風呂瞑想〜自信を作るのは体験
那須におとといの夜到着し、翌朝も今朝もお風呂に入りました。お風呂の蛇口を捻ると温泉が出てきます。
まだコンタクトを入れていない、ド近眼の視力で木の格子の外を見ると光と緑の抽象画のようです。
それでも日が翳ってきたとか照ってきたはわかります。
昨日の朝はお湯に浸かりながらそれこそ「瞑想」と呼べるような時間を過ごしました。何も考えない外のどこかを流れる川のせせらぎと風の音。
今日の朝風呂は信じられないほど気持ち良い温度でたまらなく幸せに感じて、瞑想どころではなく(いまいち瞑想がわかっていない自覚あり)、ガス湯沸かし器が温めたのではない、地球の熱で温められたお湯に入っているんだ、温泉ってすごい、温泉が好きな人の気持ちが初めてわかりました。
超絶気持ちよいお湯に浸かりながら息子のことを考えました。
やたらとわたしの腕に触りたがるのは自信のなさの表れかもしれない。
何かと同学年の子に比べできないことが多くて、揶揄されることも多く、素晴らしい鈍感力でかわして気にしてないようにしてるのに感心していたけれど、実は防衛本能で鈍感になっているのかもしれない。
やる気がない、と思うことが多々あって、この頃の子どもはそんなものかもしれないけど、どうせできないという気持ちが下地にあっての事かもしれない。
何か息子のことを誤解しているような気がしました。
来週、ここ那須で実施予定のミクマリ音読合宿に息子も一緒に来てくれます。その際に朝ごはんでホットサンドを振る舞いたいと昨日と今日、ホットサンド作りを練習しました。
これやっている間にゴミを片付ける、後のこと考えてお皿を出しておく、など手際の良さが要求される料理、夫にあれこれ言われ、ついついわたしもチーズが少ないなど感想を述べたりしました。
しばらくして外に出ると、息子がしゃがんで火おこしの練習をしていました。火打石(ファイアースターター)で火花を起こしてほぐした麻紐に火をつける。なんとかできたとしても、それを薪に燃え移らせるのはまた大変。途中なんどもへこたれていたけれど、1時間以上経ったころやっと火が育ちました。
それから息子はその火を絶やすまいといつにない粘り強さを見せ、一回外出して火を消しても、戻ってきたらすぐに薪の入った箱を抱えて外に出ていきました。
少し自信になったかな。
体験が彼を作る。
夜、息子に「どうして火付けの練習したの?」と聞きました。
「ミクマリ音読合宿のとき火おこしできるようになっていたい」と返ってきました。
なんともいい空気が母子の間に流れたのも数分、息子がとんでもないことをしでかし、ムードは一変するのですが、この記事ではここで時を止めることにします。
よかった、ありがとう。