余分なことばたち

人に嘲笑われることが怖くてたまらない。何をそんなに他人に怯えているのか 何を他人の批評などを気にすることがあるのか わかっていても思考のクセというものがあるらしい。
嘲笑われることのなにが怖いのか、考えれば考えるほど、頭の中の自分はわかっているような気さえしてくる。直面して、考え、文字に起こすことは、どうにも私には耐え難い。

私は他人を嘲笑っているだろうか。腹の底で馬鹿にしていないだろうか。されたイヤなことのひとつひとつは、自分のコンプレックスなんじゃないか。なんだか、傲慢だ。自分のことを「情けないな」と思うことが稀にある。情けない、ってなんだろう。情けない、とは決別のセリフだ。自分との決別。

電車 ターミナル駅 競い合うように歩いて、隣を歩いていたおばさんを抜かして、「ああなんだか抜かしたな」と思う。なんだか自分の言動思考すべてが本当に鬱陶しい。
私が他人を気にしているほど、他人は私のことを気にしてないことを知っている。おばさんは、なんも気にしちゃいない。彼女の頭の中に一切の私は居ない。当たり前だが。そうしたら、もうそれは、あるいは恋と呼ばれるようなことがあるかもしれない。あるいは、固執。

特に先のおばさんの顔も覚えてないほど、私にとっても小さいことである。対人関係とは、コミュニケーションとは何か、そんなきっかけに勝手に使わせてもらっただけだ。

自意識は、呪いだなと思う。まとわりついて、絶対に離せないなにか。離れないのではない、離せない。自分に自信がないからこそ、周囲の笑い声は全て私への嘲笑だと思っているし、人の視線は 批判非難されるために常に浴びていると思っている。いや人間が生来そんな悪いものでもないことも、生きていれば、知っている。いやしかし思わざるを得ない。なぜなら、私は自分のことが大好きで自分のことしか考えないくせに、それに伴う自信がないからだ。自意識、自尊心、承認欲求、それぞれの関係性について今考えたいことでもないので、置いておくが、付随することだけは記しておく。意味があるのかは、知らない。

自意識、なぜじゃあ自分に自信がないかと言ったら、ひとことで、ちゃんとしてないからだ。ちゃんとしてる人はきっと毎日夜にシャワーを浴びるだろうし、腐るほどの酒を飲まない 薬の用法用量の説明書だってきちっと最後まで読むのだろう。ちゃんとってなんだろう、普通ってなんだろう。今、ふと気づいたが私が思っている「普通」は「理想」のことだ。私が思い描いた「普通の人生」は諸先輩方の「理想の生き方」なだけだ。まぁ、なんだってよいのだけれど。

ちゃんと生きなきゃ、と思う。今はなんだか生きることに消極的だ。生きるって、なんだかもっと熱いと思っていたな。これは私だけに限った話ではなく、二極化するならば、積極的でない限り消極的だ。「生きる」をしたい。

詭弁ですとも。分かっている。言葉だけで、どこまで自分の人生を正当化できるか、試している。なんだかそれってとても浅はかだ。許しを求め、言い訳をし、あわよくば褒めて欲しい認めて欲しいと思っている。これほど傲慢な人間は、いないのではないかという自信さえ湧いてくる。そういうところも、ちゃんとしていない一部だ。

移動のたび、電車に乗るたびに 人の視線に晒され 毎回そんなことばかりを考える。飽きずに、ただ。

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