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ゴッホの青い手紙 45

  テオよ。僕がアルルに来てしばらくしてマウフェの急死を知った。僕は「花咲くモモの木」をマウフェへの贈り物として描いた。君の可愛い子供が生まれた時も僕は記念にアーモンドを描いた。あの様な絵を描くとき僕はある意味ホッとする。モモやアーモンドを描きながらマウフェや君の息子を思いながら描いている。いつもの絵を描く気持ちとはだいぶ違うのだ。良い絵を描こうとかそんな気持ちが無く描けるからなのか?不思議な気分だ。
 いずれにしても、アルルの二年間は僕にとって幸せな時間だった。ジヌー夫妻も良い人だった。僕はあの頃健康を害していたがジヌー夫人の料理ですっかり体調も良くなったしね。ルーランとも友達になれた。彼は凡庸に見えるが、ある意味賢者ではなかろうか。ソクラテスに似ている。何となくそう思う。
  話は変わるが、いったい全体今僕らのこの時代をどう捉えれば良いのだろう。僕にとって絵とは何だ?この時代で絵を描くとは何なのだ?と考えることが最近多い。迷いではないよ。僕らにとって中世、古典、ルネサンス、ロココだとか、なんとか派とか関係ない様な気がする。たぶん美術学校に行けば美術史とかを習い、ルネサンスの画家は誰だれで千五百年代千六百年代の主要画家は誰だれとか習うのだろうな。僕はそんなもの意味はないと思う。
 

   ルネサンスの画家が「わたくしはルネサンスの画家でございます。」とか言ったわけではないだろう。現代だってそうじゃないか。私は「印象派に所属いたします。」なんて印象派の画家がいるかい?みんな違うじゃないか?僕は印象派かね?そんなこと考えたこともない。ゴーギャンは印象派じゃないだろう。ドガだって印象派じゃない。派ということは無意味だ。芸術家は己の表現をするだけだ。美しいと美は違う。美しいものを写し取ることが美ではない。醜いものでも美を見出すのが芸術であり美術なのだ。


  話が逸れた。僕にとって美術史の変化点はルネサンス以前以後くらいだ。その二つで充分じゃないかと思う。ルネサンスからやっと抜け出す時が今なのだと思う。アングルが最後の悪あがきかもしれない。蝋燭は消えるとき燃え上がるものだ。マウフェもどちらかといえばその終焉に位置する画家の様な気がする。この時代に生きた人間としてはとりあえず成功者といって良いだろう。芸術家としての真価はそれこそ歴史によって洗い出され残るものは残るのだ。


  僕がイギリスに行ったころイギリスは世界でも稀に見る国だった気がする。運河は整備され鉄道はひかれ、木炭から石炭全盛期、農民は金を求め都会に出てくる。石炭の需要が高まり炭鉱夫は劣悪な環境で働く。富めるものは益々富、貧しいものは時間の余裕すらない貧しさに陥っている。みんな見て見ぬふりをしている。何かがおかしい気がする。この異常な状況、状態をおかしいとは思わないのだろうか。町は煙に覆われ息苦しくて仕方がない。

    一体この世界を動かしている富は何なのだ?意志は何なのだ?奴隷貿易や、勝手な理由付けで世界を荒らしまわり奪い取っているだけではないか?そのお先棒担ぎが、もしかしたらキリスト教なのではないかと最近思うようになってしまった。僕の求めているのは原始のキリスト教なのだ。いやキリストなのだ。僕はキリストの弟子になりたい。聖書のキリストこそ心理なのだ。西洋人が偉い訳じゃない。勘違いしている。日本の浮世絵をみて僕はそんな気にさせられた。あれだけの深い文化を我々は汚してはならない。

 浮世絵を見て完膚なきまでに叩きのめされた。僕らは負けを認めるべきだろう。植民地など我々の思い上がりだ。僕は進化論など信じない。堕落論なら信じるがね。人間は人間だ。猿ではない。猿は猿。人間だけが唯一猿以下に成れる生き物だって事だけは確かだ。人間が最終的に一番進化した生物だと思い込む事こそ恐怖なのだ。思い上がりなのだ。もしかしたらこの世の中で聖職と言えるのは画家だけなのかもしれない。それもほんのひと握りの人間だけに与えられるものなのかもしれない。

 僕は少しばかりの癇癪の真似事で精神病院に入った。そこだけが安住の場所なのだ。ある意味折り合いをつけなくて良い。食事に虫が入っていたってかまわない。僕はパンとチーズだけで生きてきた。生きていられた。僕は人生を棒に振ったとは全く思っていない。世間の人々の方が監獄に入っているのだ。正常も数ある狂気のひとつなのだ。ただそれだけのことだ。何も変わりはない。今の、この境地こそ僕に与えられた奇跡の瞬間なのだ。この奇跡の時間を無駄にはできない。描けば良いだけだ。こんな単純で安定した境地は素晴らしいことだと思わないかい。神は神羅万象全てのものを造られた。人間だけではない。

  人間こそが神の領域を勝手に飛び出した大バカ者なのだ。頭でっかちのフヤケタ脳みそ。真の仕事など十年もあれば十分だ。そろそろ十年になる。私はどんな派でもない。私自身以外の何物でもなく自分を表現しきった。種を撒き生み出したのだ。女性は生命を生み出せる。僕は男だが僕の表現を生み出せた。それ以上何を望むことがあるだろうか。そろそろ幕引きだ。幕引きと幕開けが同居する世界の始まりだ。僕はヴィンセントだ。「勝利者なのだ」テオよ。ありがとう。心から感謝するよ。青い手紙なので、お願いする。

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