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【苦痛】〜麻友子と瑠美〜

MonoeJun小説集。
(約55000文字。読了見込時間は個人差考慮で40〜65分)

〜◆〜

目を閉じても恍惚の閃光が白く眩く広がっていた。
佑志が深く深く繋がってくる。体を重ねながら、幾度も引いては寄せる快楽の波。互いの肉体に宿るすべての歓びを貪り合った。
このまま…このまま時が止まればいい…
麻友子は思った。
やがて絶頂へと浮上する。

〜◆〜

「うわっ」
ホテルを出ていきなり吹きさらされた、外界の冷たい風に麻友子は顔を俯かせた。
風は麻友子の長い髪を滑り、洗いたてのチープなアメニティの香りを辺りに漂わせる。

「いい香りだ。また君が欲しくなる」

背後から佑志が言った。

「ふふ、ありがと。私もよ。ほら、誰かに見つかるとヤバいでしょ?サングラスをかけなさい」

振り向いた麻友子は佑志のジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出し、佑志にかけてやると彼の首に腕を回した。

「離れたくない…」

佑志は麻友子の腰に手を置きキスをした。麻友子の体は再び温かい火照りを覚える。
遠くから夜の街の喧騒が、鳥のさえずりの様に耳元へ届く。都会という森。日常という鳥達…
それすらも霞む、そこは二人だけの甘い桃園だった。

〜◆〜

その月曜の朝はいつになく慌ただしかった。冬の名残と春の気配の交錯する三月。「坂上会計事務所」はクライアントの年度末決算の対処に追われる恒例の繁忙期に加えて、月末に退任する父親の引継ぎ業務に麻友子は追われている。

「社長、川崎電設の書類、デスクの上に置いておきましたよ。
お忙しいでしょうけど先方の渡邉さんもね、新生活スタートの稼ぎ時で立て込んでるんだって、焦ってましたよ。早目に目を通してやって下さいね」

部下の加藤の口から、佑志の会社の名前が出て、小さな針で心の経絡を突く感覚があった。平静を装って麻友子は返した。

「加藤君、やめてよ。まだ父がいるのよ」

「何言ってるんですか。もう今から呼ばれ慣れして下さいよ。僕も呼び慣れしたいし。
楽しみですよ。自分の事務所の新しい社長が才美備えた若き女性社長と注目浴びるのが」

加藤は無邪気に戯けた。
麻友子は薄く笑みを浮かべて、デスクに目を向けると山積する書類。さぁ、今日も新しい週のスタートだ。麻友子は自分に気合を注入するつもりで自分の両頬を軽快に叩く。長い髪を後ろで一本に結び、麻友子の端正な顔が凛とした空気をまとった。

その時、事務室の扉をコン、コン、コンと三拍子の規則正しいリズム。このノックは父親の坂上達郎だ。

「おはようございます!社長!」

加藤の現金丸出しの挨拶に、麻友子は半ば呆れながらも口元をつい綻ばせた。さっきまでは麻友子に呼ばれ慣れしろと「社長」と呼んでいたくせに。

「おはよう、加藤君。相変わらず今週も元気だな」

達郎も加藤へ挨拶を返す。
「会計事務所」なのだから、肩書きは「所長」でも良さそうな所ではあるが、達郎は「我が事務所は会社だ」という在り方に拘った。

昔は厳格そのものと言えた父親。とはいえ、普通の家庭にある様な親子関係はかなり久しい。
麻友子も父親と同業の道を選び、実務も重ね公認会計士の資格も取った。麻友子は同じく公認会計士のパートナーを選び、一度は結婚するも離婚して親の元へ戻る。
母親(達郎にとっては妻)を病気で亡くすなどの多難も乗り越え、父親の「会社」と呼ぶにはあまりにも小さなこの事務所を共に盛り上げてゆこうと決めた経緯がある。

そして今、老いなのか、余裕なのか、それとも後継者を育て自分の役割の果たし切る安堵感なのか。常に「社長」という仮面を外さなかった男が退任を前にしたこの時期、ようやく温もりを垣間見せる様になったと麻友子も安心を感じる。
と同時に、達郎の築き上げてきた信頼や功績をしっかりと引き継ぎ、自分が牽引せねばという意識をますます高揚させられている。

「麻友子。今日は12:30、川島モータースの川島社長と一緒にランチの時間をとった。お前の予定はどうだ?空いているなら来なさい。顔繋ぎしておこう。新社長着任の挨拶をあらためて行くより効率的だ。」

「わかりました、社長」

「本町のカプリチョーザで12:30だ。遅れるなよ」

用件を伝えると、達朗は部屋を退室した。
それぞれに月曜午前のファンファーレが鳴り出す。仕事開始だ。

「では、呼び分けますか!新社長!」
加藤の戯けは続いていた。

「僕は清水ホームさんと10:30にアポがあります。例の代表印捺印漏れの書類引き取りと、あそこの経理の横山さんとも少し打ち合わせがあります。戻りはそう遅くはならないと思いますが、新社長が前社長とお食事に行かれるならすれ違いになりますね」

「加藤君、やめなさい。その新とか前とか。午後にはまたやる事集中してるわよ。なるべく早く戻って来て。行ってらっしゃい」

そう交わして外出する加藤を見送った。
麻友子はデスクに落ち着き、佑志の会社「川崎電設」の書類に目を通す。

今期、いや最近の川崎電設の業績は芳しくない。会計士にとって財務諸表の数字はその会社の経営状態を如実に映す鏡だ。しかし麻友子はそれだけではない。個人的な繋がりが深過ぎる。

男女関係を不倫で結んでしまった佑志には、本当はもっと強い経営手腕を発揮して欲しい。本心はそう思っている。
会計士は差し出がましい口出しまではすまいと遠慮してはいるが、麻友子にとって理想の経営者、父・達郎をあまりにも近くで見過ぎてきたのだ。

彼が家族や社員の目を盗み、麻友子と会う事にどれだけのエネルギーを消耗しているだろう。会社が困難な時に、愛人に現を抜かしている場合じゃないと理性は思っている。
そう思う反面、何とかこの関係を維持し続け、佑志の会社の業績を上げる提案はない物かとも探っている。

その時、電話のベルが鳴った。

「はい、坂上会計事務所です」

「もしもし。坂上麻友子さんはいらっしゃいますか?」

「あ、はい。私ですが?」

「貴方が麻友子さん?初めまして。いつも主人がお世話になっております。私、川崎電設の川崎佑志の家内でございます」

一瞬、呼吸を忘れた。鼓動は高まり、目眩が襲ってきそうになるのを、本能で目を閉じ必死に堪えようとしていた。
受話器の向こう側の声に、明らかな怒りと憎悪の波長を感じたからだった。

〜◆〜

佑志の妻は「瑠美」と言った。
電話の用件は、13:00から会って欲しいという要求を突きつけられた。
12:30から達郎と顧客とのランチの予定が入っていた麻友子は、先約があり日を改めてもらえないかと申し出ると、
「坂上麻友子さん、今の貴方が私にそんな事を言える資格はおありかしら?」
と返された。
瑠美は選択肢を与えるつもりは無いとわかった。麻友子は冷静に、かつ毅然とした態度で受け答えをしているつもりだが、胸の中は動揺で満たされている。
バレたな…それはもう確信だった。瑠美の「会いたい」という要求を飲むしかなかった。

「では、13:00にお会いしましょう。麻友子さん。
えっと、それからね、今後、お宅の事務所との連絡は全て私か、総務担当の渡邉が窓口になります。主人には本業に没頭してもらいますので」

それは、この電話を切った後に達郎に連絡を取ろうとしても無理だと警告してる様に思えた。事実、この電話をしている時、瑠美の隣に佑志がいたかもしれない。
麻友子の迂闊な動きは全て封じられた。

達郎と川島社長とのランチをする予定だった場所と、瑠美の指定してきた場所はまるで正反対の方角で、どう考えても物理的に両方は無理だった。
達郎には川崎電設との打ち合わせの予定が入っていた事を忘れてた、とランチの辞去を伝えた。スケジュール管理が不十分である事の叱責を受けた。

麻友子は重い気を引き摺り、瑠美と待ち合わせのカフェへ向かった。
一体、何を話せばいいだろう?
そもそも話し合いになるのか?
戦場へ赴く兵士の気分とはこの様な感覚だったのだろうか。気を間際らそうと、そんな事を考えようとしても無駄だった。頭の中はこれから足を踏み入れる修羅場の予感で満ちている。

やがて指定のカフェにたどり着く。
大きなガラス窓から射し込む光と、青々と繁る観葉植物。BGMもインテリアもハワイの音楽。
5〜6テーブルある店内のその一番窓際で、瑠美は頬杖をついて座っていた。
これから瑠美と交わすであろう話には不似合いな程、店内の雰囲気は陽気過ぎた。

麻友子は軽く会釈をし、瑠美の待つテーブルへとたどり着いた。

「坂上麻友子さんね。初めまして。今日は無理言って来てくれてありがとう」

口火を切ったのは笑顔の瑠美からだった。窓際の陽気も手伝ってなのか、その笑顔は温もりを帯びている様に見える。冷たくない。その事にかえって麻友子は怯えた。…が、これは間違いなく女の闘いのゴングなのだ。腹を括ろうと思った。

「こちらこそ、初めまして。本日はお会い出来て光栄です。川崎電設さんにはいつもお世話になってます。坂上会計事務所の坂上です」

緊張を隠し、背筋を伸ばして精一杯に強いキャリアウーマンを演じて自己紹介を返した。

麻友子はそれまで迷っていた。瑠美には謝り通すか、開き直って立ち向かうか。
しかしその迷いはこの瞬間に、「これから私も、小さいながらも一つの会社を背負って立つ人間にならなきゃいけないんだ。今回は確かに身から出た錆。でも立ち向かうしかない」という方針を固められた。
どんな態度を取ろうと、この暖かい笑顔でかつ強気な女性は、般若の本性でぶつかってくるだろう。

瑠美からまた話しかけた。

「想像してた通り、とてもお美しい方ですね。スタイルも抜群。その上、公認会計士さんですもの。大変な努力家さんなんですね」

瑠美はそう褒め言葉を並べると、麻友子の謙遜する反応を確認した後、手元のカップを口元へ運びコーヒーを一口飲んでから一言言った。

「私にもその美しいお顔と体があれば、あの人は振り向いてくれたのかしら?」

言ってから、カップをソーサーにカチャリと置いた。
麻友子は固唾を飲んだ。底知れぬ恐怖を感じた。

「あ、何かお飲みになる?」

「あ…それでは、私もコーヒーを注文します」

「ここはね、見ての通りハワイアンなムードたっぷりなカフェでしょ?珈琲もコナなの。いいわよね、あの独特な香り」

「そうなんですね。コナ・コーヒーなんて私は久しぶりです」

麻友子もペースに飲まれまいと作り笑顔で答えた。
その後、瑠美がウェイトレスを呼ぶ仕草をし、麻友子が同じ珈琲を、とオーダーする。
ウェイトレスが立ち去ると瑠美はバッグの中から一枚の写真を取り出してテーブルの上に置いた。
そこには明らかにラブホテルの前で抱き合いキスをする男女の姿が写っていた。男はサングラスをかけ、女の髪は長い。

「これ…」
既に凍りついた麻友子の口からはその言葉を発するのがやっとだった。

「よく撮れてるでしょ?うちの主人と貴方よ。今日の私との出会いの記念にぜひ一枚持っていって。私はもう何枚か持ってるし、元のデータがあるから気にしないで」

完全に麻友子は言葉を失った。瑠美は探偵を雇っていたのだろう。

「主人が貴方からサングラスをかけられる前の画像もあるの。だから間違いないわ。というより、ご自分で記憶のあるご本人様を前にしてそんな事言うのも変な話だけどね」

「も…申し訳ありません…」

麻友子は詫びの言葉を口にした。それを見つめる瑠美はただ不敵な笑みを浮かべている。沈黙はやがて運ばれてきたコーヒーが麻友子の目の前に置かれた時に破られる。

「コーヒーでも飲みながらゆっくり話しましょ」

そんな気分にはなれなかった。

「そうそう、うちの会社の事、どこまでご存知かしら?元々、私の父親が起こした会社でね。主人は婿なのよ。だから彼が実は旧姓を持ってるの。「鈴木」なのよ。彼の旧姓」

初めて聞く話だった。
受ける相談は会社の財務や経営の事ばかりで、会社の歴史も顧問である以上、知っていても当然な情報であるが、今思えば佑志はそれを語りたがらなかった節がある。
おそらく、麻友子には自分は会社の代表を名乗ってはいるものの、実はそういう背景だったと知られたくなかったのだろう。推察だが納得した。

しかし今、直面しているのはこの瑠美との場面をどう乗り切るか?いや、乗り切れるのか?これから彼女はどんな切り札を出してくるのかだ。

「うちの会社の事なんて、貴方達2人に何が関係あるの?って思うかもしれないけど、一応最後まで聞いてもらうわ。
主人に代表をさせてはいたけど、貴方も知ってるわよね。うちの会社が今、伸び悩んでいる事は。
主人には経営の事を任せるのは、どうも荷が重かったみたい。それどころか、仕事での立場、家庭での立場も顧みず新しい恋人との情事に入れ込んでたのだから、業績が落ちるのは目に見えてるわよね。
あのね、川崎電設はまだ実質的には先代のうちの父、そして私が握ってるわ。株も私達親子が大株主だしね。
佑志は常務へ降格。とは言う物の、実際には一技術者よ。そして彼には携帯は取り上げた。彼のお金の流れも予定も全て管理し、携帯をまた持とうなんて動きは一切させない事に決定したの。
貴方もニ度と佑志とは連絡を取らせない」

瑠美は終始笑顔で話し続けている。その落ち着きはらった態度で、柔らかな口調でかつ、まくし立てているのだ。麻友子の背筋を冷たい汗がつたい流れるのがわかった。

「コーヒーが冷めるわよ。あたたかい内に飲んで」
どこまでも瑠美の声は優しく透き通っていた。だからこそ恐怖だった。
麻友子はコーヒーを一口啜った。
「どう?美味しいでしょ?コナ・コーヒー。
ここからは貴方の話よ。ぜひコーヒーで心を落ち着けて聞いて欲しかったの。
大人の話をね…と言っても当然、貴方達がどんなセックスをしてたかなんて話じゃないわ。お金の話をしましょう。そして貴方の仕事の話もよ」

麻友子は脳天から稲妻に打たれたような電流が全身を駆け巡った。不倫の代償。聞いた事はあるし、その話が出るのでは?という予想もあった。
しかしあらためて直接に言われると、襲ってくる不安にカフェの明るい雰囲気も闇に変わってゆく。

瑠美の言葉は尚も続いた。
「私が今、あなたと向き合ってどれだけ平静を装おうと努力してるかわかる?私の心に深く刻まれた傷はどう思う?」なった

とうとう麻友子は俯いてしまった。手のひらは汗ばんできている。この場から逃げ出したかった。
「答えて…」
瑠美の声が追ってくる。何か言おうと唇を開くも声にならず、喉元まで口の中が一気に乾燥した。

「答えなさいよ!!」
瑠美が初めて感情を壊し叫んだ。その突然のヒステリックな怒号にカフェのウェイトレスやオーナーも一斉に振り向く。それでも店内には緩いBGMが軽快に、そして甘く平和に流れている。

その時、麻友子の携帯が鳴った。画面を見ると加藤からだった。
「取っていいわよ」
瑠美がまた落ち着きを取り戻した様に促した。
しかし、麻友子が失礼しますと言い、席を立って電話を受けようとすると、瑠美は
「どこに行くの?そこで話ししなさい」と立たせなかった。麻友子は従って電話を取る。

「もしもーし!新社長ですか!?
どこにいるんですか!?前社長と川島社長とのランチに行くって聞いてたのにー!」

「ごめんなさい。川崎電設さんとの打ち合わせがあった事を思い出して…」

「あれ?そうなんですか?おかしぃなぁ。
実はその川崎電設さんからついさっき電話があって…川崎さんとこの経理の渡邉さんから、今後、川崎さんの担当は僕にしてくれっていう電話だったんですよ!
僕も突然、訳がわからなくて…でも今、新社長は川崎さんにいるんですか?何かあったんですか?」

加藤がまくし立てる。これも既に瑠美の差し金なのだろう。そこまでもう根回しをしていたのか。唖然とするほかなかった。
加藤とのやり取りの様子を瑠美は黙って見ている。

「あ…あの、実は…川崎電設さんの社長さんの奥さんと今、外で打ち合わせてて…」

と言った所で瑠美が横からそっと口を挟んだ。

「今はもう私が社長よ」

麻友子は気まずそうな表情を見せ、うろたえた。

「社長の奥さんと?どーゆー事なんですか!?」

「詳しくは帰ってから説明するわ。とにかくまだ今、打ち合わせ中なんで切るわね」

電話を切り、麻友子は瑠美を直視した。
ここで初めてじっくりと瑠美を観察したかもしれない。目鼻立ちも整い、人当たりは良さそうで上品な品格も漂う。そしてとても知的で賢そうな空気感。しかしその賢さはどこまでも底の知れない謀略と根回しが長けてそうであり、麻友子の畏怖を増幅させている。
そして加藤にも、麻友子と川崎電設の間にトラブルか何かが起きたと疑念を抱かせた事は確実である。
事務所へ戻ってから何と弁解するか、二重三重にあらゆる包囲網が麻友子に覆い被さる。

「あの…大体のおっしゃりたい事はわかりました。
まず具体的に私に…どんな償いを奥様は求めてらっしゃるのでしょうか…?それに…お金の話というのは…」

「貴方はまずどう償おうとしてるの?私の答えの前に自分はどうすべきかを言えないの?」
質問はカウンターを食らった。

「私の話を聞いてたかしら?佑志は代表の座を下りたわ。携帯を持たないとゆう、今の時代にはあり得ない状況にも立たされたわよね。
貴方もお父様の会社を継ぐんですってね。不倫で同罪の2人が、片方はそんな地位に立つのは不平等じゃない?
そして…私個人の憎しみは、佑志よりむしろ貴方に強く向くわ。けしてお金で解決出来る傷ではないわよ。だけど、それ以外に誠意って何で見せるの?」

瑠美は今度は感情を制御している様だった。

「まずは今日、その写真を持ち帰ってお父様に相談なさい。慰謝料だとか違約金だとか、法的に相場がどれだけなのか、お父様と2人で調べて貴方の方から誠意を見せてきなさい。私の携帯番号を教えておくわ」

「それだけは…!」

「お父様に言えないのかしら?貴方からお言えなければ、私からお話させてもらうけど?」

瑠美は冷淡に言い放つ。そして立ち上がり2枚の伝票を手にした。

「ここは私が払うわね。麻友子さん。これから貴方にはもっと多くの出費もあるでしょうしね。
今日は来てくれてありがとう。3日以内にまた電話をちょうだいね」

瑠美は去り、取り残された麻友子はただ呆然とその場に居座るだけだった。
頭の中は…そう、空だった。

〜◆〜

事務所へ戻る麻友子の足取りは重かった。一歩一歩前に出す太腿は、瑠美の数々の言霊の負荷を押し避けながらやっと歩いているかの様に重かった。

とにかく佑志と連絡を取りたい。かなう事なら会いたかった。彼を取り巻く状況を、彼の考えている事を…何とか掴みたかった。
そしてもう一つ。父親・達郎にこの事を自分は言えるのか?

突如、麻友子の心に、まるで不動のテトラポッドの様に瑠美が現れた。
何か手はないか?許してはもらえないか?父親に言うか?様々な思いが高い荒波となって打ちつけても、それはけして揺るぎない不動のテトラポッド。

腕時計を覗く。左手首にさり気ない輝きと、高貴な品格で存在を示すパテック・フィリップは、自分が走り続けてきた証だ。
「私を守りなさい」
時計はそう語りかけてる様に思えた。積み上げてきた地位と栄誉、信頼、情熱。その象徴が語りかけている様に。
然程の時間が経っていない事に気付く。カフェで瑠美といた時間から。長い時間が流れた感覚があるが、思考が停止と激しい渦巻きを繰り返し、事務所へ戻ってきた。

「おかえりなさい」

麻友子の帰りを待つ加藤は、明らかな困惑の表情を浮かべている。麻友子は何事も無かった様に振る舞おうとしたが、ただいまと一言返すだけだった。

「社長、先程の川崎電設さんの経緯ですが、何故突然こんな形になったのか、説明してもらっていいですか?本当に僕、訳がわからなくて」

加藤は「新」の冠は取って切り出した。用件に徹する態勢でいる。

「先方は?渡邉さんは何も言ってくれなかったの?」

探りの質問返しをした。彼の持つ心配、もしかすると疑念を抱いているかもしれない。まずはそれらを払拭しようと防衛本能に従った。

「渡邉さんも突然の伝達で、詳しくは聞いてないそうなんですよ。奥様が今度は社長さんに入れ替わるんですってね。社長は何を聞いてきましたか?」

「そう…何でもね、今日は奥様が社長になる手続きにこれから取り掛かるみたいで…立て込んでそうだから今日は別れてきたの」

それは何の取り繕いにも、場つなぎにもならない答えだった。加藤は苛立ちを示しながら再び質問で追ってきた。

「そりゃそうでしょうよ。急にそんな事になったなら、いくら家族経営の中小企業でも会社の中は大騒ぎじゃないですか?異例ですよ。こんな事は。何の話し合いだったんですか?」

「あちらの内部の詳しい事はわからないわ。ただ加藤君に対しては、ほら、まだ現場研修の最中じゃない?若き会計士の卵に経験を積ませたいとね、奥さんは寛大だったわよ」

咄嗟に出た嘘だった。後には引けなかった。
こうして自分はますます嘘に嘘で塗り固めてゆくのだろうか。同時に、加藤も既に真実を知っているのかと疑念と恐怖の小さな火が灯された。

「そうかなぁ…川崎さん、自分トコの業績不振の改善で目一杯だろうに、そんな事考えてる余裕あるのかなぁ…」

加藤の相変わらずの鋭さに麻友子も内心、唸った。ただの無邪気で脳天気なだけではないと身構えて続けた。

「真意はわからないわ。ただ、先方はそう仰ってるのだから、好意は甘えておいたら?」

なるべく平常を装ってはいるが、どこか歯切れの悪さは残ってなかったか、一言一言を慎重に振り返っている。神経を擦り減らし、どっと疲労が襲ってくる。

「父は?もう戻ってる?」

話題を変えた。変えた所で、どの話題も逃げ場など無い事に気付いた。
「お父様に相談なさい」
瑠美の言葉がフラッシュバックする。

「お戻りになられてから、またどちらかへ出かけられましたよ。行き先は僕は聞いてませんが、事務の横沢さんが聞いてるんじゃないですかね?」

「そう…ちょっと話したい事があったんだけど、それなら仕方ないわね。じゃぁ早速、川崎電設の経過の引き継ぎでもする?」

「社長、今日は勘弁して下さいよ。こちらも今日こなそうとしてた案件は山積みなんですから。その資料は再度、社長の方でも整理しておいて頂けませんか?明日、お願いしたいです」

「オッケー、わかった。ではそちらに今日のとこは集中しておいて」

加藤に顔も向けずにそう言うも、加藤が肩をすくめて自分のデスクへ戻る仕草は感じ取った。
急場を凌ぎ安心している事を、麻友子は心中、痛感している。
達郎も不在、加藤と精神的駆け引きをする様な対峙も終わり、残されたタイムリミットは3日。時間がない…椅子に腰を降ろし、机上の書類をまとめた。この中にでも、打てる手があったなら…

その時だった。事務の横沢が入室してきた。
「あの…社長…」

「はい?どうしたの?」

麻友子は書類に顔を向けたまま、声だけを横沢に投げた。

「郵便配達員さんが、内容証明郵便が届いてるとお待ちですが…」

内容証明?胸が高鳴った。
加藤にも聞こえた筈だった。確実に相手に手渡しした完了確認を、差出人、郵便局共に共有する郵便である。
長期売掛客への再三に渡る請求書送付や、裁判所からの呼び出しなどで用いられるが、職業柄、クライアントの企業より重要機密書類を会計士の元へ送る際にも時折使われる。
まさか…。麻友子の脳裏をかすめたのは、達郎宛に先程の写真を瑠美が送りつけたのでは?、という疑念だった。
加藤は気にも止めずにデスクワークを続けているが、

しかし今の麻友子にとっては、このタイミングで内容証明郵便が届くなど動揺を電流に変えて全身に巡らせる材料でしかない。
瑠美が薔薇の花束を持って立っている妄想が浮かんだ。その刺持つ茎が伸びてきて麻友子の体に巻き付いてくる。
事務所の玄関で郵便を受け取る手に、汗が滲んでいる事にその時初めて気付いた。
差出人を見ると、それは別のクライアントからの重要書類だった。冷静に考えれば佑志とホテルの外での場面を撮影されたのは、つい二日前の土曜日だ。
瑠美にしても、今日すぐに内容証明の郵便で到着させる時間の余裕はある筈がない。

これからも、この調子で郵便が届く度に、電話が鳴る度に、自分は瑠美からの何らかのアクションに怯えながら過ごさねばならないのだろうか?
自分の犯した事への罪悪感が際立ってきた。

ふと、佑志は今、どう過ごしているのだろう?と過った。
それまで、自分の身に降りかかってきた事に心を囚われていた。
佑志に会いたい…今更ながらに思った。

〜◆〜

瑠美が川崎電設に帰ると、社長室の応接ソファに佑志が神妙に腰を掛けていた。

「あら、こんな所で何をアブラ売ってるの?現場にいなくていいのかしら?貴方は今日から一技術士よ」

瑠美は脱いだコートを椅子の背もたれに掛け、佑志を見向きもせず言い放った。
佑志はソファから立ち上がるもすぐ、床に両膝をついた。

「瑠美…」

名を呼び、そして両手もついて深く頭を下げた。

「すまなかった…!」

「やめてよ。安い土下座なんて見苦しいだけよ。どんな事をしたって私が貴方たちを許す訳がないじゃない」

佑志は何も返さず、頭を伏したままだ。
瑠美は椅子に座り、佑志に顔を向けた。社長席のデスクから見下ろす夫の土下座を、古代遺跡の壁画に描かれた権力者と奴隷みたいだと感じた。

「ほら、立ちなさい。社員が入ってきたら怪しまれるわよ」

佑志はゆっくりと立ち上がり、そしてそのままその場に立ち尽くす。

「よくもそんなオドオドした甲斐性無しの分際で、私を裏切るなんて大それた事が出来たものね」

瑠美は冷たく言った。しかしその言葉と口調は、男としての値打ちを破壊するに充分だった。佑志は何も返さず、俯いたままでいる。

「会ってきたわよ。貴方の愛しい人に。綺麗で品と知性もありそうな人だったわね。さすがに将来を期待されてる美人会計士さんね」

瑠美はデスクに置かれてある、登記に掲載する代表変更の届けに必要な書類に目を通す。留守の間に総務の事務員達が即座に準備してくれていたのだろう。

「まさか、夜には盛りづいたメス猫に変わるなんて、誰も気付かないわよね。さぞ楽しい密会だった事でしょ」

佑志は悔しがっているだろうか。瑠美は佑志の表情を覗こうとしたが、それには佑志の俯きは深すぎた。

「まったく…貴方にもあの女性(ひと)にも舐められたものね。気付かれてないとでも思ってたの?
あの女性には、3日以内に父親に言いなさい、それを踏まえてどう誠意を見せるのか、教えなさいと伝えてきたわ」

壁に掛けられた時計の秒針は、佑志の沈黙をあざ笑うかの様に回り続けている。
瑠美は怒りと呆れ、憎しみの感情が渦巻きつつも、かつては自分も愛し結婚までした男である。少しばかりの哀れみが噴出を止めていた。
愛は…裏切りによってこうも回転扉のように憎しみに変わるのかと、己の中に眠っていた般若の覚醒を感じている。

「いつまでそうやって黙りこんでるのかしら。第一さ、そうやって謝り続けて貴方は、私にどうして欲しいと思っているのよ」

佑志は一呼吸ついて静かに口を開いた。

「悪いのは……すべて俺だ…」

「だから?だから何?俺を社長に戻せとでも?それともあの女性を追い詰めるなとでも?」

再び口を塞いだ佑志に、麻友子は追い討ちをかけた。

「私はけして許さないと言ってるの。
法的にもね、離婚はしなくても私は貴方からも慰謝料は請求出来るのよ。でもそんな事、家計の中でお金が右から左へ移動するだけの事よね?
貴方にはこのまま奴隷のように働き続け、そしてあの女性にはこの上ない苦痛を与える事でしか、私の心を晴らす術はないじゃない?」

話しながら瑠美の心に小さな炎がまた灯った。
バッグからスマホを取り出し、既に夫の履歴から調べ上げている麻友子の番号にかける。
コールは8回ほど鳴った。ようやく通話の画面に変わった。

「もしもし?麻友子さん?先程はどうもありがとうね」

佑志は顔を上げない。瑠美の苛立ちは絶頂に達した。この2人が快楽の絶頂なら、自分は憎悪の絶頂に。息をつく間もない程その波が押し寄せたのなら、その報いの波も息をつく間も与えまい。

「驚かせてごめんなさいね。貴方の番号は既に夫から調べてたから。
あのね、今、ここに夫もいるんだけど、貴方に3日の猶予を与えたと言ったらね、夫が…明日中まででいいんじゃないか?って言うのよ。
私も時間を与え過ぎかなぁと思ってたんだけど、夫がそう言ってくれたから、これで私も安心して気を変えられたわ。
考えればそうよね、何もそこまで私が優しくする必要もなかったわね?」

ふーと息を吐いた。

「とゆうわけで…3日以内の期限は明日の夜までに変更する様に頼むわね。それでは…」

瑠美が通話を切ると、佑志は驚きと困惑、戦慄の表情で瑠美を凝視していた。佑志とようやく視線が合った。
これよ。私の見たかった貴方の表情は。

〜◆〜

電話を切ってから、麻友子はもう仕事に手を付けられる状態ではなかった。

佑志が…まさか、本当にそんな事を。
いや、彼が言う筈もない。あの場にいたなんて嘘だ。これも彼女によるフィクションだ。
でも、もし本当だとすれば…頭の中で否定した。彼が言う筈はない。

佑志に会いたくなった。

そして何より、父・達郎が外出からいつ帰ってくるかと思えば気が気でならない。

内容証明郵便は考え過ぎだった、と胸を撫で下ろした直後の瑠美からの電話だった。

佑志と甘いひと時を交わした夜から2日と経っていない。まだ地獄の門が開いただけだ。

「加藤君、ごめんなさい。ちょっと私、気分がすぐれないの。申し訳ないけど、早退させてもらいたいの。病院に行かせて」

「え…大丈夫ですか? 3月はただでさえ年度末のクライアントも多くて、体調管理は気をつけてって言ってたのは社長の方ですよー」

「わかってる。だからこそよ。月末に向けてますます佳境に入った時に倒れたら、もっと元も子も無いでしょ?ホントに…ごめんなさい」

「ちょっと!大丈夫ですか?本当に!顔色悪いですよ、社長!
わかりましたよ、後は前社長には伝えておきますから、早く帰って養生して下さい!」

達郎から逃げようとしてついた嘘だった。さっそく嘘に嘘を塗り固め出していた。
佑志の事も瑠美の事も考えた。自分がどうすべきかも考えた。考えているうちに、仮病は現実を連れてくるようで本当に体調が崩れ出した。

「父には自分で電話しておくわ」

明日夜まで…
自分は本当に父・達郎に言えるだろうか?
常に仕事に、経営に、顧客からの信頼に応える事に厳格な、心から尊敬する父親。いや、それは経営者としての一面だ。

父親としては思春期には家庭もかえりみず、人並みに反抗していた事もある。それでも娘が公認会計士の資格を取った時には、これまで見せた事もない喜びを全身で表して祝福し、離婚して戻ってきた時には「俺のそばで仕事に打ち込め。この会社を一緒に盛り上げろ」と、帰る場所を作ってくれた。
父親としての深い愛を知った事で、人格者として見直した。やはりそこにも尊敬しかなかった。

言うのか?言えるのか?自問は止まない。
お父さん、私は貴方を裏切っていたと、果たして自分はどんな顔をして言うのか?言えるのか?
とうとう目眩が襲ってきた。

「ちょっと!社長!タクシー呼びましょうか!?」

ふらついた麻友子を見て、加藤が隣の事務室にいる横沢に声を張り上げる。

「大丈夫よ」

麻友子はたまらずデスクにもう一度座った。
中指と親指の先で両こめかみを抑え、そのまま目蓋を閉じ、顔全体を手のひらで覆った。

「少し落ち着けば1人で帰れるわ」

溢れくる目眩の闇の中、ふと佑志に手紙を書こうと思いついた。先程の瑠美からの電話でわかった事は、おそらく佑志は今日は現場ではなく社内にいるのであろうという事だった。
スマホによる連絡も、佑志の会社への連絡も道は閉ざされた。よもやこのデジタル・インフラの時代に、こんな形で遠き過去の学生時代に、当時の恋人と交わした文通じみた手段に頼ろうとは。

「そうだ、一つ大事な連絡があったわ。それだけはやらなきゃ」
麻友子は一人ごちた。

【私との関係が奥さんに知られ、佑志さんも苦しい立場にいるでしょう。私が奥さんと会った事も聞いてるかと思います。
スマホも取り上げられ、佑志さんの会社に私から連絡を入れる事も禁じられた事も奥さんに言われました。

お願い。少しでも会って話したい。せめて電話だけでも。
私の番号は、スマホに入れて覚えてなかった時の為、記しておきます。

090-○○○○-○○○○

何とか出先で公衆電話を見つけて、連絡をもらえない?
お願いします。

麻友子】

ルーズリーフを便箋代わりに、簡単に書き上げて封筒に差し込み糊付けをする。
後はこの手紙を、どうやって佑志に渡るようにするかだ。
こればかりはどうにか加藤の協力を乞えないかを考えた。確かに今は取り掛からねばならない作業が押し寄せている時期だ。加藤は普段、明るくユーモアに富む男であるが、仕事となるととても合理的で効率化を重く考える。
よほど納得する大義名分が無ければ、彼は余計な作業の割り込みを嫌うだろう。今は加藤の作業を大幅に邪魔する事は大いに自覚している。ましてや麻友子の個人的な事情でなど、達郎が知れば職権濫用だ、背任だと激しく怒るだろう。
しかし背に腹を変えられない程に、麻友子の倫理観は砕けていた。
倫理観…そもそも不倫の蜜の味を求めた時に、既に壊れているのだ。

「加藤君、帰る前に話を聞いて。川崎さんトコはそういう事で、貴方ご指名で担当が決まった以上、すぐご挨拶に伺っておくべきよ。父も必ずそう言うわ」

加藤のデスクに歩み寄り、瞬間的にそう説き伏せた。加藤の性格なら、なるべくシンプルな作戦で動かした方がいい。

「えー!?今日ですか!?」

「そうよ。何事も迅速な事は大事な事でしょ?」

達郎の行動方針を言えば、加藤も文句を出さずに従うだろうと賭けた。それは的中する。

「わかりましたよ。今日のタスクは明日以降に先送りされますよ。それより早く、社長も帰って休んで下さいよ。僕も明日からは社長に協力求める事あるかもしれませんからね」

明日…明日から本格的な修羅場になりそうなのだ。加藤に言われるまでもなく、日常を取り戻し仕事に没頭したい。
その為にも一刻も早く佑志と連絡を取りたい。気は早った。

「あ…それとね」

封筒を出して加藤へ渡した。

「これをね、川島さんの常務へ渡して欲しいの」

「川島さんに!?」

「そうよ。そこでね、くれぐれも他の事務員さんや社長さんに見つからないように、常務さんにだけ渡して欲しいの。理由は…後で説明するわ」

「わかりました。わかりましたよ!とにかく!社長はもう早く帰って休んでて下さい。僕も急いで行動しますから!」

席を立ち上がるでもなく、片手で封筒を受け取る加藤の面倒そうな態度に苛立ちが立ち込めていた。

「本当にあれこれ、頼んで申し訳ない。必ず今夜中に体調を整えるわ」

「はい、社長。渡しておきますから、病院に行って安静にしてて下さいね!」

加藤もまた外出の準備を始める。そしてそれよりも先に麻友子が事務所を後にした。

父親の携帯へ電話をかける。本当に心が重かった。携帯は留守番電話だった。

「社長。麻友子です。実はひどい目眩と頭痛で体調がすぐれません。加藤君と横沢さんに後の事は任せて、今日の所は早退させて頂きます。
この繁忙期に、体調管理面で迷惑かけてホントにごめんなさい」

留守電を聞いて父親は折り返してくるだろう。その時を思うと心の重い会話は、ほんの少し先送りされたに過ぎない。
出来る事なら、加藤が佑志に手紙を渡す事を信じて、彼からの電話を待ち遠しがった。

麻友子の早退した数分後、加藤も続いて事務所を出る所だった。

「横沢さん、ちょっと急に外出する事になって…出かけてくるね」

「あら?今度はどこへ?」

「麻友子社長の命令ですよ。川崎電設さんへ新任挨拶回りと、あと、何かは知らないけど…川島モータースさんに手紙を届けて欲しいんだって。郵送でない事考えると、余程の急ぎの案件じゃないの〜?」

加藤は室内スリッパを脱いで革靴を履いた。

「まったく…川崎さんと川島さん。おなじ「川」でも、別々の川岸みたいじゃんね。見事に反対方向だよ」

加藤との会話の中で、気が早る麻友子は自分が「川崎」と「川島」を言い間違えてる事など気付かずにいる。
加藤もまた、麻友子が今日の川島社長との昼食に同席できなかった事へ、先方の常務を巻き込んでお詫びに何かサプライズでも考えてるのか?などと想像している。

ただ、確実に麻友子は「川島」と加藤へ誤って申し送りをしている。
そして佑志からのかかってこぬ電話を待っている。

〜◆〜

作成中の財務諸表に目を通す瑠美の表情は険しかった。
従業員も皆帰し、夜の暗闇の中、一人残る社内でポツンと灯りを灯した部屋は、まるでそのまま「川崎電設」の様相を呈していると感じていた。
近年、落ち込む業績の中、私が光を与えねばならない。

市の公共事業の電気工事入札も落札から遠のいて久しい。「民間」での仕事を受注してゆこうと、前社長である父親が舵を取り直してから15年程の歳月が流れている。
当時、瑠美は父親の会社で経理として精通しながら父親を支え、一技術士の佑志と社内結婚した事もほぼ時期は重なる。子供も二人授かり、今では息子は中学2年、娘は小学6年になる。

世間はバブル期の遺産でもある不良債権処理の本格的な外科手術に取り掛かる風潮で、多くの経営者達が「実力主義時代の到来」を歓迎し、複雑な思いを抱きながらリストラを敢行した。
それは川崎電設も例外ではなく、瑠美は父親のその苦悩を目の当たりにして見ていた。

社員にこそ風当たりは厳しかったとは思う。当時にはまだ「パワーハラスメント」や「コンプライアンス」などという言葉は浸透もしておらず、サービス残業や厳しいノルマなど、そんな暗黒の時代があった事も否めない。

夫・佑志とも「お前達、経理とか事務方には現場の負担がわかってない」と何度も衝突した。しかし、経理畑にいるからこそ、銀行との軋轢や重圧を知っている。
それでもこの頃は、地元企業の電気点検などの契約を順調に取ったり、地元工務店から新築物件の仕事を回してもらったり、数字の上では順調だった。

2010年代に入り、風向きは変わり出してきた。「心の価値観」やライフ・ワーク・バランスを重んじる雰囲気に。
東日本大震災もあり、多くの人々に死生観、人生観を問わせる動機ともなったであろう。
だがもっとも企業経営に影響を及ばせたのは「人口減少」だった。最初は大手ならいざ知らず、一地方の中小企業には関係のない話だと思った。それは「人口減少→顧客の減少」と瑠美も単純に解釈していたが、それだけでは済まなかった。

まずやってきた波は「働き手の減少」人手不足である。
父親が若い頃、一緒に立ち上げた老兵達が一気に引退。そこを埋めるべく採用した若者達は「ゆとり世代」彼らを定着させる、時代にマッチした教育スキルを川崎電設は持っていなかった。昔からの職人世界の社員教育である。
もう「アラフォー」と呼ばれる年齢に差し掛かる瑠美と佑志が一番若い世代となっていた。
父親もこれからはお前達の時代だとバトンを渡し、会長職に会社に席を残しつつも、瑠美や佑志のやる事に口を挟む事もなく事実上の引退だった。

ほどなくして大手がこの地域にも進出してきた。働き方改革のムード、そして実際に法案も押し寄せてきた。
とても今、大手とのコスト競争に打ち勝つ力は川崎電設にはない。そして地元企業も経営陣の代替わりが相次ぎ、定期の電気点検契約ですらもコスト見直しに晒される。

【抜本的な改革】が必要だった。

麻友子も業種こそ違えど、立場が同じであろう事は瑠美も理解はしていた。
地域の経済が疲弊し、衰退してゆく中で、先代達が築き上げた功績に泥を塗る事がない様、時同じくして代替わりした (或いは代替わりする) 次世代経営者達を勝手に戦友だと思っていた。
だからこそだ。その思いがかえって瑠美の怒りを炎上させていた。
ましてや夫・佑志も共謀しての裏切りだ。

佑志はずっと現場に立っていた男である。経営者として会社を俯瞰する視点もその采配を仕切る才覚も、持ち合わせていなかった事など皆、最初からわかり切っていた。
それでも瑠美は男として夫を立てた。今、それは足りなくても必ずいつかは…その思いで辛抱強く待ち続けた。

佑志は頻繁に電気工事業組合や地元商工会、法人会の会合に出かけていた。その中で繋がる人脈からも仕事か入り込んでくるだろうとの期待を抱きつつ、瑠美は夫を通わせ続けた。社長になった佑志自らも一営業マンとして、電気点検の見積を渡しにも飛び回っていた。
どこかから新規の契約が転がり込んでくる事はなかった。

瑠美は帳簿の数字を睨みながら、あの場面を思い出す。
ある古参の技術士が個人的に相談があると、会議室で二人で面談を行った時だった。

「専務(当時の瑠美の役職)…実は相談というよりは、これは告発です。言うべきか自分の胸にとどめておくべきか、ずっと悩んでいました。
社長が女性とホテルから出てくる所を見ていました」

その社員は涙を目に溜めていた。
瑠美や佑志よりも年は少し上だが、親子二代に渡り会社に貢献してくれてきた男である。そしてその父親はかつての2000年代のリストラ期に、定年まであと2年程で早期退職の憂き思いを負った過去を持つ。
その父親が会社を去る時に、息子や瑠美、佑志達が居合わせていた事務室で最後に言った台詞も覚えている。

「これからは君達若いモンが、会社を更に繁栄させてってくれると信じてる。君達の時代だ」

思い出しながら、瑠美は書類を握る手を震わせていた。
経営者は、社員と社員の家族の生活、そして生き甲斐や幸せにも責任を持つ者だ。

絶対に、経営者の端くれとして彼らだけは許せない。

〜◆〜

麻友子は自分のマンションで、テーブルにスマホを置いてただ、それを見つめてソファに座っていた。
20時を過ぎ、更けてゆく夜は静けさで辺りを包んでゆくだろうが、もしかするとまだ、佑志が電話をかけてきてくれるかもしれないと、募る想いで待っていた。

父・達郎には体調を崩して早退する事は留守電には入れたものの、それきりあらためて電話もかけてなければ、折り返しの電話もない。この時期、娘の体調が悪化すれば、月末に向けて更に立て込むこの時期、ゆっくりと休養させて引きずらせない方が良いと気遣ったのだろう。そう思う事にしていた矢先

「ピンポーーン」

インターホンを鳴らしたのは達郎だった。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないだろう。娘が体調を崩して寝込んでいるというんだ。心配してかけつけて何かまずい事でもあったのかね?」

「大げさよ。お陰で辛いのは通り過ぎたから。明日にはまたいつも通りに出社するわよ、お父さん」

後ろ髪を引かれる思いを抑え、一言一言を慎重に平静を装いながら言葉を発した。
坂上親子は勤務時間内か外かで、呼び名のオンとオフも切り替えている。しかし今は達郎が社長だろうが父親だろうが、後任としても娘としても自分の不浄の存在を居た堪れなく感じるだけだった。
そして達郎は麻友子が恐れていた言葉を口にした。

「おい、父親が訪ねてきたというのに、いつまでここに立たせておくんだ?すぐ帰るよ。少し立ち寄らせてくれないか?」

「え…寄るの?」

つい反射的に口走ってしまった。
が、断わる事は出来ない。エントランスの扉を開ける操作をした。やがて達郎は8Fの麻友子の玄関までたどり着いた。

「なんだ?そのままか。部屋着でいるかと思ったぞ」

迂闊だった。もし佑志から電話がかかってこようものなら、そして会えるのなら、すぐ出かけられる様にと昼間の服装のままだった。

「帰ってきて、あまりの具合の悪さにそのままソファに寝込んでしまってたの」

達郎は右手に持っていた差し入れのトートバッグを差し出した。中には果物や栄養ドリンク剤、冷凍食品などが乱雑に入っている。
麻友子は母親が亡くなった時の事を思い出してにた。料理の出来ない達郎が、こうしていつもスーパーマーケットで調理の簡単な、もしくは調理のいらない食材ばかりを買い込んで帰っていたあの頃を。
達郎は年齢の割にはメタボリックな体質も見当たらず、スタイリッシュなスーツが本当に似合う、ダンディズム漂う男だ。実年齢よりも10歳以上は若く見えるだろう。そんな父親を誇らしく思っている部分も麻友子の中にはあった。

そのトートバッグを受け取って礼を述べた。
「ありがとう」
胸が締めつけられる思いだった。

達郎は靴を脱いだ。麻友子は達郎をついて来させてリビングへ迎え入れた。
達郎は久しぶりに入る娘の整頓の行き届いた部屋を見渡し、安心した様に言った。

「綺麗にしているな。何事も一事が万事。仕事でもプライベートでも、整理整頓は基本だからな。このままの状態を維持しろよ」

「また始まった。それは社長として言ってるの?父親として?私を何歳と思ってるの?昔からもう整理整頓する習慣は染み付いていたじゃない?」

「ははは、わかってはいるけどな。何せお前の部屋に入るのは久しぶりだ。漠然と信じるだけじゃなく、この目で見て安心する事もあるじゃないか」

そう言って達郎はソファに座り込んだ。

「それにだな…心が乱れた時や、よほど追い詰められた時だ、問題は。いとも簡単に習慣などぶち破ってしまう。私はそんな人間も数多く見てきた」

麻友子は息を飲むしかなかった。達郎は何か知っているのか?心臓の鼓動が胸を突き破りそうだった。

「え?…何それ?私が今、心が乱れてるって事?」

「問題の時は、そうゆう時だという事だよ」

麻友子の心は警戒モードに入る。達郎に背を向け、キッチンへ向かった。

「夜だしカフェインは避けた方がいいよね?烏龍茶でいい?いい香りのお茶があるのよ」

「いや、このままでいい。麻友子も掛けなさい」

麻友子は黙って従い、L字に配置されたソファに腰をかけた。何か言わねばと案じ続けながら。
頭の中では瑠美の言葉が反復していた。
今が、自分の犯した罪を打ち明ける時なのか?
言えるのか?私は父親にあの事を言えるのか?それとも何か嘘をつくのか?つけるのか?
もう自分がわからなくなっていた。

ただ、頭の片隅では選択の余地が無い事はわかっていた。明日までのタイムリミット。今、言わないにせよ、問題を先送りするだけだ。
そうでなければ瑠美は、次はどんな手を打ってくるかわからない。その事が何よりの恐怖だった。

「加藤くんから聞いたぞ。川崎さんの件だ」

ある程度、予想はついていた。加藤に対してはその場を凌いだだけで、そして自分はその場から逃げてきただけとも言える。

「あぁ、その事なら…」

「あまり無いケースだからな」

達郎が麻友子を塞ぐ様にかぶせてきた。
麻友子は達郎の射抜く様な視線を見返して、狼狽る感情が漏れるのを必死に堪えていた。まるで硬い鎧を着込みつつも、その鎧がかち合う物音を一切出さない様にと。動けなくなっていた。

「何があった?」

「別に…先方の会社で、何か退っ引きならない事情があったんでしょうね。私も驚いたの…」

「加藤くんは、何でも先方が加藤くんに経験を積ませる為にとご指名をしたとお前から聞いたと言ってる。
川崎さんトコの今期の状態はあまり芳しく無い筈だが、それにしてもなんて余裕ある、寛大な話だとは思わないか?」

「そうね…」

言葉が続かなかった。そして麻友子は虚空を見上げ、達郎からの視線から外れた。
ため息が出た。

達郎は黙って娘を見つめ続けていた。どの位の時間が流れているのだろうか?長いのか。短いのか。
沈黙が痛みに変わってきた。
達郎の視線は突き刺さり続けている。痛い。この痛みは、冬に味わった小さな静電気の感電の痛みだ。

父親は見抜いている。娘も父親が見抜いている事を気付いている。
詳細は知るまい。ただ、娘が何かを隠している事を、何かから逃げている事を父親は見抜いている。

何か 何か話さねば…

言葉を出そうとして唇を開く。口の中に入り込んだ空気がドライヤーの強い温風の様に、喉を一気に渇かせた。声が 出ない…
喉を湿らせていた水分は何処へ?何処へ消えたの?
私の水分…
それは潮が引くかの様に体内へ逆流していた。
達郎の視線の感電痛は絶えず、全身をピリッ、ピリッと刺してくる。それは体内の水流を追って放電してくるかの様に。

引いてゆく水分は一度胃の底に落ち、そしてそこから顔面へ一気に込み上げてゆく感覚があった。

見える部屋の景色が歪んだ。

虚空を見上げていた麻友子の両の目から、一気に水分が溢れ出た。涙は両頬をつたい滴り落ちる。

それでも達郎は娘の涙を何も言わずに見つめている。ただ、その視線は既に射抜く眼光は緩んでいた。

麻友子はしゃくり上げながら、ようやく一言、言葉を解放した。

「ごめんなさい…お父さん…」

〜◆〜

瑠美が帰宅すると時刻は22:00に差し掛かろうとしていた。リビングには佑志と娘の香奈が2人でテレビを観て寛いでいる。佑志は神妙な面持ちでソファに座り、顔を向けもしなかった。
「おかえり〜ママ」
香奈は無邪気に声をかけた。
「ただいま。ごめんね、帰りが遅くなっちゃって。香奈はもうお風呂は入った?お兄ちゃんは?」
「部屋でまたゲームばっかりやってるよ」
「そう。本当に困ったものね。そろそろ香奈も寝なさい。もうすぐ卒業式なんだから、最後まで体調万全にして通わなきゃね」
「うん、寝るね〜!ママ、パパ、おやすみなさ〜い!」
「うん、おやすみ。あ、お兄ちゃんにもゲームはいい加減にして寝るように言っといて」
香奈は「はーい」と返事して二階の自分の部屋へ駆け上がって行った。

「剛志は風呂もまだのはずだよ」

佑志が瑠美の帰宅後、ここで初めて口を開いた。息子の状況を知らせた。遠慮深げだった。
息子の剛志達は根からのデジタル・ネイティヴ世代だ。物心ついた頃からインターネット・ゲームで世界と繋がり、物の売り買いもネットを通してする事を親に進めてくる。

IT化の波を企業側がコストをかけて取り入れる時期もあったが、一技術士だった佑志は電気工事一筋でITの波にも乗り遅れれ、経営にも取り込めなかった。
それはそれで同情もあるが、かといって今回の件とはまるで関係はない。

瑠美は剛志の部屋へ風呂に入ってもう寝るようにと伝えに言って、再びリビングへ戻ってきた。
夫婦の立場が入れ替わった最初の日だった。夫が先に帰ってきて、経営トップに立った妻が遅れて帰ってくる。

「ちゃんと言いつけを守って、家にはいたみたいね」

夫婦2人だけの時間が訪れた。ここからは子供達には聞かせられない対話が始まる。無論、何があったかも知らせてはいない。
佑志はソファから降り、床に座り込んだ。

「何度謝ろうと、君が許してくれないのはわかる。過ちを犯したのは俺だ。子供達も裏切り、君を傷つけたのも俺だ」

瑠美はキッチンで冷蔵庫からコロナの瓶ビールを取り出し栓を開けて、一切れのライムを押し入れた。今夜はもう食事を取り入れるつもりはない。
さほどアルコールに強い訳でもなく、適量をフルーティーに飲めるこのメキシコビールを瑠美は好んでいた。自宅でも買い込んでいる。
シンクのヘリに片手を付き、佑志を軽蔑の眼差しで見下ろしながら、もう片方の手でビールを口へ流し込んだ。
佑志がリモコンでテレビを消した。外の夜のシジマがリビングに滑り込んできた様だ。

「だから?また彼女を庇うのかしら?」

佑志は何も答えないが、その顔は懇願で満たされ、目で語っている。

「あなたが…いえ、あなた達が裏切り、傷つけたのは私や家族だけ?会社や社員達を裏切ったとは思ってないのかしら?それがあなたに社長の資格はないと、その席から降ろした理由なんだけど」

「それなら…クビにされて離婚されても仕方ないと思ってる…」

「あなた、考え甘くない?いずれにせよ、クビにして離婚しても、あなた達は膨大な慰謝料を払う事になるわ。
そしてあなたは、クビにされてどんな仕事で一からやり直し、その慰謝料を払ってゆくと言えるの?」

「彼女だけは…」

瑠美はすかさずその単語に反応し、言葉を返した。

「一緒に地獄へ落ちてもらうわ」

冷たくそう言い放ち、コロナのビールを飲み干す。

「今夜から、あなたは客間で寝てね。お風呂は剛志が上がった後、私が入る。あなたはその後に入るか、明日朝にシャワーでも浴びて」

一呼吸、間を置いて瑠美は続けた。

「離婚はゆくゆく考える。明日はあの美人会計士さんがお父様に伝えて、どんな答えを用意してくるか楽しみね」

瑠美の声のトーンに、楽しみなど感じない。ましてや怒りや憎しみでもない。
哀しみが色濃く滲んでいた。

「待ってくれ!話を聞いてくれ!」

佑志の静止も虚しく、瑠美はリビングから自室へ立ち去った。

〜◆〜

朝を迎えた。
快晴だったが、麻友子の気分は清々しくはなかった。

昨夜は達郎の思いがけぬ訪問と、意を決しての告白により、麻友子の瞼は泣き腫らした跡が残っている。鏡を見て気を揉んだ。
眠りも浅かったと思う。脳が明瞭な思考を拒んでいる。

今日も瑠美は電話をかけてくるかもしれない。 
いや、私から連絡せねばならなかったのだろうか?
そういえば、佑志からは結局電話がかかってこなかった事を思うと、加藤に頼んだあの手紙はちゃんと佑志には渡っていなかったのだろうか? 
それとも彼は、やはり電話をかけられない状況にあったのか?

よぎる思いは幾つも湧く。
しかし麻友子のボヤけた思考は、それらすべてを「どうでもいい、どうとでもなれ」と切り捨てる。

化粧と身支度を済ませてマンションを出た。事務所へ向かう足取りは重い。いや、それは別に今朝始まった事ではない。昨日の瑠美と会った時からずっと重い。
普段の元気と自信に満ちて活発で、有能に働く自分はいつ、取り戻せるのだろうか。もしかすると、そんな日は二度と帰ってはこないのだろうか。
日頃はスタッフが気落ちしている時も、クヨクヨするなと檄を飛ばしていた自分である。麻友子は「弱気になる」という感覚を思い知った。

昨夜、達郎は一通り麻友子の話を聞いていた。
聞いた後で達郎が尋ねた事は一言だけだった。

「彼を…愛していたのか?」

麻友子にとっては予期せぬ質問だった。
話の脈略として、会社に、そして現段階ではまだ社長である父親に迷惑をかけてしまうかもしれないという、自分の犯した罪と罰の告白だった。自分の平穏を自分の手で壊した、そういう懺悔の時間だった。
そう問われるまで、佑志の事など考えてもいない自分にその時、気づいた。果たして自分は彼を愛していたのだろうか…?

「わからない…その時は愛してた…今は…わからないの」

再び涙が溢れた。

達郎から彼への愛を確かめられた事で、麻友子は話の道筋の迷子となった。
質問の意図はわからない。親としては、子供が不倫をしてそれが知られた時、世間では子供にそう尋ねる事は普通なのかもしれない。その意図や世間の普通などわからないし、知りたくもない。

ただ、不意を突くこの質問で、本当に心の奥で考えていた事や感情を、そしておそらくは麻友子自身も意識していなかったであろう事を、芋づる式に掘り起こされ気付いてしまった。

愛…ではない。

佑志の家庭を壊すつもりはなかった。だが、人の目を盗んで密会を重ね、佑志との間に育てようとしてた物…それは愛だったのか?と問われあらためて考える。
愛していたのか?
愛。自分を犠牲にしても相手にとってベストの状態を望み、与える感情。遠い過去に達郎は、麻友子にそう教えてくれた。
そして経営者たる者、それは社会の為、顧客の為、社員の為に矢印を向けるべきだと彼女に聞かせていた。
もし「自己愛」たる物があるならば、それは自分の本当の理想と使命を果たす自分に向けるべきだとも。己の私利私欲に向けてはならぬとも。

愛だと思っていた感情は、愛ではなかった。
この件で瑠美と会い、麻友子がずっと考えていた事は保身だけだった。
第一、佑志が電話をかけてきて会えたとして、自分は何がしたかったのだろう。
傷の舐め合いか。それともうまくこの危機を乗り越えようとする辻褄合わせか。

愛ではないのなら、何だったのか?

彼と2人で会う様になったのは、元々会社の経営の悩みだった。
自分の経営者としての力量の不足、妻との経営方針の対立、そして自分は認めてもらえない歯痒さ。
同情し、慰め、そして抱かれた。

その行動と感情の正体は麻友子自身がただ、合意する異性とシチュエーションを求め、都合良く性欲とストレスを処理したいだけだった。
けして愛ではない。ただ、魔性の獣であっただけ。

達郎にとってはまだ「愛している」という答えの方が救いだったかもしれない。皮肉にも麻友子は肩の荷が降りた思いも味わった。
「わからない」の答えは十分に愛を否定していた。達郎は落胆しただろう。麻友子に経営者の資格無しと思ったかもしれない。

問いの答えを聞いて達郎は静かに
「部屋の中だけじゃない。気持ちも…整理整頓しておけよ…」
そう残して帰って行った。背中が失意を語っている様だった。

私は今、朝を迎えて事務所に向かって歩いている。
不思議と太陽の光を浴びているうちに、心の靄も晴れてゆく様だった。これは開き直りなのか。
達郎にも打ち明けた。免罪符はもう無い。臆する事はもう止めよう。どんな償いも受け入れる。そう自分に言い聞かせていた。

きっと生まれてから今までで、一番の苦痛を味わう日の筈だ。

〜◆〜

「おはよ〜」

麻友子は精一杯、明るい笑顔を演じて事務所の扉を開けた。
早くも加藤が出勤しており、デスクでパソコンと向き合っている。加藤は眉を上げて麻友子を見た。

「おはようございます。具合はもう良くなりましたか?」

間を置いて挨拶をしてきた。麻友子はいつもと空気感が違う加藤の雰囲気を、もしやまだ何か疑っているかと怪訝の念を持ったが、努めて日常を維持しようと声をかけた。

「昨日は心配かけてごめんなさいね、加藤君。今朝は早かったのね」

「当たり前じゃないですか。昨日は全然仕事にならなかったんだから。今朝は社長にも詰めて働いてもらうしかないですからね」

取り越し苦労の様だと胸を撫で下ろした。
昨日のあの後、加藤が川崎電設に行って何か問い正されはしなかったかと気がかりも残るが、最早慌てる事はやめよう。そう腹を括ってきた筈なのに、やはり事務所へ来ると緊張が全身を駆け巡るものだ。

左手首、相棒のパテック・フィリップを覗き込んだ。
麻友子は自分への褒美にと購入したこの時計を、誇りにしている。公認会計士となり、幾つかのクライアント企業の監査を2〜3期務めた頃に、その中の一社の社長に「一つくらい、いい腕時計を持つべきだ」と進言を受けた。
最初は気乗りなど全くしなかった。その社長が腕時計マニアだという事もあり、酔狂と見栄で言ってるだけと捉えていたが、それでも彼の一つの言葉が胸に引っかかる。

「坂上さんも公認会計士の資格を取るまで、色々と長い時間をかけて勉強してきたろう。そうやって時を刻んできたし、これからも色んな勉強をして刻んでゆくんだ。人生は時間だよ。せめてその時を覗く時くらい、自分の足跡に誇りを持ててテンションを高めてくれるご褒美の時計で覗きたくないかい?いや、覗くんじゃない、やはり刻んでいるんだ」

その言葉にだけ妙に残り、何となく「いい時計」を買ってみようかという気になった。それからとゆうもの、高級な腕時計を気にして見る様になり、このデザインと出会った。
買う時は奮発した。「清水の舞台から飛び降りる」とはこんな気持ちなのかと思った。初めての高額な買い物だったが、以来、この時計を覗く度に、これを付けてて恥ずかしくない仕事をしてゆこうと決意がこみ上がってくる。

横沢をはじめ、事務員達も徐々に出勤してくる。父親が普段、出社する時刻まではまだ30分程余裕があった。
瑠美から言われた台詞が蘇る。「お父様に相談して、誠意を見せなさい」とりあえず、第一の難関であった達郎には打ち明けた。
そうか。慰謝料の相場とは幾ら位なのだろう。それを調べなければならない。自分が今までで購入した最高額のパテック・フィリップをもう一度覗く。
この時計と、どちらが高いのだろう。
時と共に積み上げてきた物が、今日、崩れゆくのだろうか。

「そういえば社長」

加藤が声をかけてきた。パソコンのキーボードを打つ手を中断し、頭の後ろで手を組んで椅子に反り返りながら麻友子を見る。随分と慣れて態度に貫禄が付いてきたものだ。

「なに?」

麻友子はスプリングコートを脱ぎかけで、振り向く事なく返事を返す。

「昨日渡された封筒、ちゃんと川島モータースの常務さん宛に届けておきましたよ」

コートを脱ぎかけていた体の動きがピタリと停止し、スローモーションで麻友子は振り返った。
思考は急に、深い霧が立ち込めてゆく様だった。

「え……今…何て言ったの?加藤くん」

「だから、ちゃんとお手紙、川島モータースさんへ届けましたよって言ったんです」

「え?え?ちょ、ちょっと待って!川崎さんにじゃなくて?」

「え?僕の方こそ「え?」ですよ!川崎さんに挨拶回りに行くのはわかりますけど、何故、反対方向の川島さんへもかなぁと思ったんですから。
僕、聞き直しましたよね?「川島さんですか?」って。社長、確かに「川島さん」って言ってましたよ」

「私、川崎さんって言わなかったっけ?」

「やだなぁ、社長!はっきりと川島さんって言いましたよ!」

この瞬間も時計は時を刻んでいるのだろうか。少なくとも麻友子は自分の身体が凍りついてゆく様だった。痛恨のミスだった。

「加藤くん、私…あれは川崎電設の常務さんに渡して欲しかったのよ…なんで貴方に川崎さんに出かける様に指示して、川島さんにも行ってなんて言うはずが…無いじゃない」

麻友子はつい、己の間違いを加藤へ責任転嫁し出した。
責められてる事に気づいた加藤は驚きも隠さず、目には心外だと言いたげな呆れの色を浮かばせた。

「社長!僕だって反対方向を二軒回らされて自分の仕事は止まるし効率悪いなぁとは思ったんですよ!
でも、社長が間違いなく川島さんって言ったものだから…
昨日は川島社長さんとのランチ会もすっぽかしたじゃないですか!?てっきりそのお詫びとかかなぁと思ったんですよ!
社長は具合悪そうだし、あまり詮索出来なかったんです!」

加藤は苛立っていた。それもそうだろう。一気に不協和音の空気が立ち込める。
麻友子は自分の非を認めたくない余り、禁断の嘆きの言葉を加藤にぶつけてしまった。達郎が嫌う上司がやってはいけない行為の一つだ。どうして思い止まる事が出来なかったのか、後悔する。

「社長、とにかくあの時、確かに川島さんって言いましたからね…」

加藤は不機嫌をあらわにした。

「…ごめんなさい」

昨日から謝ってばかりだ。麻友子は自己嫌悪のため息が漏れる。
また問題が一つ増えた。川島モータース側ではあの手紙を読まれただろうか。
佑志宛に書き上げた文面を思い返す。どう捉えても不倫関係にあった男女の会話だ。顔だけ体温が上昇し、再び目眩が襲ってくる様だ。

今朝は出勤すれば昨日の早退分、作業が滞っている事はわかっている。川崎電設に担当を外され加藤への引継ぎもある。
そんな中、麻友子は加藤の隙を突き、弁護士をしている大学時代の同級生に、離婚調停や裁判における慰謝料の相場などを探りを入れようとも考えていた。
そんな事よりも更に重大な優先事項が降ってきた。川島モータースへ渡ってしまったあの手紙を止めねばならない。いや、手遅れか?

どうすればいい…?

事務所へ辿り着くまでの間に、「開き直り」による落ち着きを取り戻したのだが、それ以上に心はもうバラバラになりそうだった。

そこへ…コン、コン、コン
達郎のいつもと変わらぬ規則正しいリズムのノック。いつもの朝よりも早い時間の達郎の出社だ。
昨夜、マンションで達郎と面会、泣きながら告白と謝罪をしてから12時間と経っていない。
達郎は麻友子と加藤の事務室に入室してきた。

「おはよう」

達郎はいつもと変わらぬ挨拶だった。
合わせる顔は…まだ用意していない。達郎が来るまでの間にまた更に心の準備をしようとしていた。弁護士の友人への電話も。

「おはようございます」

加藤と二人、挨拶を返すも麻友子のパニックは頂点に達した。

「加藤くん、麻友子、今日はやる事も色々多いだろう。昨日一日分の遅れを取り戻さなきゃならんしな。
だが、済まない。今日も夕方から麻友子、君は私と一緒に来なさい。川島社長もいる。わかるね?」

わからない。わかるようでわからない。
川島の名前も出て、心臓を鍼で突き刺されたよな痛みが走る。夕方には…この日中には瑠美へも答えを届けねばならない。麻友子の中で、何重もの苦痛タスクが竜巻となり渦巻き出す。
ただ一つだけわかる事は、父親のその口調は「今日は逃がさない」という強い決意に満ちている事だった。

〜◆〜

かかってきた突然の電話の主が、地元財界の大物・川島グループ会長、川島悟と聴いて瑠美は緊張を走らせていた。
こんな朝の早い時間から、思いもかけぬ相手からの連絡に、何事だろうと戸惑いに包まれた。
まだ自分も到着する前の会社に電話が社長宛にかかってきて、取り次いだ社員がまだ出勤前である事を伝えると、折り返すよう個人の携帯番号を伝えてきたと言う。

表向きは市内で新車・中古車の販売や損保代理、自動車整備等を請け負う「川島モータース」社長で通っている。しかしもはやそれだけではない。その中古車販売において、インターネット上にECサイトを立ち上げるに当たりwebデザインの会社を立ち上げ、しいてはその分野において他社にコンサルティングをするまで手を広げてきた。
地元においては多角経営の成功者として、地域経済を支える顔役の一角として名を轟かせている。

瑠美の番号を押す指が慎重だった。粗相出来ぬ相手である。だが、それだけではなかった。
自分が社長就任を強行してまだ間もなく、夫・佑志とその不倫相手の坂上麻友子を追い詰めているこのタイミングである。不自然さの勘が鋭く働いていた。大物と近づけ、もしかすると自社にとって都合の良いビジネスが飛び込むかもと、手放しでは喜んではいない。警戒のアンテナを張っていた。
電話の呼び出し音が鳴った。

「はい、川島です」

「川崎電設の川崎です。会社にお電話頂きましたようで、恐れ入ります。川島社長さんとはお初になると思いますが…光栄でございます」

「おぉ、貴方が川崎電設さんの新しい社長さんですね。初めまして。今日は老いぼれの突然の無茶な申し出にお応え頂き、こちらこそありがとうございます」

「いえいえ、そんな事はございません。私の様なヒヨコに社長自らお電話を頂けるなんて、夢にも思っていませんでしたから」

「なるほど。お噂通り、聡明で賢そうな社長さんです。将来の御社のご繁栄も保証され、先代の会長さんもさぞやご安泰ですな」

世辞のラリーが続く。世間では人格者と評判も高いだけあり、礼儀正しくけして威圧も感じさせない。
しかし瑠美は油断は見せず、川島とも駆け引きの交錯である事は読み合っている。

「そんな事ございません。まだつい昨日、就任したばかりの駆け出しのヒヨコです。流石にお上手ですね。
ところで川島社長、本日は私などにどの様な御用でしたか?折り返しのお電話をさせて頂く程だなんて、青天の霹靂で何のお話かとドキドキしております」

川島は白々しく、「そうでした、そうでした」と高い声を張った。その声はまさに怪老人の様だった。

「新進気鋭の社長さんの、貴重なお時間をこれ以上奪う訳にはいきませんな」

朗らかにそう告げた後、ふた呼吸程の間の後に、打って変わる低い声でボソリと言った。

「坂上の件です」

瑠美の予感は当たったが、川島の態度の急変に底知れなさを感じた。
しかし、瑠美もたじろぐ訳にはいかなかった。

ふと父親が現役時代に、銀行員と貸し渋り、貸し剥がしの交渉をしていた場面を思い出す。当時、瑠美は経理責任者としてそんな場面に立ち会っていた。
あんな場所に居合わせた経験が糧となった事を父親に感謝しつつ、私をその辺の小娘と一緒にするな、心の中でそう呟いた。

「まさか川島社長のお耳に入っていたとはお恥ずかしい限りです。川島社長がどの様な経緯で坂上さんとお繋がりかは存じ上げませんが、あくまでも私的な事でして、申し訳ございませんが第三者である川島社長が関わる事ではない様に考えておりますが?」

「実に仰る通りですな。ところが坂上とは昔から私も盟友でして、川崎社長さんとの示談の仲介を頼まれた次第です。
困ったのは私の方ですよ。私としてはまったくの利にもならぬ余計なお節介だ。坂上の娘の事は私もよくは知りません。それに、これから経営者として越えてはならぬ道徳を犯した。然るべき罰を坂上も受けるべきです」

川島は淀んだ声のまま、流暢に話した。電話なので表情は見えないが、数々の駆け引きの場数を踏んで来たであろう雰囲気に、瑠美も不気味さを感じた。

「示談?それでしたら尚の事、私と坂上さんとで進めますよ。川島社長も他人の家族の痴話話に首を突っ込むのは時間の浪費ではないでしょうか?」

「ふふ、さすがに痛い所を突かれる。新しい社長さんは弁も達者だし、なかなかやり手ですな。それは私本人が一番思う所でありますよ。他人のスキャンダルなど正直、首を突っ込んでいる程ヒマではありません。ただ、いかんせん、坂上には断り切れない義理がありましてね。
義理はあるが、貴方のお怒りの気持ちの方がよくわかる。私は貴方を救いたいんだ」

瑠美は虚を突かれた。

「どうか老人への親切と思って話を聞いてやってもらえませんか」

何かある…これは間違いなく坂上サイドの差金だ。鵜呑みにして、川島がスムースに味方になるとは思えない。瑠美は川島の腹を洞察を試みながらも、川島と繋がっておく事、この話を聞く事にメリットはあるかどうか計算していた。

「具体的にはどうしろと仰いたいのですか?」

「その前に失礼ですが、立ち入った事をお聞きしたい。貴方はこの件は離婚はせず示談を望んでらっしゃるのですか?それとも離婚を前提に調停や裁判へと持ち込むつもりですか?
勿論お答えになりたくなければ答えなくて結構ですし、けして他言は致しません」

先日も瑠美は夫・佑志に「離婚はゆくゆく考える」と答えた事を思い出す。
だが実際にその点は瑠美は、子供達の事、そしてスキャンダル情報が会社に与える影響を鑑みて、現時点で離婚は考えていない。ただ「最後の切り札」として取っておく覚悟はあった。
そして今はその手の内を、赤の他人に知らせる訳にはいかない。

「それについてはお答えしかねます。川島社長が坂上さんとどの様な関係にあるかはわかりませんが、何故そこまで坂上さんへ肩入れするのか、いささか疑問に感じています。
川島社長のお考えをお聞かせ願いたいです。一体どうされたいのですか?」

「そうですね。大変失礼しました。本題に移りましょう。貴方がこの先、どういうおつもりでいらっしゃるにせよ一度、坂上側の当事者と、向こうの代表であり父親でもある坂上達郎を交えて話し合いませんか?そこに私も同席します。
貴方はご主人や弁護士さんを連れてきても、お一人で来ても構いません。
ただこれだけはわかって欲しい。私も仲裁をしようと考えている訳ではありません。
勿論、弁護士さんと相談されてからでも構いはしませんが…当事者も犯した罪の償いは受けて然るべきかと思っております」

川島の言葉には毅然とした正義の重みは感じる。地元でも信頼足る人物だと評される事は理解出来る。反面、駆け引きに長けた人物だという感も拭えず、警戒は解いていない。

「その話し合いとはいつですか?」

「早速急な話で申し訳ないのですが、今日の夕方です。スケジュールは立て込んでますか?」

〜◆〜

「そりゃ、離婚してもしなくても相手のパートナーは君に慰謝料の請求は出来るさ」

スマホ越しに大学時代の同級生で弁護士の樋口はあっさりと言い放った。

「やっぱり?」

「ああ、やっぱりだ。しかし…久しぶりの会話が不倫の相談とは…。坂上も大人の女性になったもんだな。相手はどうゆうつもりかはまだわからないのか?」

「茶化さないで。まだそれはわからないし、深刻に悩んでるのよ。仕事への影響もそうだし…」

「そうだな。それが厄介だな…いずれにせよ、その状況だと君が圧倒的に不利だぞ。相手の出方次第だけどな」

「うん、もう観念してるわ…と、言いたい所なんだけど」

「なんだけど?」

「やはりね、いざこうなると怖いものだらけよ。金銭面は幾らなのかって事もあるけど、父にも知られたからには、私の立場は?将来は?相手はどうなってくの?あれこれ考えちゃうの」

樋口は気心の知れた異性の親友の一人だ。お互いに恋愛対象を意識する事もなく、開放的な話題を話し合える。数年ぶりの会話も流れた時間を感じさせずに、大学時代に引き戻すよな錯覚が包んだ。
そう、時間を戻せたらどれ程良いか。

「気持ちはわかるよ。僕は離婚問題は専門分野外だけど、少なからず僕のクライアントでも男女問題に悩んだ人達は見てきた。
そういう場合の慰謝料の相場はね…」

と、樋口が言いかけた所で、加藤がオフィスに戻ってきた。
もうすぐ業務時間は終了する。加藤が席を外している隙に麻友子も旧友に電話をかけていた。

「申し訳ございません。その件はまた後日、詳細の資料を準備してお届けしたいと思います。一週間ほどお時間を頂けますか?」

これ以上、電話をしている事が難しくなったと察した樋口はすかさず反応してくれた。

「わかった。いよいよ修羅場だな。力になれる事は少ないが、何かあればまた連絡を待ってるよ」

「ありがとうございます。またご連絡させて頂きます。失礼します」

落ち着き払った所作で電話を切る麻友子を見て、加藤が声をかけてきた。

「お客様ですか?資料請求なら横沢さんとこでもいいのに」

この男の鋭さはいちいち何なのだろう。野生の勘が働くのかと思えば、時に無邪気な少年の様にふざける。その落差感がまた麻友子を緊張させた。

「コンサルティング協会の会員誌の取材依頼みたい。寄稿も頼まれたけどこの通り立て込んでるじゃない?だから向こうで書いてもらうけど、そのプロフィール掲載のウチの事務所の歴史や実績を欲しいんだってさ」

こんな些細な事も含め、我ながらどんどん嘘が上手くなってゆくものだ。麻友子はそんな事を考え、そして「辛い」と思った。

「まずは今月を乗り切る事を優先させましょう。どうですか?社長の今日の作業は捗りましたか?」

「ぼちぼちね」

「今日はこれから、前社長と川島社長と会合でしょ?社長はもう出かける準備されていいですよ。後は僕が残業で少しずつ進めておきますから、直帰されていいですから」

「あら、加藤くん、どういう風の吹き回しかしら。ありがたいわ。本当にそう、今月を乗り切る事を優先させましょう。でも今日は言葉に甘えるわ。
私も実は川島社長にお会いするの初めてで。どうご挨拶すればいいのか頭が一杯だったのよ」

実際、そうだった。
地元の経営者団体でも川島社長が直接出席する事も少なく、父・達郎がどの様な経緯で懇意に付き合っているかも知らなかった。会計顧問も坂上会計事務所で請け負っているが、すべて達郎直通だ。

コン、コン、コン

達郎のノックが響いた。
入室してきた達郎は「お疲れ様」と二人を労った。

「加藤君、すまないがそろそろ麻友子を連れて出かけようと思うんだが、後は任せていいかい?」

「お疲れ様です。社長。ちょうど今、そう話していました。大丈夫です」

「そうか。すまんなぁ。麻友子、お前はすぐ出かけられるか?」

「え?今すぐですか?」

早いと驚いた。腕時計を覗くと16時を回ったばかりだ。
もう30分はかかるだろうと睨んでいた。それまでの間に、覚悟を決めて瑠美へ連絡しようとしていたのである。
瑠美は麻友子に、父親に相談し、誠意を見せろと言った。勿論、「誠意」には慰謝料の額面の含蓄もある。それで樋口にも相談の電話をかけていた。

「私の車で行くぞ。17時上がりの渋滞も心配だし、今日はどうしても先方を待たせる訳にはいかないからな」

「そう…後片付けはすぐ済ませますが…今日はどちらへ?それにお食事もまだ早い時間かと…」

「そういえば言ってなかったな。今日は食事ではない。先日なら昼の食事だったのにな。
今日は中央文化センターの貸会議室を取ってある。どこかの料亭とでも思ったか?」

貸会議室?麻友子を胸騒ぎが襲う。
昨夜の事は加藤の手前、達郎も何事も無かった様に自然に振る舞っている。しかしオフィスを出て達郎と親娘二人きりになってからは、どんな時間になるのかと想像しただけで体が硬くなる。

「後片付けは今日はいいだろう。明日に持ち越す物ばかりだろ?事務所前に車を停めてある。三分以内に来なさい」

三分…腕時計を再び覗く。
パテック・フィリップが「気を強く持ちなさい」と語りかけている様に思えた。

〜◆〜

助手席に麻友子を乗せた達郎のレクサスは、静かに、かつ力強く走り出した。
車内の静寂はゆっくりと、麻友子と達郎の「社長と社員の壁」を融かし、再び「親娘の時間」に変えてゆく。

「お父さん…本当にごめんなさい。事務所でも気を使わせたみたいで…」

「過ぎた事はもういい。それよりもこれからだ」

「はい…」

過ぎた事…父親の優しさの欠片を感じたのは束の間、これからだという短い言葉に覚悟の厳しさを帯びていた。

「気持ちの整理整頓は進んでいるか?」

昨夜、達郎が麻友子の部屋の去り際に残した言いつけだった。そしてそれは達郎の口癖であり、揺るぎない達郎の信念であり、生き様だった。
「モノ」の整理整頓ばかりではない。行動、考え方、何事もだ。

麻友子は小さく頷いた。

「整理整頓の定義は覚えているか?」

「うん…整理は『不要な物を捨てる』そして整頓は『誰の目にも明らかにわかりやすくする』 お父さんと言えば整理整頓と言う程よ」

「すべて捨て切れたか…?」

佑志への気持ちを指しているのだろう。麻友子は素直にそう思って答える。

「彼を…愛している訳ではなかった事はわかったわ。でも…情はある。約束します。気持ちは捨てます」

達郎はチラリと視線を流し、言った。

「私が言ってるのはその事だけじゃない」

麻友子は父親が何を言おうとしているか、瞬時に悟り言葉を失った。
やはり達郎は深い。いつでも見抜かれている様だ。

「加藤君へ嘘を重ねたり、彼を言いくるめて負担を背負わせたり。人のせいにしたりはないか?
余計な見栄やプライド、執着心はないか?」

市街地を疾走する車に、柔らかい3月の陽光が射し込んでくる。確実に日照時間は長くなり、春は近づいているんだなとボンヤリと考えた。
私は一体…この人から何を学んできたのだろう。

「今日は川島の力も借り、川崎瑠美さんも同席する。これから私達が向かう所は紛れもない戦場だ」

麻友子は達郎の顔を見た。
達郎は前方一点を集中し、黙って運転を続けた。

〜◆〜

坂上親娘が待ち合わせ場所の貸会議室に着くと、そこには二人の男の人影があった。
五階にある部屋の窓から、外の人の往来を見下ろしながら会話をしている。

「川島、今日は世話になる」

「お、着いたか」

口火を切った達郎に気付き、二人の男性は振り向いた。
そこには麻友子もローカル・メディアでよく顔を見かける川島の顔がある。
ただ、達郎がこの地元の大物経営者である川島を呼び捨てに、そしていかにも対等の態度で接した驚きが緊張を凌駕した。

「紹介する。こちらが娘の麻友子だ。本当はこんな形ではなく引き継がせたかったんだがな」

達郎の紹介を受け、麻友子は名刺を川島に差し出しながら辞儀をする。

「いつも父がお世話になっております…この度は本当にご迷惑をおかけし…何と申し上げたら良いか…」

「初めましてだね、麻友子さん。お世話になってるのはこちらの方だよ。堅い挨拶は抜きでゆこう。先方もそろそろお見えになる」

「では社長、僕もそろそろ…」

もう一人の男性が口を挟んだ。川島の連れらしい。紳士的な好印象を抱かせる男性だが、麻友子にはそれを考えている余裕はなかった。

「おぉ、そうだな。帰る前に紹介だけしておきましょう。麻友子さん、こいつはウチの長男の賢一です」

「坂上麻友子さんとは初めましてですね。今日は社長とギリギリまで打ち合わせねばならない事があり、ここまで来ました。まだ帰社してやらねばならぬ事もあり、失礼致しますね」

川島賢一は達郎とは面識があるのだろう。麻友子に真っ直ぐ歩み寄り名刺を交換し合った。賢一の名刺を差し出す所作に、堂に入った美しさを感じた。続いて、賢一の手は流れる様にジャケットの内ポケットへ運ばれ、封筒を取り出した。

「株式会社 川島モータース 取締役常務 川島 賢一」
麻友子は名刺の役職を見て、深い気恥ずかしさと後悔が沸いた。自分が誤って加藤に手紙を届けさせた川島モータース常務の姿がそこにある。同時に、手紙の内容はおそらく賢一から川島へ、そして達郎へと伝わったのだろうと推測しこの話の運びに至るすべてを理解した。

賢一は麻友子に封筒を手渡した。

「これはお返しします。お互い『川』で始まる類似した姓とはいえ、手紙の渡し違いとはご職業柄からいっても致命的なミスでしたね。
御社の加藤さんがコレを私に…と持ってきた時は何だろうと思いましたし、実際に読んでも私には身の覚えはなかった。
ただ…申し訳なかったのですが、父があなた方親子の事を常日頃からとても気にかけてるのは知っていましたので、父には相談させて頂いてました」

川島が私達親子を気にかけている?一体、達郎と川島の間にはどの様な過去があるというのだろう。一抹の好奇心も湧くが今、それを問う事は憚れる思いに立ち返る。

「キツい事を承知で申し上げますが、私には人のゴシップには興味もない上、関わろうとも思いません。ですので、けして他言は致しませぬゆえ、そこだけはどうぞご安心を」

賢一はそう言うと踵を返した。

「おっと、こんな時間だ。では、皆さん、失礼致します」

賢一は丁寧に挨拶をし、貸会議室から去っていった。賢一の言葉の一つ一つに、麻友子の心には幾つもの刺し傷を残された。抜け殻になりかけた。
だが気を抜いている場合ではない。達郎が言った「戦場」の通り、これからが本番だ。しかも戦うまでもなく、負ける事もわかっている。自分はただ裁きを受けるだけだ。

「倅は何か失礼な事は言ってませんでしたか?」

川島が麻友子の背に話しかけてきた。麻友子は賢一から受け取った封筒をバッグへ隠しつつ振り返り、あらためて川島と対峙する。

「いえ…むしろ自分のいい加減さを正して頂いたよな思いです。とても優秀な方とお見受けします。
あの…本当に今日はお忙しい中、恐縮なのですが…何故こうまでして頂けるのかわからなくて、戸惑っております」

「麻友子さん、勘違いはしないで欲しい。私は貴方にとって都合良く円満に片付けるとは限らないだろう。川崎さんとは私も会話したが、あの人もなかなか見所のある経営者でしたぞ」

返す言葉もなかった。この間、達郎も沈黙を守っている。

「少なくともあなたは、お父さんの功績に泥を塗った」

達郎に訳も分からず連れてこられるまま、ここへ来た。もちろん、何故に川島がこの件にここまで関与しようているのかも。ただ、もしかすると川島が味方となるのではという淡い期待も芽生えていた事も否めない。
期待は砕けた。ますます自分はどうすればいいのか、この先に何が待っているのか分からなくなった。

貸会議室外の通路から、ヒールの足音が響いてくる。その音は部屋に近づくに連れて大きくなり、そして扉の前で立ち止まる気配があった。

扉が開いた。瑠美は静かに入室し、一同を見渡してから手短かに言った。

「お待たせしたようですね」

麻友子は自分の体が再び凍りついてゆくのがわかった。

〜◆〜

「川島社長、この度は突然のお電話を頂けました事、誠に感謝致します。あらためましてお初にお目にかかります。川崎です」

言いながら瑠美は名刺を出し、川島と交わし合った。

「いや、川崎さん。こちらこそ、急なお呼びたてに無理を聞いて頂き、こちらこそ礼を言わせて下さい。ありがとうございます」

「ご存知の通り代表に就任し立てでして、名刺の役職はまだ『専務』のままですが、いずれ新しい名刺が出来ましたなら、日をあらためてご挨拶に伺わせて下さい」

瑠美は川島と向き合っている間、坂上親娘には一度も視線を配らなかった。

「出来る事でしたら、こんな形ではなくお近付きになりたかったですけどね」

皮肉が鋭利な刃物となって場の空気を切り裂く。瑠美は体を坂上親娘へ向け直した。達郎は静かに麻友子の隣に歩み寄って並ぶ。

「川崎社長。いつもお世話になっていながらこの度は、娘の犯した過ち、そしてお客様への裏切り…けして許されぬ事ではありますが…」

達郎がそこまで言うと体勢を下げ床に膝を付いた。視界にその動きを察した麻友子も、達郎が土下座の謝罪をするつもりだと読んで、床に膝を付く。
案の定、達郎は土下座をし、麻友子も続いた。

「誠に…誠に…申し訳ございませんでした」

達郎の声が部屋の中によく通る。だが麻友子は姿勢こそ土下座のままだが、胸が詰まり声を出せずにいた。

会計士は監査業務ばかりではない。顧問先の経営や財務のコンサルティング業務も請け負う。麻友子はそんな達郎もそばでずっと見てきた。数多くの経営者達を、その豊富な知識と経験で、堂々と本質を見抜く目と哲学で、手腕を発揮している姿を誇らしく見ていた。
父親…そして尊敬する経営者の達郎はこんな事をしていい人物ではない。こんな屈辱感を味わせてしまった自らへの罪を呪いたかった。

瑠美は十秒程の時間、ただ見下ろすだけだった。これには川島も何も言葉を発しなかった。麻友子は目を閉じている。もう一時間もそうしている様な気がした。

「そんな安い頭下げられても、私の気が済む訳はないじゃない。父兄同伴の昼ドラ劇団かしら。顔を上げなさいよ」

瑠美は冷淡に言った。それでも動じぬ坂上親娘を見て瑠美は更に繰り返した。

「上げなさい」

床に額を付けているか程の達郎が頭を少し浮かせ、徐々に肘を伸ばす。麻友子もその動作を確認して体を起こした。

「まったく情け無い。同伴保護者にばかり話させて、当事者本人は何も言う事はないのかしら」

瑠美はバッグをテーブルに置き、腕を組んだ姿勢で達郎に話し出した。

「坂上社長、あなたは会計事務所の代表として所属会計士の不始末をこうしてお詫びに来る事は当然でしょう。でも同時に父親でもある。今回、娘さんには本当に幻滅させられましたわ。確かに麻友子さんにはお父様に相談なさいとは言いましたけど、川島社長まで巻き込んでこんな場を設けて、坂上社長自らの謝罪の場面を見させられるなど思いもしませんでしたわ」

達郎は俯き、唇を結んで聞いている。瑠美はそのまま川島を振り返る。

「川島社長、さてこれからどうするのでしょう?ずっとこのまま『すみません』『許さない』を繰り返すだけかしら。時間の無駄でしかないと思いますが?
皆さんにもお伝えしておきますが、皆さんがどういう経緯があって結託を組んでるのか、私の知る由でもなく関心もありません。ここがアウェーだろうと私はその女性をけして許すつもりはありませんので悪しからずです」

言い切る瑠美の言葉に、麻友子はあらためて達郎が言った「戦場」のキーワードが再び脳裏に蘇る。そして実際に幕を開けた事を実感していた。

川島が切り出す。

「川崎社長、お電話でもお伝えしましたが、今日の私はファシリテーターと思って頂いて結構。けしてアウェーだなどと思わないで頂きたい。
川崎社長の仰る通り、このままでは話も進まない。さ、坂上も麻友子さんも立ちなさい。
この部屋を借りてる時間も迫るだけだ。どうかここからは着座して話してゆく事を、川崎社長にもご了承頂きたい」

「わかりました」瑠美がまず答え、達郎、麻友子も順に従い椅子に腰をかけた。
必然的に瑠美と坂上親娘が対面する位置となり、川島は中央正面に座る。
麻友子は法廷ドラマの場面を思い出していた。正面に裁判長、向かい合う原告と被告。しかしこれは公式ではないにせよ、紛れもない自分を裁く裁判だ。

川島は瑠美に尋ねた。

「川崎さんはやはり今日はお一人で来られましたね。弁護士さんとは何かお話しされてきましたか?」

「今日は弁護士とは話さずに来ました。今日の話し合い如何によってで良いと思ってましたので」

「そうですか。その弁護士さんは会社で顧問契約をされてる方でしたか?」

「うちみたいな中小規模の会社では、顧問弁護士など抱えてはいませんわ。そりゃ、川島社長からすれば法的な問題を軽視してると言われても仕方ありませんが。そんな事に直面した事もありませんでしたし、正直そんな出費の余裕はありません。
それに、弁護士さんにも得意な分野はそれぞれいらっしゃいますでしょう?その道の得意な弁護士さんを今回動いてもらった探偵業者の方に紹介頂きました」

会話を聞いている間、麻友子はますます暗鬱に陥ってゆく。会話はすべて、自分と佑志の行いをさらけ出す為にどれだけの人間が動いていたのか。それらすべてを金勘定の話をしているように聞こえていた。
一時の快楽に溺れる事が、どれだけ深い闇へ引きずり込まれる事か、そして自分がこれ程までに弱い人間かを思い知っていた。
川島は頷きながら傾聴し、一呼吸の間を置いて再び話し出した。

「わかりました。では、本来であればまずは坂上から切り出す所、僭越ながら私から示談の提案をさせて頂きたいと思います。
くどい様ですが私はファシリテーターと申しましたが、多少の老人の老婆心ながらのアドバイスも加わるであろう事はご容赦頂きたい。私も時間を裂いてここにいる訳ですしね。ただ、けして坂上の肩だけを持つつもりはない。麻友子さんは…それだけの過ちも犯したんだ。然るべき償いは背負うべきだとは私も認めます。
その上で、川崎社長さんにとってもベストとなる提示をさせたいと思います。
こんな示談依頼など、当事者側の坂上の方からは切り出しにくい事ですから、今日の私がここにいる様な物です」

「川島社長のお立場は聞いて安心しましたわ。でもそれは内容とは別の話です」

「ええ、仰る通りです。さて…限られた時間ですので、双方とも進行してよろしいでしょうか?」

瑠美は「どうぞ」と返事をし、達郎も黙って頷いた。麻友子も神妙に頷いた。何一つ、言葉を出せずにいたままだ。
川島の表情が厳しさを纏った。部屋の温度が2〜3度下がった様に感じた。

「では…本来は坂上から切り出すであろう事ですが、第三者から述べた方が良い事もある。彼も一度は謝罪の意は見せた訳ですし、時間の無駄を省く為にもまずは私から述べさせて頂きます」

川島がこうして場を支配してしまう運び方は流石と言えた。麻友子も瑠美も次の言葉を待った。

「川崎社長、様々な感情は理解する。それでもご家族の事、今後あなたが会社を健全に経営してゆく事などを広く鑑み、やはり離婚は回避すべきと考えております。
その上でご主人と相手の関係の継続を断つ為に、今後の関係再発を牽制する為にも、あなたの精神的苦痛の代償に相手に慰謝料を請求するのは当然の権利だ」

瑠美の口元には薄い笑みが浮かんだ様に見えた。対照に麻友子は川島の一言一言が、頭をハンマーで打たれるよな衝撃で響いている。もうこれだけで「判決文」を読み上げられている気分になった。

「その上で慰謝料の金額面の話です。
通常、離婚しない場合に相手に請求する慰謝料の相場は五十万円から百万円です」

そこで瑠美の表情が曇り出した。

「だが今回は坂上会計事務所が川崎電設さんに依頼され会計監査を請け負う立場でありながらの、重大な背任と違約の行為でもあると判断し、相場の二倍、二百万円、加えて探偵業者や弁護士さんへの相談料などの実費を川崎社長へお支払いさせたく考えます。当然、これは坂上の同意もあります」

瑠美は突然、テーブルを激しく叩きつけ、その反動も利用するかの様に立ち上がった。その目には憤慨の炎で激っていた。

「冗談じゃないわ!何ですか!その金額は!」

「不服ですか?」

「川島社長、不服も何も!安く見られた物だと憤りを感じえません!」

テーブルに両手を付き、前傾する瑠美は全身でその怒りを表している。そしてその手は怒りで震えていた。

〜◆〜

「川崎社長。弁護士さんからは離婚しない場合の慰謝料の相場は幾らくらいかと尋ねてはおりませんか?」

川島は、ヒステリックになった瑠美に動じる事もなく、宥める口調で問いかけた。

麻友子は起きている状況を掴めず、瑠美と川島を交互に見渡し、そして視線を達郎へ移した。達郎は表情を変える事なく成り行きを見守っている。

「主人の不貞行為を確認し、すぐに紹介を受けた弁護士へ相談しましたわ!
相場は最低でも五百万、更に今回は弊社が監査業務を受注しているにも関わらず担当会計士が相手という状況…他にも諸状況からみても金額は上がるだろうとの事を伺ってます!」

「川崎社長、それがあなたが離婚を前提としての場合です。離婚せず相手に慰謝料を請求するなら先程の金額が相場です」

冷静さを欠いても、整然と話せる瑠美には麻友子も感心するしかなかった。この示談の場に川島がいなければ…果たして自分一人ではどうなっていた事かと内心、安堵を感じてもいる。

「では…わかりました。私は離婚を選択すればいいのですね」

瑠美の感情に乱れが見えてきた。麻友子はそうなるだろう展開を読みつつ、自分の処分はまだ不透明である事に動揺している。
川島の態度は変わらず落ち着いたままで、瑠美に再び座るように進めた。

「まぁ、まずは落ち着いて下さい。私の見立てではあなたは落ち着いて対話が出来る人だと評価しているんですよ。
あくまでこの提言を受けるかるどうかも川崎社長、あなたの選択です。もちろん普通であれば離婚という選択は当然です。しかし、それを選ぶ事は安易だと私は思うのですが。
というのも今、ここに新たな女性経営者が立ち上がり、御社が地域経済を牽引してゆくであろう未来に大きく期待している。その船出がこんなスキャンダルで頓挫する事を惜しみもするのです」

瑠美のため息が漏れる音が聞こえた。

「川島社長、話が反れている様にも感じますが」

瑠美の口調は変わらず強気だった。

「では離婚が成立したとしましょう。この場合、あなたはご主人にも慰謝料は請求するでしょう。調停では養育費の話も持ち上がる。そしてあなたは…もしくはご主人は、果たして同じ会社でお務め続ける事は出来ますかな?おそらく無理でしょう。あなたが解雇するまでもなく、彼から去るかもしれない。
ご主人には電気工事に関する技術はお持ちだ。逆に言えばそれ以外に道はないかと考えます。おそらく再就職も他の電気工事店でまた一から出直す事になる」

「それは別れた後のあの人の自由ですわ」

「そう、ご主人の自由です。あなた方の業界の事も詳しくは知りませんので、あくまで素人の考えですが、もしかするとオール電化事業や太陽光発電などの営業なども可能性はありますね」

瑠美は顔にこそ出さなかったが、鋭い経絡を突かれた気になっていた。以前は社内でその分野にも進出すべきかと議論していた。実際に社員を研修にも通わせた。佑志が代表時期に彼の反対により、大きく出遅れ他社に差を付けられた部門である。
その時の選択が、決断が、もし自分に任せられていたのなら、どの様なパラレルワールドへ辿り着いていた事であろう。「タラレバ」な思考が辛かった。

「いかがでしょう?ご主人は営業の仕事は出来る性格ですかな?失礼だが、ご主人が代表を務められていた時代の御社は、転がり続けるローリングストーンだった筈です。技術畑出身だったご主人には経営は重荷だったのだろうと思われます。
私も伊達に年齢だけを重ねてきたわけじゃない。多くの離婚した夫婦とその後を見てきました。
残念な事に定められた養育費も払えずに、お子さんを引き取った多くの女性が泣き寝入りしている現状をです」

瑠美の怒りを眼光に宿したまま、視線を坂上親娘へ向けた。その動作を確認した川島は達郎へ目配りをしてバトンを渡した。

「私ばかりが話してしまいました。失礼しました。坂上、君からも川崎社長へお伝えする事はないか?」

達郎は静かに顎を引き、膝の上に乗せていた両手をテーブルの上に乗せ手を組んだ。麻友子の脳裏には先程の土下座の場面が蘇り、緊張が高まる。
罪深き娘の父親として詫びの言葉を発するのか、坂上会計事務所の社長としての詫びの言葉なのか。
だがそのどちらでも無い、言葉であった。

「川崎社長。自分達の分もわきまえず、発言する事をどうかお許し下さい。現時点では弊社はまだ御社の会計監査を請け負わせて頂けてると思います。一会計士としての立場からです」

達郎の言葉には、先程の悪びれた様子が打って変わって消えていた。瑠美は一瞬眉を寄せたが、すぐに虚を突かれまいと構え直した様だ。

麻友子にとって、展開が目まぐるしく移り過ぎていた。達郎と川島が何か考えがあっての事なのか…胸の高鳴りを抑えている自分に気付いた。

「仮に川崎社長が五百万円以上の額を請求されてきたとして、私が案じているのはそれを御社の財務諸表の中へ巧妙に組み込んだりはしないだろうか…という懸念です。つまり粉飾決算です。
これは仮の話ではありますが、可能性が無い話ではありません。
私共は立場上、御社の状況は把握しております。川島社長もいる手前、守秘もあるので細かい話は避けますが、今回の件で負い目を持つのは手前共です。
もしもその事で手前共が、その粉飾の肩担ぎを…もしくは見過ごしを求められるとすれば…その時は公認会計士の矜持を持ってお断りさせて頂きます」

麻友子にも、3月末を年度末とする川崎電設の財務諸表の数値は頭の中にあった。また、昨今の地銀の貸し剥がしの動きは、前年度の業績を大きく下回る場合、露骨に目立つ空気も既に察知している。
瑠美の計算高さと頭の良さ、そしてこれまでの会話から伝わる会社への責任感、愛社精神と一切の妥協を許さぬ「鬼気」とも言える正義感…達郎が述べた仮説と符号が一致すると感じた。

麻友子は恐る恐る瑠美の顔を見た。瑠美はまさしく鬼の様な目で麻友子を睨み続けていた。その眼力の圧力に臆し、麻友子はまた目を伏せてしまった。

「もちろん、私の思い過ごしである事を祈っておりますが…」

達郎は一言そう捕捉した。

瑠美が何も反論しない状態は、かえって暗黙に図星を示している。麻友子は不謹慎と思いつつも、達郎と川島のこのコンビネーション・プレーをあらためて凄いと見せつけられた思いでいた。

「仮に…仮にそうだとして坂上社長。今のあなた方の立場で、それをこの場で私に言える資格がおありなのかしら」

「川崎社長、ですからこれは、一会計士の立場として申し上げさせて頂きました。この愚かな娘の父親として、又は坂上会計事務所の代表としての立場ではありません。
あなたも経営者となられた今、社長として、妻や母親として、ご自身が様々な顔を持ってゆく事にお気づきになられるでしょう」

愚かな娘…達郎の台詞に心を針で突く感覚があった。

「坂上社長…こちらはその愚かな娘さんに被害に合ってるのよ。そんな理屈で感情を逆撫でして通用するもでも思ってますか?慰謝料とは別に、その娘さんはどうなさるつもりなのでしょう」

「もちろん…社内に置いて娘にも然るべき処分は与えるつもりでおります。それは、経営者の立場として、あなたがご主人に取られた様な対応を見習い、考えます。本当に愚かな事をした…父親としての立場でも言わせて頂くなら、申し訳なさと恥ずかしさで胸が一杯です。だからこそ…」

達郎の声は低く、どこまでも冷静沈着だった。

「だからこそ、あなたにも娘のように愚かな経営者になって欲しくはないのです」

「私が愚か?私はその娘さんとは違う!父が興した会社を守る為に…」

「守る為には粉飾もいとわないと?」

攻防が交わされる度に麻友子は失神しそうだった。気付くと川島は腕を組み成り行きをじっと見つめている。もう麻友子には司直に委ねるだけが精一杯で、この攻防に入る術も余地もない。喉が、いや、もう全身の水分が渇き出していた。

「違う…同じじゃない。同じ訳がないじゃない!」

瑠美は叫んだ。追い詰められた獣の最後の威嚇の様に。

「川崎社長、『嘘つきは泥棒の始まり』という言葉があります。嘘をつくという行為と、人様の物を盗むという行為は一見異なる行為です。
しかし『人に知られなければいい』という考えの根はまったく同じなんです」

瑠美に向けて語られている言葉が、麻友子は自分にも向けられている言葉だと気付いた。歯を食いしばる思いで聞いていた。

「今さえ…今さえ乗り越えれば…」

独りごちるようにこぼす瑠美に、再び川島が声をかけた。

「川崎社長、今さえ乗り越えれば…どうですかな?」

「今さえ乗り越えれば…会社では抜本的な改革を…」

麻友子がふと見ると、瑠美の頬には涙が一筋、つたい落ちている時だった。
話を繋ぐ川島の声が、優しい小川のせせらぎの様に流れてきた。

「また…私の経験談で申し訳ないが。
今まで多くの経営者の方々を見てきた。彼らは会社の資金繰りで危機の時に皆、口を揃えて言った。『今さえ乗り越えれば…』『この山さえ乗り越えれば…』
そうして金を貸してくれと私の元へ来る訳だ。乗り越えられず消えた者も多くいる。そして乗り越えたとしてもだ。多くの者達がリングを降りていった。
結局、資金面で『今さえ乗り越えれば』の言葉が出る時点では詰まっていたんです。将棋で王手をかけられ、その一手を逃げられても次の手でまた詰められる…そんな状況という訳ですな」

「そんな訳にはいきません。働いている従業員の為にも、もちろん私達を信頼してお付き合い頂いてきたお客様の為にも、私は…乗り越えねばならないです!」

言い放つ瑠美の姿は力強く、そしてとても凛としていた。その姿を見て麻友子は本当に自分がいかに小さく、己の保身の為だけに狡猾な手を尽くす卑怯者かを思い知り、自分が悲しかった。

「そう仰ると思ってましたよ。川崎社長。勿論、その乗り越えるべき壁とは、資金面ばかりではない。壁はあらゆる姿で現れる。そして「生きる」という事こそ、「乗り越える」の連続です。
それを理解出来るあなたは、やはり素晴らしい経営者になれる。あなたの会社は潰す訳にはいかない」

川島の声は瑠美を暖かく包み込んでいった。

「御社も決算日まではまだ余裕がありますでしょう?
如何ですかな。我が社の物件の電気点検はすべて御社に任せようと思うし、うちは建設部門もあるんだがね。電気工事の全部という訳にはいかないが、一部は御社に任せようと考えている。地域の経営者仲間にも私から一声かけてゆこうともね」

瑠美は耳を疑っていた。しかし川島の提案はまだ終わらない。

「それにだ。今、やけに中国の企業が空いた土地に太陽光パネルを立ててきおってて、私はそれが面白くない。それで私と対抗してて電力に乗り出そうと思う。どうだろう?私達と提携してみませんか?いや、むしろ御社の力を貸して欲しい」

「川島社長…正直嬉しいお話ですが、何故に初対面の私にそこまで…」

「何、怪しい話だなどと微塵も思わなくて結構です。私は最初の電話で言った筈です。私はあなたを救いたいと」

〜◆〜

麻友子は三人を前に立ち上がり、深く、深く頭を下げた。

「川崎社長…皆さま…本当に申し訳ございませんでした…」

瑠美は言葉を返す気も失せていたろう。冷たい流し目を送るだけだった。

「ずっとお話を伺いながら…川崎社長の会社への思いと自分本位な私を比べ、私は自分の犯した過ちの重さと…そして私には父の仕事を継ぐ資格など無い事を思い知りました」

「当たり前よ…あなたみたいな無責任な人…」

瑠美は言った。

「私は…生涯あなたを許す事はないと思うわ」

麻友子は涙が止めどなく流れていた。今日の会談は蓋を開ければ、罪の裁きと麻友子がこれから経営者として進むに当たり、その器の狭さを三人に炙り出され、痛い程に思い知る機会となった。

川島が再び、重い口を開いた。

「人は間違いを犯す…麻友子さん、何もあなただけを責めるつもりはない。責めるとすれば、川崎社長のご主人も同罪、いや、男こそもっと悪いだろう。川崎社長も…お二人を許せぬ気持ちもよくわかります」

それは慰めなのかはわからない。何故か川島からこぼれる言葉には物哀しさと慈しみが共存するよな空気が漂っていた。

「この部屋を借りている時間はまだある。もしよろしければ、今少し、この老人の昔話にお付き合い頂けないでしょうか」

そう言って川島は三人を見渡し、そして坂上に目配せをした。坂上は黙ったまま川島に頷きを返した。
瑠美は「どうぞ」とだけ返事をした。麻友子は椅子にまた腰を下ろした。

やがて川島が、自分の過去を語り出す。
その話が、どれだけ麻友子に衝撃をもたらす事になろうか、この時はまだ思いもしなかった。

〜◆〜

川島は立ち上がり、貸会議室の部屋の中を右へ左へ、ゆっくり歩き回り出した。
そしてその「昔話」は呼吸を整えた後、静かに語られ出した。

「30年近く遡ります。まだ独立する前、私は大手の自動車ディーラーの営業マンとして修行していました。当時から常に成績はトップでありたい、そしていつかは起業したいと野望めいていた若僧でしたからね。あの手この手を尽くして、市内を駆け回ってましたよ。まぁ、営業所内の順位は月次なもんでね。トップをずっと防衛という訳にはいきませんが、それでもやはり三位以内の上位にはおりました」

川島の語り口はけして武勇伝を嫌味や得意げに聞かせる物ではなかった。
世間の成功者が、よく「成功の法則」「成功の秘訣」と言ったテーマで講演を行うが、川島はその様な類の話をしたと聞いた事がない。
ある意味、これからの時代を担う経営者の卵にとっては貴重な時間なのかもしれない、と麻友子はボンヤリと考えていた。

「まぁ、とにかくガムシャラだった訳ですな」

そこまで話した所で川島はテーブルに置いていたペットボトルのお茶を一口飲んで、深いため息をつく。

「そこからは…どう言えばいいのやら。とにかく仕事に乗っている時、私は自分を大層な者だと思い込んでしまってたのです。恥ずかしい話ですけどね。調子に乗っていた、そう言えばわかりやすいでしょうか。
とにかく、私は販売しまくった。その販売スタイルはまるでお客様へも『私から買わないなどあり得ない。今、私から買わないなんて、あなたはおかしいんじゃないですか?』と迫るかの様に」

確かにその様な若者はいる。自分の力を過信し、世の中のすべてを知り尽くしてきたかの様な若者が。
麻友子は加藤を思い浮かべていたが、加藤と川島の姿は重ならない。あんな男でもいずれ、川島の様な人格者に変貌する時が来るのだろうか。いや、それも育成の鍵は社会に出た初期の出会いの影響が、自分の与える影響が左右する…そんな考えをよぎらせた。

今回の一連は自業自得とはいえ、麻友子自身の経営者としての資質を見直させる学びとなった。川島の話もこれからが佳境で、きっと良い話が聞ける事だろう。
今、こうして川島の貴重な話を聞ける事も、次世代同士の瑠美と違う形で知り合っていたのなら、和気あいあいと切磋琢磨で同席出来ていた事ではなかったか。そうはなれない事を深く悔やんだ。

「そんなある時、鼻を高くした私を痛めつけるお客様との出会いがありました。
ディーラーの営業の仕方はご存知ですか?主にショールームへ下見へ来た方をアンケートなどでご住所などを把握し、当時はそこへアプローチをかけるのです。季節的には高校や大学を卒業するお子さんのいる家庭だったり、新しく開業する企業へ営業車購入を働きかけたり、まぁ、今風に言えば完全なレッドオーシャンな営業ですな。
その方とのファーストコンタクトもご多聞に漏れずアンケートからです。最初はご夫婦でのご来店でした。下見でパンフレットを持ってその日は帰り、そしてそこから何度もフォローに足を運んだ。
その方は、当時の私が持ちうるどんな営業テクニックを使おうと、なかなか成約に結び付ける事が出来なかった。どんな話術も論破され、どんな価格を提示しようと突き返され、私は焦りました。
本来ならもうそのお客様は諦めて、もっと台数稼ぎの為によそを回るべきでした。ですが私はとにかくその方の成約を取る事に執着していたのです」

順風満帆にここまで来たと思えた川島にも、そんな事があったのかと麻友子は…そしておそらく瑠美も興味深く耳を傾けている。

「理由は二つありました。既にその頃には自分の思い上がりを痛感しましたからね、それを克服しようとしてです。
もう一つ。その方は美しい女性です。お子さんもいらっしゃる方でした。ご自分とお子様で行動する際のセカンドカーをお探しだった様です。ですがその方は毎回必ず「出直してきなさい」と私を突き返すんです。けして「もう来ないで下さい」ではありせん。そして私は何度も出直すんです。私はいつしかその方に会う事が楽しみになってしまっていたのです。惹かれてゆきました」

空気の流れが変わり出した事を、その場にいた者は皆感じ取ったに違いなかった。達郎も腕を組みテーブルの上の一点を見つめ動かない。瑠美も椅子の背もたれから背を離し、テーブルに肘を付いた。

「彼女からは多くの事を学びました。まぁ、月並みな事ではありますが、謙虚な姿勢ですとか、お客様本位にならねばといった所ですかな。今となっては当たり前の感覚も若い私には欠けていたのです。
しかし彼女はそんな私を、怒鳴る訳でもなく優しく悟らせる様に接してくれた。その笑顔も見たくて足を運んでいました。
ご主人ともその後何度か会いはしました。ですが殆ど奥様とだけ私は会っていました。それはそうでしょうね。普通はご主人の在宅日時を聞いて伺うべきなのに、あろう事か私はその逆をしていた訳ですから。商談を口実に彼女と会いたかった。営業マンとしてあるまじき不純さでした。
ご主人はご自分で仕事をされてて、家庭を顧みる事も少なかった様です。私はご主人のいない時を狙って足を運び続けてました。
しかし…いつまでも契約をノラリクラリと引っ張る訳にもいきません。私も会社には粘り強さをアピールし続けてましたが『いい加減に白黒付けろ』と言われ出したし、奥様もご主人に『いつまで決めかねてるんだ』と言われた様でした」

麻友子も瑠美も、予想してはいなかった展開に固唾を飲んでいた。
再び、川島はペットボトルを手に、そしてお茶をゴクリゴクリと流し込む。

「失礼。こんな告白は私も生まれて初めてでして、喉が渇くものです。
結論は、その奥様からご成約頂きました。嬉しい事の筈ですが、同時に寂しい事でした。彼女と会う口実は極端に減る訳ですから。
そしてその後、彼女がエンジンオイル交換に来店した際に再会する事がありました。胸が踊っていました。私は『車の調子はどうですか』と声をかけました。しかし彼女から返ってきた返事は、また私に会えて嬉しい…そんな言葉だったんです。
思えば、彼女の方も商談を引き伸ばしていたのは、私と会う回数を増やすよな算段が合った様です。彼女は家庭では寂しかったんだと思います。
そして私は…過ちを犯しました。今となっては彼女は本気だったのか、火遊びだったのか、知る術はありません。誘ったのも…私です。理性ではいけない事と知りつつも、私は…ご主人もお子様もいる方と関係を持ってしまったのです」

麻友子も瑠美も、途中から話の着地点は予想出来てきたものの、あらためて川島本人の口から打ち明けられると特別な重みに感じていた。
川島は三度目のお茶を口にした。達郎は変わらずに沈黙を貫いている。

「麻友子さん、本当に申し訳なかった。私にはあなたを責める資格など元々なかったんだ。
今の私がこうしてあるのは、紛れもなくあなたのお母さん、そしてお父さんのお陰です」

麻友子の心の隙を突いて刹那の空白が広がった後、意味の理解をした時には稲妻に打たれた様な電流が全身を駆け巡った。

〜◆〜

帰りの車の中、達郎も麻友子も一言も言葉を交わせずにいた。
いや、もう十分過ぎる程、声にならない声で親娘の会話は交わされていた。麻友子にはドッと疲れが押し寄せた。

麻友子は目を閉じた。だがそれでも、つい先程まで貸会議室の中で繰り広げられてた場面が、色褪せる事なく反復してくる。

川島の「昔話」を聞いた瑠美は川島を、そして達郎を、激しく罵った。余程の激情家なのであろう。

「何?何なの!?この下らない茶番劇は!川島社長、いえ…私がわからないのは坂上社長!あなたです!何なんですか!?一人の女を共有した友情ですか!?
そしてあなたは自分の妻を寝取った男に、その母親の血を見事に継いだ娘の罪滅ぼしでもさせてるって訳!?冗談じゃないわ!」

「茶番…か…川崎社長。確かにあなたのおっしゃる通りかもしれない。しかし、罪滅ぼしなどとは思わないで頂きたい。私は自分の『人を見る目』には自信があり、地域経済を活性化させる次世代を育てる…その信念に従ってあなたに出資や投資、仕事の依頼を持ちかけている」

「恩きせがましく言わないで下さい!」

「では…どうしますか?あの話は無かった事にしますか?」

「私はまだ一言もお受けするとは言ってません!持ち帰らせて頂きます!」

瑠美の嫌悪感と葛藤は手に取る様によくわかった。麻友子は溢れる涙を止められずにただ泣いた。泣き続けていた。涙の理由はわからない。
ただそれは、川島による仲裁であるとか、仮に川島個人の罪滅ぼしだとしても感謝の涙ではない。おそらくそれは、尊敬する達郎へ母娘二代に渡りこの上ない苦痛を負わせた事への涙であろう。自分自身を心の底から憎んだ。侮蔑したかった。

瑠美と川島の二人の議論が続く中、横から割って入ったのは達郎だった。

「確かに私と川島の関係は普通じゃない…そう思われても仕方ないでしょう。川崎社長、私はその時、あなたでした。川島は…麻友子でした」

とうとう麻友子は嗚咽を堪え切れず崩れ落ちた。
瑠美は何も言わない。理解出来ない…想像の範囲を越えている。
貸会議室の部屋の中では麻友子が泣きじゃくる声だけが響いていた。

しばしの沈黙の後だった。川島が続きを話し出したのは。

「私と彼女がシティホテルを出る時でした。偶然ラウンジに居合わせた坂上と鉢合わせになったのです。私と彼女は繋いでいた手を離し、そして彼女は一人で扉へ向かって歩いてゆきました。
坂上と彼女はすれ違い様、何も言葉を交わす事もなく。彼女は一人、ホテルを後にして去ってゆきました。
私は…坂上の元へ行き、下手な弁解をしていたと記憶しています。坂上は、『ここでクライアントと打ち合わせを控えている。君と話している時間はない。帰ってくれ』と言い張っていましたが…ただ帰り際に私にそっと『愛していたのか』と尋ねてきました。私はジッと彼の目を見て、頷きました。
坂上は寂し気な目をして『そうか』と言い『行け』と私をその場から帰したんです」

瑠美は達郎へ顔を向けて尋ねた。

「坂上社長はその後で、慰謝料の示談をしたのかしら?道理で慰謝料のお話にも詳しい訳ですね」

皮肉が込められている事は十分にわかった。麻友子もひと仕切り泣き、涙を拭いながら達郎の答えを聞こうとする。聞かねばならなかった。

「いや…」

達郎は組んでいた腕を解き立ち上がって、背を向けた。

「私は離婚を選びもせず、また、川島に慰謝料も請求はしませんでした。妻には自分の事務所の手伝いをさせ、もう二人が会わないように約束をさせました。気持ちを整理しろとね、そう伝えて…私の「整理」の定義は「いらぬ物は捨てる」物であっても感情であってもです。
私自身、妻に寂しい思いをさせていた事も事実でしょう。反省もしましたし、尚、怒りや憎しみの気持ちを私自身、整理しようと決めたのです。
そして代わりに私が彼に代償として求めた物…この地域を牽引してゆく、人格者の経営者になれと…それだけです」

瑠美は肩をすくめ、呆れた表情を作った。

「馬鹿げてる。馬鹿げてますわ。川島社長、今日は本当に茶番劇場へご招待頂きありがとうございます!十分に楽しませてもらいましたわ。今日はもう失礼させて頂きます」

瑠美はそう言い、立ち上がってバッグの肩紐を肩にかけた。

「尚、先程の話の正確なお返事は明後日夕方までお時間を下さい。川島社長宛に私から直接お電話させて頂きます」

そう言い残し、瑠美は貸会議室の部屋を足早に後にし去っていった。扉の閉め方は怒りの感情を表すかの様に乱暴だったが、麻友子にはその後ろ姿がどこか哀れに見えていた。

「川島…どうだ?彼女はお前の話、受けると思うか?」

達郎が表情を和らげて尋ねた。

「なぁに、受ける筈だ。彼女は馬鹿じゃない。受けた方が会社の為だと気付いてるさ」

二人は顔を見合わせて微笑んでいた。
麻友子は狐に化かせれた気分でいる。今までの話は真実なのか、芝居なのか。麻友子にはそれを見極める術はない。

その場面を思い出しながら、麻友子は走る車の窓から街の夜景を見つめていた。街灯の光が、麻友子と達郎の体をスキャンする様に流れてゆく。

「お前自身、気持ちの整理整頓は出来たか?」

不意に達郎が問いかけてきた。静寂に耐えかねた様だ。

「彼への気持ち?」

「フッ、そんな物を聞きたい訳じゃない。お前が本当に私の跡を継ぐ覚悟に当たってだ」

痛い質問だ。
今回の件は、本当に自分を見つめ直すいい機会だった。そして自分にはまだ、瑠美の様な資質も覚悟も無い事を思い知らされた。
きっと自分は佑志の事も、自分よりも更に経営者としての資質が無い事を見下し、そして利用していた様に思う。だが本当は彼は弱い自分を映す鏡だったのだ。
これからの瑠美に管理されてゆくであろう彼の人生を同情すると共に、自分も達郎にまだまだ鍛えられてゆくしかないと感じている。
『私は…あなたです』本当に達郎の言った通りだった。達郎と瑠美が重なっていた。

「私…いずれお父さんの跡を継ぐわ。必ず。でも…今はまだ無理。自惚れてたのね。それがよくわかったの。
ねぇ、お父さん。もう少し…引退はもう少し先に伸延ばさない?」

達郎はすかさず答えた。

「当たり前だ。お前にはまだ任せられないという事がよくわかった。今のお前は、あの女社長の足下にも及ばないぞ。一から鍛え直すつもりだ」

「良かった…」

「良くないぞ。お前は川島と一緒だ。私の言う事に何一つ嫌とは言わせない。まずはお前が持ってる余計なプライドを整理しろ」

「プライド?もう捨てたつもりよ」

「いや、まだだ。まだ捨て切ってはいない。その左手首の高級な腕時計…高級な外車が一台買える位の時計だろう。まずはそれを中古買取店なりネットなりで売ってこい。全てはそこからだ」

麻友子は左手首のパテック・フィリップを覗き込んだ。父親・達郎の信念、『整理整頓』そうか…私はこの相棒と別れさせられるのか。麻友子は苦笑した。
不思議とその別れの辛さの方が、佑志ともう会わない事よりも寂しかった。

そんな麻友子の綻びを見て、達郎はユーモアを込めて言った。

「いいか。お前の為に会社としては慰謝料など払わんぞ。それで慰謝料なんてさっさと払ってしまって身軽になっちまえ」

〜◆〜

五月も半ばを迎え、坂上会計事務所にもようやく幾らかの余裕が見え出していた。加藤を除いては。

「さ!加藤くん、今日はノー残業デーよ!早く仕事を片付けて帰るわよ!」

「専務!勘弁して下さいよ!川島グループの川島建設と川崎電設の業務提携で、本当に追い込み所なんです!専務も手伝って下さいよ!」

「そうね、あちらさんも今期は巻き返しよね。でもごめん。今日はどうしてもダメなのよ。知り合いと食事のアポなの」

「うわ〜出た!ま〜たあのイケメン弁護士さんとデートですか!?樋口さんでしたっけ?ホンットにもう〜。。!」

「あら、彼とはそんな関係じゃないわよ。今日はね…そのあなたが取り込んでる川島常務さん」

「え!?何で!?どーゆー事!?」

前日かかってきた川島賢一からの電話は、麻友子にとっても本当に不意打ちだった。『いつぞやは本当にご無礼だったと、ずっと気がかりでしてね。お詫びに食事でもご一緒にと思いまして』
会話を思い出し、麻友子は緩んで微笑をこぼす。

「専務、あの人は川島モータース常務でもありますが、グループの中の川島webコンサルタントの社長でもありますからね。だからそのプロジェクトにはあまり顔を出しませんし、僕も頻繁に会える人じゃありませんよ…なのに…専務が間違えたとはいえ、あの時、僕が手紙を届けた訳だから、まるで僕がキューピットじゃないですか!もしうまくいったら、豪勢に奢って下さいよ!」

「うまくいったらね。まぁ、そんな事はないけど」

「あ〜やだやだ、三十路も半ばを過ぎてモテ期を迎えたもんで、そんな事ばかり浮かれてるから次期社長の座を延ばされるんですよ!」

この日も加藤の軽口は饒舌だ。
窓から射し込む陽の光は、今日もギラギラと焼き付けるようだ。今年の夏も暑くなる予感しかしない。
麻友子は左手首の安物の時計を覗き込んだ。

「ささ!馬鹿な事ばかり言ってないで、仕事に取り掛かるわよ!時間がもったいない!」

その時、二人の事務室の扉をノックする音が響いた。

コン、コン、コン。

「おはようございます!社長!」

〜完〜川島は立ち上がり、貸会議室の部屋の中を右へ左へ、ゆっくり歩き回り出した。
そしてその「昔話」は呼吸を整えた後、静かに語られ出した。

「30年近く遡ります。まだ独立する前、私は大手の自動車ディーラーの営業マンとして修行していました。当時から常に成績はトップでありたい、そしていつかは起業したいと野望めいていた若僧でしたからね。あの手この手を尽くして、市内を駆け回ってましたよ。まぁ、営業所内の順位は月次なもんでね。トップをずっと防衛という訳にはいきませんが、それでもやはり三位以内の上位にはおりました」

川島の語り口はけして武勇伝を嫌味や得意げに聞かせる物ではなかった。
世間の成功者が、よく「成功の法則」「成功の秘訣」と言ったテーマで講演を行うが、川島はその様な類の話をしたと聞いた事がない。
ある意味、これからの時代を担う経営者の卵にとっては貴重な時間なのかもしれない、と麻友子はボンヤリと考えていた。

「まぁ、とにかくガムシャラだった訳ですな」

そこまで話した所で川島はテーブルに置いていたペットボトルのお茶を一口飲んで、深いため息をつく。

「そこからは…どう言えばいいのやら。とにかく仕事に乗っている時、私は自分を大層な者だと思い込んでしまってたのです。恥ずかしい話ですけどね。調子に乗っていた、そう言えばわかりやすいでしょうか。
とにかく、私は販売しまくった。その販売スタイルはまるでお客様へも『私から買わないなどあり得ない。今、私から買わないなんて、あなたはおかしいんじゃないですか?』と迫るかの様に」

確かにその様な若者はいる。自分の力を過信し、世の中のすべてを知り尽くしてきたかの様な若者が。
麻友子は加藤を思い浮かべていたが、加藤と川島の姿は重ならない。あんな男でもいずれ、川島の様な人格者に変貌する時が来るのだろうか。いや、それも育成の鍵は社会に出た初期の出会いの影響が、自分の与える影響が左右する…そんな考えをよぎらせた。

今回の一連は自業自得とはいえ、麻友子自身の経営者としての資質を見直させる学びとなった。川島の話もこれからが佳境で、きっと良い話が聞ける事だろう。
今、こうして川島の貴重な話を聞ける事も、次世代同士の瑠美と違う形で知り合っていたのなら、和気あいあいと切磋琢磨で同席出来ていた事ではなかったか。そうはなれない事を深く悔やんだ。

「そんなある時、鼻を高くした私を痛めつけるお客様との出会いがありました。
ディーラーの営業の仕方はご存知ですか?主にショールームへ下見へ来た方をアンケートなどでご住所などを把握し、当時はそこへアプローチをかけるのです。季節的には高校や大学を卒業するお子さんのいる家庭だったり、新しく開業する企業へ営業車購入を働きかけたり、まぁ、今風に言えば完全なレッドオーシャンな営業ですな。
その方とのファーストコンタクトもご多聞に漏れずアンケートからです。最初はご夫婦でのご来店でした。下見でパンフレットを持ってその日は帰り、そしてそこから何度もフォローに足を運んだ。
その方は、当時の私が持ちうるどんな営業テクニックを使おうと、なかなか成約に結び付ける事が出来なかった。どんな話術も論破され、どんな価格を提示しようと突き返され、私は焦りました。
本来ならもうそのお客様は諦めて、もっと台数稼ぎの為によそを回るべきでした。ですが私はとにかくその方の成約を取る事に執着していたのです」

順風満帆にここまで来たと思えた川島にも、そんな事があったのかと麻友子は…そしておそらく瑠美も興味深く耳を傾けている。

「理由は二つありました。既にその頃には自分の思い上がりを痛感しましたからね、それを克服しようとしてです。
もう一つ。その方は美しい女性です。お子さんもいらっしゃる方でした。ご自分とお子様で行動する際のセカンドカーをお探しだった様です。ですがその方は毎回必ず「出直してきなさい」と私を突き返すんです。けして「もう来ないで下さい」ではありせん。そして私は何度も出直すんです。私はいつしかその方に会う事が楽しみになってしまっていたのです。惹かれてゆきました」

空気の流れが変わり出した事を、その場にいた者は皆感じ取ったに違いなかった。達郎も腕を組みテーブルの上の一点を見つめ動かない。瑠美も椅子の背もたれから背を離し、テーブルに肘を付いた。

「彼女からは多くの事を学びました。まぁ、月並みな事ではありますが、謙虚な姿勢ですとか、お客様本位にならねばといった所ですかな。今となっては当たり前の感覚も若い私には欠けていたのです。
しかし彼女はそんな私を、怒鳴る訳でもなく優しく悟らせる様に接してくれた。その笑顔も見たくて足を運んでいました。
ご主人ともその後何度か会いはしました。ですが殆ど奥様とだけ私は会っていました。それはそうでしょうね。普通はご主人の在宅日時を聞いて伺うべきなのに、あろう事か私はその逆をしていた訳ですから。商談を口実に彼女と会いたかった。営業マンとしてあるまじき不純さでした。
ご主人はご自分で仕事をされてて、家庭を顧みる事も少なかった様です。私はご主人のいない時を狙って足を運び続けてました。
しかし…いつまでも契約をノラリクラリと引っ張る訳にもいきません。私も会社には粘り強さをアピールし続けてましたが『いい加減に白黒付けろ』と言われ出したし、奥様もご主人に『いつまで決めかねてるんだ』と言われた様でした」

麻友子も瑠美も、予想してはいなかった展開に固唾を飲んでいた。
再び、川島はペットボトルを手に、そしてお茶をゴクリゴクリと流し込む。

「失礼。こんな告白は私も生まれて初めてでして、喉が渇くものです。
結論は、その奥様からご成約頂きました。嬉しい事の筈ですが、同時に寂しい事でした。彼女と会う口実は極端に減る訳ですから。
そしてその後、彼女がエンジンオイル交換に来店した際に再会する事がありました。胸が踊っていました。私は『車の調子はどうですか』と声をかけました。しかし彼女から返ってきた返事は、また私に会えて嬉しい…そんな言葉だったんです。
思えば、彼女の方も商談を引き伸ばしていたのは、私と会う回数を増やすよな算段が合った様です。彼女は家庭では寂しかったんだと思います。
そして私は…過ちを犯しました。今となっては彼女は本気だったのか、火遊びだったのか、知る術はありません。誘ったのも…私です。理性ではいけない事と知りつつも、私は…ご主人もお子様もいる方と関係を持ってしまったのです」

麻友子も瑠美も、途中から話の着地点は予想出来てきたものの、あらためて川島本人の口から打ち明けられると特別な重みに感じていた。
川島は三度目のお茶を口にした。達郎は変わらずに沈黙を貫いている。

「麻友子さん、本当に申し訳なかった。私にはあなたを責める資格など元々なかったんだ。
今の私がこうしてあるのは、紛れもなくあなたのお母さん、そしてお父さんのお陰です」

麻友子の心の隙を突いて刹那の空白が広がった後、意味の理解をした時には稲妻に打たれた様な電流が全身を駆け巡った。

〜◆〜

帰りの車の中、達郎も麻友子も一言も言葉を交わせずにいた。
いや、もう十分過ぎる程、声にならない声で親娘の会話は交わされていた。麻友子にはドッと疲れが押し寄せた。

麻友子は目を閉じた。だがそれでも、つい先程まで貸会議室の中で繰り広げられてた場面が、色褪せる事なく反復してくる。

川島の「昔話」を聞いた瑠美は川島を、そして達郎を、激しく罵った。余程の激情家なのであろう。

「何?何なの!?この下らない茶番劇は!川島社長、いえ…私がわからないのは坂上社長!あなたです!何なんですか!?一人の女を共有した友情ですか!?
そしてあなたは自分の妻を寝取った男に、その母親の血を見事に継いだ娘の罪滅ぼしでもさせてるって訳!?冗談じゃないわ!」

「茶番…か…川崎社長。確かにあなたのおっしゃる通りかもしれない。しかし、罪滅ぼしなどとは思わないで頂きたい。私は自分の『人を見る目』には自信があり、地域経済を活性化させる次世代を育てる…その信念に従ってあなたに出資や投資、仕事の依頼を持ちかけている」

「恩きせがましく言わないで下さい!」

「では…どうしますか?あの話は無かった事にしますか?」

「私はまだ一言もお受けするとは言ってません!持ち帰らせて頂きます!」

瑠美の嫌悪感と葛藤は手に取る様によくわかった。麻友子は溢れる涙を止められずにただ泣いた。泣き続けていた。涙の理由はわからない。
ただそれは、川島による仲裁であるとか、仮に川島個人の罪滅ぼしだとしても感謝の涙ではない。おそらくそれは、尊敬する達郎へ母娘二代に渡りこの上ない苦痛を負わせた事への涙であろう。自分自身を心の底から憎んだ。侮蔑したかった。

瑠美と川島の二人の議論が続く中、横から割って入ったのは達郎だった。

「確かに私と川島の関係は普通じゃない…そう思われても仕方ないでしょう。川崎社長、私はその時、あなたでした。川島は…麻友子でした」

とうとう麻友子は嗚咽を堪え切れず崩れ落ちた。
瑠美は何も言わない。理解出来ない…想像の範囲を越えている。
貸会議室の部屋の中では麻友子が泣きじゃくる声だけが響いていた。

しばしの沈黙の後だった。川島が続きを話し出したのは。

「私と彼女がシティホテルを出る時でした。偶然ラウンジに居合わせた坂上と鉢合わせになったのです。私と彼女は繋いでいた手を離し、そして彼女は一人で扉へ向かって歩いてゆきました。
坂上と彼女はすれ違い様、何も言葉を交わす事もなく。彼女は一人、ホテルを後にして去ってゆきました。
私は…坂上の元へ行き、下手な弁解をしていたと記憶しています。坂上は、『ここでクライアントと打ち合わせを控えている。君と話している時間はない。帰ってくれ』と言い張っていましたが…ただ帰り際に私にそっと『愛していたのか』と尋ねてきました。私はジッと彼の目を見て、頷きました。
坂上は寂し気な目をして『そうか』と言い『行け』と私をその場から帰したんです」

瑠美は達郎へ顔を向けて尋ねた。

「坂上社長はその後で、慰謝料の示談をしたのかしら?道理で慰謝料のお話にも詳しい訳ですね」

皮肉が込められている事は十分にわかった。麻友子もひと仕切り泣き、涙を拭いながら達郎の答えを聞こうとする。聞かねばならなかった。

「いや…」

達郎は組んでいた腕を解き立ち上がって、背を向けた。

「私は離婚を選びもせず、また、川島に慰謝料も請求はしませんでした。妻には自分の事務所の手伝いをさせ、もう二人が会わないように約束をさせました。気持ちを整理しろとね、そう伝えて…私の「整理」の定義は「いらぬ物は捨てる」物であっても感情であってもです。
私自身、妻に寂しい思いをさせていた事も事実でしょう。反省もしましたし、尚、怒りや憎しみの気持ちを私自身、整理しようと決めたのです。
そして代わりに私が彼に代償として求めた物…この地域を牽引してゆく、人格者の経営者になれと…それだけです」

瑠美は肩をすくめ、呆れた表情を作った。

「馬鹿げてる。馬鹿げてますわ。川島社長、今日は本当に茶番劇場へご招待頂きありがとうございます!十分に楽しませてもらいましたわ。今日はもう失礼させて頂きます」

瑠美はそう言い、立ち上がってバッグの肩紐を肩にかけた。

「尚、先程の話の正確なお返事は明後日夕方までお時間を下さい。川島社長宛に私から直接お電話させて頂きます」

そう言い残し、瑠美は貸会議室の部屋を足早に後にし去っていった。扉の閉め方は怒りの感情を表すかの様に乱暴だったが、麻友子にはその後ろ姿がどこか哀れに見えていた。

「川島…どうだ?彼女はお前の話、受けると思うか?」

達郎が表情を和らげて尋ねた。

「なぁに、受ける筈だ。彼女は馬鹿じゃない。受けた方が会社の為だと気付いてるさ」

二人は顔を見合わせて微笑んでいた。
麻友子は狐に化かせれた気分でいる。今までの話は真実なのか、芝居なのか。麻友子にはそれを見極める術はない。

その場面を思い出しながら、麻友子は走る車の窓から街の夜景を見つめていた。街灯の光が、麻友子と達郎の体をスキャンする様に流れてゆく。

「お前自身、気持ちの整理整頓は出来たか?」

不意に達郎が問いかけてきた。静寂に耐えかねた様だ。

「彼への気持ち?」

「フッ、そんな物を聞きたい訳じゃない。お前が本当に私の跡を継ぐ覚悟に当たってだ」

痛い質問だ。
今回の件は、本当に自分を見つめ直すいい機会だった。そして自分にはまだ、瑠美の様な資質も覚悟も無い事を思い知らされた。
きっと自分は佑志の事も、自分よりも更に経営者としての資質が無い事を見下し、そして利用していた様に思う。だが本当は彼は弱い自分を映す鏡だったのだ。
これからの瑠美に管理されてゆくであろう彼の人生を同情すると共に、自分も達郎にまだまだ鍛えられてゆくしかないと感じている。
『私は…あなたです』本当に達郎の言った通りだった。達郎と瑠美が重なっていた。

「私…いずれお父さんの跡を継ぐわ。必ず。でも…今はまだ無理。自惚れてたのね。それがよくわかったの。
ねぇ、お父さん。もう少し…引退はもう少し先に伸延ばさない?」

達郎はすかさず答えた。

「当たり前だ。お前にはまだ任せられないという事がよくわかった。今のお前は、あの女社長の足下にも及ばないぞ。一から鍛え直すつもりだ」

「良かった…」

「良くないぞ。お前は川島と一緒だ。私の言う事に何一つ嫌とは言わせない。まずはお前が持ってる余計なプライドを整理しろ」

「プライド?もう捨てたつもりよ」

「いや、まだだ。まだ捨て切ってはいない。その左手首の高級な腕時計…高級な外車が一台買える位の時計だろう。まずはそれを中古買取店なりネットなりで売ってこい。全てはそこからだ」

麻友子は左手首のパテック・フィリップを覗き込んだ。父親・達郎の信念、『整理整頓』そうか…私はこの相棒と別れさせられるのか。麻友子は苦笑した。
不思議とその別れの辛さの方が、佑志ともう会わない事よりも寂しかった。

そんな麻友子の綻びを見て、達郎はユーモアを込めて言った。

「いいか。お前の為に会社としては慰謝料など払わんぞ。それで慰謝料なんてさっさと払ってしまって身軽になっちまえ」

〜◆〜

五月も半ばを迎え、坂上会計事務所にもようやく幾らかの余裕が見え出していた。加藤を除いては。

「さ!加藤くん、今日はノー残業デーよ!早く仕事を片付けて帰るわよ!」

「専務!勘弁して下さいよ!川島グループの川島建設と川崎電設の業務提携で、本当に追い込み所なんです!専務も手伝って下さいよ!」

「そうね、あちらさんも今期は巻き返しよね。でもごめん。今日はどうしてもダメなのよ。知り合いと食事のアポなの」

「うわ〜出た!ま〜たあのイケメン弁護士さんとデートですか!?樋口さんでしたっけ?ホンットにもう〜。。!」

「あら、彼とはそんな関係じゃないわよ。今日はね…そのあなたが取り込んでる川島常務さん」

「え!?何で!?どーゆー事!?」

前日かかってきた川島賢一からの電話は、麻友子にとっても本当に不意打ちだった。『いつぞやは本当にご無礼だったと、ずっと気がかりでしてね。お詫びに食事でもご一緒にと思いまして』
会話を思い出し、麻友子は緩んで微笑をこぼす。

「専務、あの人は川島モータース常務でもありますが、グループの中の川島webコンサルタントの社長でもありますからね。だからそのプロジェクトにはあまり顔を出しませんし、僕も頻繁に会える人じゃありませんよ…なのに…専務が間違えたとはいえ、あの時、僕が手紙を届けた訳だから、まるで僕がキューピットじゃないですか!もしうまくいったら、豪勢に奢って下さいよ!」

「うまくいったらね。まぁ、そんな事はないけど」

「あ〜やだやだ、三十路も半ばを過ぎてモテ期を迎えたもんで、そんな事ばかり浮かれてるから次期社長の座を延ばされるんですよ!」

この日も加藤の軽口は饒舌だ。
窓から射し込む陽の光は、今日もギラギラと焼き付けるようだ。今年の夏も暑くなる予感しかしない。
麻友子は左手首の安物の時計を覗き込んだ。

「ささ!馬鹿な事ばかり言ってないで、仕事に取り掛かるわよ!時間がもったいない!」

その時、二人の事務室の扉をノックする音が響いた。

コン、コン、コン。

「おはようございます!社長!」

〜完〜

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