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目を当てる~カンブリア紀に追いついた!

息子を見ていたり、自分のダメだなあと思うところを考えていると、これができていないことを思い知っています。

「見る」

音読道場の運営をしている前田先生はよく「観察が大事」と言います。
子どもの様子を観察して適切な言葉をかける、アプローチを変える。

「見る」って超基本的事項だけど、息子の有り様や自分の生活をみていると、それがおろそかなゆえに色々なことができていない。今さらながら連日気づかされています。

これを向こうに運ぶ、戻ってきたらひとつ持って行き忘れてた。それを放置の連続で家が雑然となっていく。放置しなくとも二度手間。
人のことはよく見えるもので、息子にあれこれ「片付けなさい」「手が二本あるんだから、同時に持って行っちゃえばいいでしょ」「襟が中に入っちゃってるよ」など注意します。

最近、ふと、息子に注意することって「見る」ことがちゃんとできてればだいたい解決できることに気付きました。

「見てごらん、これが残っちゃってる」「よく見てからやりなさい」
こんな風に言い方が変わりました。「見るのは難しくないでしょう?」
息子は簡単なことと突きつけられますます気に入らなそうだけど(;'∀')

同時に自分もそうだと痛感しています。
片付けるべきものが目に入ったときに片付ける。プリントアウトする前によく見ることで時間と紙やインクを節約できる。よく「見て」いればおもてなしの質も格段に上がる。

「腸内細菌が~」「町内旅行が~」「文学が~」「音読が~」「地域が~」
なんていう前に、目を開いてよく見る。これこそ最優先事項。

そういえば、息子がおなかにいてまだ性別がわからなかったころ、生まれてくる子が女の子ならわたしが名前を付けることになっていました。
「よく目を開いて物事を見れる子になりますように」という願いを込めて「瞳子(とうこ)」にしようと思っていたっけ。

そんな自分があれから12年経っても周りに目をやれていなかったなんて。どうりでその名とのご縁がなかったわけですw

大事大事。
生物の進化で考えると、「カンブリア爆発」と言われていますが、生物の多様性が爆発的に増えたのは、目を持つ生物が出現したためです。
目があるから餌を見つけやすくなり、逃げやすくもなった。
最古で縄文時代くらいからが許容範囲のわたしからすると、カンブリア紀なんて超超超古代、革新的なニューアイテムでもそれくらい前から「目」は存在している。

現代人で半世紀近く生きているわたし、まだ「目」を使えていなかった。

見る、目を当てることは、視覚としても言えますが、時を止めることかなとも思います。丁寧に目を当てることで、その時に向かい合う。目に映ったものとも対等の関係。
心が先に行かないで、その瞬間目の前の事象を大事にする。

ここ数週間気にし始めたことに「目」も大きくかかわっていました。

五感がすべての始まり。
さあ、爆発だ!



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