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幸福

 小さめの浴槽に水をいっぱいに張る。はだかになってつま先からゆっくり入る。しぶきをあげずに、水が体を受け入れる。虫のようにじっとしている。明るい格子の外から、隣の家のピアノの音が聞こえている。
 息を吐くと、ハッカのように涼しく体をめぐる。世界で一番きれいな声を持っている様な気がする。「あー」と声を出して水からあがる。今度は思いっきり音を立ててあがる。

 ひんやり暗い台所の大きな机に頭をもたげている。コップで机の上に水たまりをつくる。指で広げて、盛り上がった水の端を観察する。時々蛇口からポトンと水が落ちる。明るい格子の外を写して、水たまりは緑に光る。


 シャボン玉を作って外に出る。いくつも飛ばして遊ぶ。大きいやつを作ろうと挑戦する。すぐにこわれてしまう。何度も作る。こわれる。汗をかいて夢中になって飛ばす。


 玄関のチャイムが鳴る。「ガス屋です」と男が言う。「お父さんはいますか」「お父さんはいません」「お母さんはいますか」「お母さんはいません」男はものすごい汗をかいている。台所に行って冷たいお茶を運ぶ。無意識に男の前で半分飲んでしまう。残りの半分を差し出すと、男は怒ったような顔をして手を「いりません」と振る。男は帰る。


 格子の外は燃えるように明るい。


 2階のベランダにタオルケットを敷いて、アイスキャンディを食べる。風が大きく吹いて、通り過ぎる。みるみるとけてゆくアイスをこぼさないように慎重に食べる。指まで食べる。本を読む。ページが光って眩しい。

 ベランダの手すりにもたれて見渡す家々に人影はないが、静かな生活の音がする。鮮明な花の色が空に伸びる。てすりに足をかけてのぼる。ゆらぐ柱をしっかり押さえて恐る恐るのぼる。足が震える。
 遥か遠くに一瞬青く海が光る。


(2001年著)


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