さっちゃん
暖冬と言っても寒い日。
その日に「暮らしたい場所で最期まで〜さっちゃんの場合〜」という集まりがあった。
土曜日だった事とお看取りを一緒にした先生が待機明けだったので二人でお邪魔してきた。
鎌倉野菜の販売もしていた。
近所の方やそのご近所さんに声をかけられた方、沢山のの方がいらしていた。さっちゃんのお宅に。
さっちゃんは家で最期を迎えたいと望んでいた98歳のおばあさん。
ほぼお一人で家事もやり、頑張っていた。
入院もしたりした。
ご自宅で最期を迎えるには多くの人の手が必要となる。
施設にショートステイをしたり、訪問看護に入ってもらったり。
さっちゃんはお孫さんが保健師さんだったのでいよいよの時にお孫さんが自分が留守の時にもさっちゃんが安心できるように色々工夫をされていたのをその日に初めて知った。
お孫さんの純ちゃん。
純ちゃんは母親を早くに亡くし、さっちゃんがお母さんだった。
この日のさっちゃんのお宅にはさっちゃんの想い出の品が沢山飾ってあった。
最期の時も一緒にいたピーコちゃん
さっちゃんの着物
さっちゃんの嫁入り道具の一つ
本当に沢山の方々がいらしていた
さっちゃんがショートステイやデイサービス、訪問看護を受けていた看護多機能小規模施設のケアマネージャーさん
多分、さっちゃんのお宅にお薬を届けていた薬剤師さん。
訪問診療になるとご自身でお薬を取りに行けない方は「訪問服薬指導」として薬局さんがお薬を届けてくれるのです。
純ちゃんが地域の方に「こういう選択肢もあるんですよ」と知ってもらいたいと思って開かれた会なのだろうというのは想像がついた。
純ちゃんのした事、方法、考え方。
私はこの会に行き、知り・見て凄いなと思った。
このお手紙を外に貼っていたそうだ。
何にも知らなかった、気がつかなかった・・・そんな自分に涙が出た。
こうやってご近所の方とシフトを組んでさっちゃんを見守っていたのだ。
そしてこの下にはどの様な状況になったら純ちゃんへ連絡するかも書かれていた。
こうやってノートにみんなの申し送りが書かれていた
私たちがお看取りをさせていただいた。
実は私は予感はしていたんだ。天野先生と私がお看取りに当たるのではないかと。根拠は無い。だけれどもなんかね、予感はしていた。
天野先生は主治医ではなかったのだけれど、臨時往診で何度もさっちゃんを診ていた。その時に私が一緒の事が多かったから。
お迎えが近付いているかもしれないね・・・その時にも一緒だった。
さっちゃんが亡くなられた日は、天野先生と私がオンコール(待機:患者さんやご家族からの夜間の電話を取り、判断する係)だったのね。
だから、もしかして・・・とは思っていたんだ。
その時もこのピーコちゃんがさっちゃんの枕元にいた。
患者さんが亡くなられた後、お線香を手向けに行かせていただく事はある。
けれど、こういう会に出たのは初めてだった。
患者さんがご自宅で生活するにあたり
患者さんがご自宅で最期を迎えるにあたり
こんなに沢山の方(ご近所の方)が関わるのも珍しいと思う。
けれど昔の日本はこうやって、みんなで看ていたのでは無いだろうか。
病院で亡くなる方は現在、8〜9割と言われている。
病院で亡くなる事が悪いと言っているのでは無い。
「その方」が「望む場所」であれば私は自宅でも施設でも病院でも良いと思っている。
その「願い」をどう叶えていくか、そこが大切なのではないかなって。
さっちゃんのカルテを見せる先生と、それを見る純ちゃん。
地域にね、こういう機会がもっとあったら良いんじゃないかなって思った。
施設の話になった時に、みなさん、携帯の電卓で計算していた。
元気な時にそれを知ることも大切な事だと思う。
教えられる事が沢山の会だった。
行けて良かったなと思った。
さっちゃん、純ちゃん、ありがとうございました。
あなたはどこで最期を迎えたいですか?
状況により変化はしていくものです、こればかりは。
けれど、自分の最期は元気な時から考えてもらいたい、そう思います。
そして、それを本当に考えさせられた会でした。
それではまた。
この公開についてはご家族の了承を得ています。