だれのために、なんのために。

職場は人生の帳尻を合わせてはくれない。
公僕として、市民のために働くという高い意識を持てという。
そうやって、自分に合う合わざるに関わらず置かれた場所で懸命に働き、順調に出世したとして、60歳になれば役職定年という問答無用の降格だ。
残っていてもいいですよ、と懐の深いことをいうが給料は長年の労に報いることなく勝手に大きく削られる。
そして、65歳まで定年延長という一見優しげな誘いに乗らず辞める決断をした場合、一身上の都合により、という退職願が必要だという。
この期に及んでもまだ、勝手に辞める人扱いという無情。
いいですか。
1番は、自分のために働くのであって人のために働くのではないのです。
自分を仕事にぶつけて、手応えを感じて万能感や無力感を感じてもなお、辞めるという考えすら浮かばないなら、それはまだ辞め時じゃない。
何も無い、むしろいたって平穏なのにそこしれぬ虚無感、無能感を感じるなら、卒業する時だ。
ここではないのだ、もはや私の居場所は。
この職場の成れの果てを見て、私がそこに至る道で遭遇するであろう難所を考慮したら、リタイアする選択は正しい。
膝を壊している場合じゃない。
この道は一本道。戻ることも出来ない。
そしてゴ-ルテ-プも見えない。
仕事を辞め、あの無敵だった私に戻るリハビリをする。
自分を世界に打ち出して臆することの無かった自分を取りもどす。
曇った心で歩みを止めなければ、間違った道へ迷い込んでしまう。
きれいな空気を吸って、思う存分引きこもって、飽きるほど休む。
そうしているうちに、着込んできた社会向きの私のガワが剥がれていく。
新しく生まれる私は、大人でありつつ子供だろう。
あと数日で、私はこのステ-ジを出る。

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