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WIRED「DIGIAL WELL-BEING」 / より善く生きるとは?

「ウェルビーイングの設計論」を読んだ時に、一定程度評価はできているかもしれないが、それで本当に十分なのか?という煮え切らない疑問を抱いていた。医療者として、どうも「臨床的」ではない違和感のようなものを感じていた。

監訳者であるドミニクさん「日本的ウェルビーイング」について考える必要があると述べられているところから、日本にマッチしているウェルビーイング論の議論はまだまだ進んでいないと感じていた。

私自身そう感じて、そのままにしておいた「ウェルビーイング論」ではあるが、「DIGITAL WELL-BEING」というタイトルで雑誌がWIREDにて発刊され、数年後の議論が進んだウェルビーイング論とデジタルウェルビーイングの文脈において編集された横断的な情報を得られるを期待して本を手に取った。

一通り読了し、頭の整理と議論をしたいと思い、柄にもなくnoteにレビューを書いている。

読了後、一気に書いてるので、誤認識があればコメントをもらえると嬉しい。また、本に書いていることもあるが、個人的な考えもかなり含まれているので、興味のある人は雑誌の購入をお勧めする。

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本書に書かれている「デジタル・ウェルビーイング」の定義は、編集長である松島さんのまえがきに書かれており、それにもとづき「回復 / 増幅 / 強化」をキーワードとし、で本誌は編集されている。
既存のウェルビーイングでよく議論される「悪くなっている前提からもとにもどす : 回復」といった文脈から、デジタル技術によって増幅・強化することが可能なのではないかという問いかけをされている。

雑誌の構成においては、自然に回帰することがウェルビーイングの一つの要素あるという意図が感じられる編集であった。前提として、ヒトのあくなき欲求から社会へ実装されてきたテクノロジーがある。ほぼ無限の記憶野であるパソコンや、人と人とのネットワークとをつなげるWWW、もはや身体の一部となっているスマートフォン...。

さらに、膨大なデータの蓄積を生かしたマーケティングにより意図的に行動を促すことで、ヒトの行動へのハッキング的介入が起こっている。Googleのスマホの時間を使用する減らす取り組みを広めることや、Appleのスクリーンタイムの表示はもはや申し訳程度でしかなく、プラットフォーム上にあるアプリケーションは依存を促していることで、結果的にユーザーはテクノロジーに依存的になっている。膨大なデータを持っている企業が、気づかないところでユーザーを操作しているのではないかという、「現代への警鐘」を鳴らしているようにも感じた。

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さて、ウェルビーイングという非常に個別によるものを、包括として捉える議論がなされているが、そもそも「ウェルビーイング」とは何なのだろうか?
「ウェルビーイング」は、「より善く生きること」と書かれているが明確な定義はされていない。むしろ、定義をすることがナンセンスな可能性すらある。

そのため、各自ケースバイケースでよりよく生きることについて考えを巡らせることが求められている。その上で「ウェルビーイングの評価」が難しいと話しているのが今の現状であると認識している。評価の議論をする上で各自ウェルビーイング自体を定義せざるを得ないため、各自定義をして評価を行なっているため、共通認識のようでそうでないということである。

さらに、極めて個別の認識であるウェルビーイング包括的に評価することは、かなりハードルが高いのではないかと、私は考えている。
ウェルビーイング自体は個別で、評価は包括的にという枠組みに放っているが、「個別 ー 包括」は対義的に使われているのであれば、間をつなぐインターフェイスが求められるのではないか。

”包括的に“評価をするために限定的なフィルタリングとして、職場のウェルビーイングの例があげられているが、やはりフィルタリングしている以上、「職場でのその人」となる。仕事が人生において大半の時間を占めるという意味では近しいのかもしれないが、限定的な状況下におけるウェルビーイングは、果たして「ウェルビーイング」なのだろうか?

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私の意見としては、
『ウェルビーイングは、今をよりよく生きることだけでは十分ではなく
 最期を迎える時までも表裏一体で検討する必要があるのではないか』
と考えている。

『ウェルビーイングの設計論』を読んでも思ったことではあるが、ウェルビーイング論の多くは「(”今”)より善く生きられるか?」に寄ってしまっており、「今」という時間軸に囚われてしまっているように思える。
これは「(”今”)より善く生きること」を目指すことは出来るかもしれないが、それによって「善く生きられたか/より善く死をむかえられたか」ということはわからない。

より善く生きる努力をしてきたが、最期を迎える時に、それがよくなかったと感じた場合、十分なウェルビーイングの議論ができていたとは、私自身は思えない。

本質的な議論をする上では、10年、20年単位からもっと長い「ヒトの一生」単位で考えなければいけないと考えている。

それには、例えば、簡単な例だとライフステージも検討の要素に上がるのではないか。冊子のマンダラの中では、老化に対してのアンチエイジングは言葉として記述があったが、成長に関する話は議論に上がっていない。加えて、“アンチ“ エイジングが本当にウェルビーイングなのかという議論が必要である。(ドミニクさんの項においては、その時々のウェルビーイングという表現はあった。)

自然な老化やゆっくりとした機能低下、最期を看取る経験を看護師として経験している者としては、決してそればかりではないと思っている。

抗うのではなく、ゆるやかな着地を目指していく。
それこそが自然界においては「回復」しているのではないか。

「より善く生きる」ことと、「よりよく死ぬこと」は、切り離さず議論していくべきではなかろうか。

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もう一つの私の意見として、
『「極めて個別のものを包括的に取り扱って評価をする」 のではなく、
「極めて個別のものを、個別性を維持したまま包括的に取り扱う手法」を検討していくことが重要である』 
と考えている。

予防医学者である石川善樹さんの項で「医療からみたウェルビーイング」の話が展開され、横断的な情報が書かれていた。さらに研究を突き詰めていくには、ハードルは高いがコホート的研究的視点に加え、一人の人生を振り返る定性的な研究をしていくことで本質的な議論に近づいていくのではないかと考えられる。

風土や宗教観、医療文化など、その人をとりまく文化人類学的な背景の理解も必須である。ドミニクさんの項に記述されていた、日本的ウェルビーイングにおける「個と共」についての理解や、その時々のウェルビーイングを捉える哲学的方法への理解が求められていることには、強く同意をする。

「日本的なウェルビーイング」とはなんだろう?というのが現時点でのフェーズだと思うが、
「個別のものを包括的に評価するではなく、個別のものを個別のまま取り扱うためにはどうすれば良いだろう。」という方向性へ議論をすすめていくことが、ウェルビーイング論の議論の発展につながるのではないかと考えている。

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最後に…WIREDの今号「DIGITAL WELL-BEING」は久々に興味のど真ん中だったので、「ウェルビーイング」に関して、自分なりに思索を書き綴ってみました。

より善く最期を迎える一端を支えてきた看護師として、夢中で読了してしまいました。(何周か読みたいと思ってます。)

さらに、デジタルアートやデジタルファブリケーションをはじめとしたテクノロジーを「看護」として応用することを目指している私自身、
テクノロジーによるケアが「より善い生」につながっているか?ということは、繰り返し自問自答しなければいけないと思っています。

ウェルビーイング論は、まだまだ議論されていることは少ないかと思いますが、興味を持ちつつ、実践的な研究を通して追いつづけたいと思います。

お見苦しい文章だったかと思いますが、最後まで読んでくれた方はありがとうございます。

これを機に議論できる仲間が増えると嬉しく思います。

病院にデジタルアートを届けたり、3Dプリンタを使ってケアの現場を支える実践や研究をしています。 Digital Hospital Art / FAB Nurse/ vvvv Japan Community