、長い間、東京で暮らしていた。父が亡くなった後も東京へ戻り、作詞の仕事をしていた。
ほどなくして、コロナの蔓延が始まり、半年前に宮城の実家に引っ越した。父のいなくなった実家に姉はいるが、いつまでも姉も若くない。高齢の母を姉ひとりで世話するのは、大変だろうと考えた答えだった。

それが正解だったかは、今は分からない。

今でも時々、夜中に叫びだしたくなる。
母も姉も幸い健康だし、贅沢をしなければ、生活には困らない。作詞の仕事も、メールでやりとりできる。

ただ、実家に、この町の環境に、馴染めない。
実家とは言え、私が住んだことのない町。生まれてから東京へ出るまで、転勤族だった我が家は、様々な地方に暮らした。
定年間近になって、やっと生まれた町に戻り、父が建てた家。それが今の「実家」だ。私にとって、「戻ってきた」という実感は、まるでない。
コロナ禍もあるが、知り合いの全くいないこの町で、家族以外の人間、つまり、姉と母以外の人と、半年くらい話をしていない。

人間というのは、誰かに話すという行動によって、自分の気持ちに気づいたり、確認したり、決心するものなんだと、こんな歳になって気づかされた。

そんなストレスを溜めた日々。

昨日は、叔母に宅急便を出した後、仕事場にしているアパートに戻った。実家から徒歩10分の距離。

ひとりにならないと、ダメになる。

職業柄か、そういう性格だから作詞家を選んだのか、ひとりの時間がないと、自分が自分でなくなるような気分になる。
「ひとりきりで、寂しい」と、感じたことがない。
多分、本当の孤独を知らないからなのかもしれない。

アパートの寝室から、協会の屋根が見える。
夜には十字架が赤く色付き、眠る前に一日の感謝と懺悔をいやおうなしにしたくなる。

叔母に送った宅急便が、明日には無事着きますように・・・と、祈っていた時だった。

父が私の宅急便を出す手伝いをしてくれたことを思い出した。
あれは何年前だったんだろう。
父が大好きだった車を手放した後で、認知症にそろそろなりかけていた頃だから、おそらく6〜7年前だろうか。

その年も、お正月休みに実家に戻り、明日、東京に戻るという日だった。
身軽に電車移動をしたい私は、実家を往き来する時にも、荷物をいつも宅急便で送っていた。
小さなダンボール箱に洋服を詰め、コンビニに行こうとした時、父が、
「俺が持って行ってやろう」
と、キャリーカートというのだろうか、我が家が「コロコロ」って呼んでるやつ。
それを持ってきた。

どうしたんだろう。
娘のやることに一切、無関心で、こちらのお願いごとなど、何ひとつ叶えてくれたことがなかった父が、この日は宅急便を運んでくれると言う。

「大丈夫だよ。箱、小さいし、コンビニすぐそこだから」

小さい頃に、何も叶えてくれなかったくせに・・・と、ひねくれた気持ちになっていたのもそうだったが、最近、足腰が弱くなった父に、手伝ってもらうのは、申し訳ない・・・と、やんわり断った。

しかし、父は、ついてきた。
曲がりだした腰のせいで、いつのまにか背の高さが私と同じくらいになっていた。
私が持つと言うのに、俺にまかせろ!と、父は使い慣れないコロコロを引きずっていた。

コンビニまでのたった5分ほどの道で、父と何を話したのだろう。

何ひとつ思いだせない。

コンビニに到着し、
荷物を降ろす。
紐を解く。
父の動作は、全てゆっくりで、ぎこちなかった。
コンビニで宅急便を出すなんて、やったことがないのだと思う。
私がやれば、あっという間なのに・・・
手伝ってくれなくても大丈夫だったのに・・・

「お父さん、レジ前だから、邪魔になるよ。ちょっと、場所、変えたほうがいいよ」

と、私は、ちょっときつく言ってしまった。

「ああ、そうか」

と、これまたゆっくりとした動作で、括っていた紐を本体に戻しながら、父はそう応えた。その作業に集中し、場所を移動することまで、気が回らなかった。

後から入ってきたお客さんの邪魔になり、
「すみません」
と言った私の声に、父が慌てて顔を上げた。

その父の瞳が浮かび、涙が止まらなくなった。

あの瞳。

小さい頃から、どんなにひどいことを言われても、父のあの寂しそうな瞳を見ると、かわいそうでたまらなかった。
何故なんだろう。
笑っていても、父はいつも寂しそうで、それが子供の頃から謎で、父のことを愛せないのに、私が庇ってあげないと、父は誰からも愛情を掛けてもらえない。
という複雑な感情をずっとずっと抱いていた。

その瞳が、私を見上げていた。

ちゃんと愛されていたじゃないか。

何故、気づかなかったんだろう。
何故、「愛され方のスタイル」を求めていたんだろう。

コンビニに一緒に行くという、たったそれだけのことが、今はもう、叶わない。

涙が溢れて溢れて止まらない。

亡くなるまでの二ヶ月の入院中、父は何度も危篤になり、何度も乗り越えて見せた。
その「命の強さ」を見せつけ、父は、最後にして最大の愛情を表現していたのだった。

病院に呼び出され、
「今夜が峠です。今のうちにお話したいことがあれば・・・」
と、担当医に言われた瞬間でさえ父は、
「心配するな。すぐ元気になるから」
と、途切れ途切れに伝えた言葉が、今も忘れられない。

約束通り、父は回復した。
そのときは、だ。

何度目かの危篤を乗り越え、その日、父は病院でお風呂に入れてもらった。
暖かいお湯の中で父は、何を思ったろう。
おそらく、この世の全ての塵や汚れを全て洗い流したのだろう。

翌日、父は安らかに旅立った。

どんなに愛し合えないと思う家族でも、何かの約束をして、この世で会うことを選んだのだ。
父が叶えたかったもの、
父と叶えたかったもの、
それはきっと、また続いてゆくのだろう。
あちらの世界で。
または、次の人生で。

父と最後に話した言葉を思い出す。
もう、口元も筋肉が衰え、何を話しているのかよく分からなくなっていた。

父が何かを言った。
「お風呂に、入りたい」
そう、聞こえた。

「お父さん、お風呂に入りたいの?ずっと入っていないもんね。明日、入れてもらえるよう頼もうね」

私がそう言うと、とんでもなく呆れたと言う表情で、もう一度、声にならない声を父はしぼりだした。

「おふくろに、あいたい」

父は、そう言った。

最後の最後に。

父の94年という人生、彼はずっと母親に愛されたかったたのか。だから、あんな寂しい瞳をしていたのか。

何も言ってあげられなかった。 
私には、どうしてあげることもできなかった。

あちらの、世界で父は母親に会えたのだろうか。
注いでもらえなかった愛情を今は受け取っているだろうか。
もう、こちらの世界に思いを残さなくていいよ。
お母さんに会えて幸せなら、私もこんなに嬉しいことはない。

そして、また探すんだろう。 
生まれ変わっても、誰よりも寂しい瞳をした人を。
私のこの瞳で。カエルみたいになっても、この瞳で。

そのときは、ちゃんと伝えられるようになりたい。
あなたは、ちゃんと愛されている人間だと。






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