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生きろ!余命宣告を受けた人たちとすれ違う時

月に一度の通院の日だった。
夕方の診察を終えて帰宅途中に、駅前のカフェに立ち寄った。
毎日のほとんどを自宅にこもって暮らす僕にとって、診察のための通院もちょっとしたお出かけである。
毎朝家でコーヒーを飲んでいるのであったが、カフェで飲むコーヒーはまた違った味がする。
セルフサービスの比較的手頃な値段のお店であるが、店内はこざっぱりしたオシャレな空間になっており、気持ちがなごむ。
万年疲労感に包まれた体を引きずるようにして店に入り、カフェオレをアイスで頼んだ。
数席だけあるソファに座りたかったが、すでに先客がいた。
二人がけのテーブル席に窓の方を向いて座った。

家で飲めば、自分でエスプレッソメーカーを使って、自分好みのもっとうまいカフェオレが、もっと安く飲めるのだが、と思いながらも、喉をとおる心地よさを感じると、そんなことは忘れた。
暑い夏の日であった。

ぼーっとした頭をカフェインで潤し、しばし余韻を楽しむ。
あれこれと雑念が浮かんでくる。
これからどうしようか、どうなるのか、と。
軽く息を吸い込み、深呼吸する。
目を閉じて瞑想する。
図書館で借りてきた本をとりだし読むことにした。

そんな時となりの四人がけのテーブルに客が来た。
大声ではないが、よくしゃべる。
読書に集中したいが、できない。
ちらっと横目で見ると老人までいかない中年の男女3人である。

本をテーブルの上に置き、コーヒーを口にした。
その時、「生存率」という言葉が聞こえてきた。
となりの3人組からである。
このカフェの近くには大きな病院がある。
すぐに察した。
聞くつもりはなかったが、耳に入ってきた。
一人が自分の病状を説明して、その深刻さを説明すると、もう一人が「俺なんか5年生存率が…」と話していた。その確率は極めて低かった。
3人が3人ともあっけらかんとしていて、まるで自慢するかのように、あるいは他人事のように話しており、はたから見れば愚痴で盛り上がる主婦のグループとたいして変わらないだろう。
しかし、その話の内容は絶望的であった。

寂寞とした心をもてあまし、カフェインを心の清涼剤がわりにしていた僕の頭を、あの3人は冷やしてくれた。
自分は「生かされている」と感じた。
厭世観にさいなまれながら「生かされている者」、会話にはずむ「生から見放された者」、皮肉な現実である。

グラスの中の氷をストローでかき混ぜながら、再び3人組をいちべつして、話しかけたいと思った。
「死を目の前にして、あなたは何を思うのですか?」
「何を感じるのですか?」
「怖くないのですか?」
「なぜ、そんな悠長にしていられるのですか?」

もちろん話しかけなかった。
そんなことを聞くのは、あまりに失礼だし、あまりに残酷だ。

あの日、僕は大きな学びを得ていた。
「人は生きているのではない、生かされているのだ」と誰かに言われても、「はい。そうですか。でもね、そんな簡単なものでもないですよ。」と反論したくもなる。
ところが、僕は誰にも何も言われていない。
ちょっとした偶然に出くわしただけである。
そして、ストンと腑に落ちる体感を得られた。
それは、まるで旧約聖書にあるモーゼの十戒のごとく、天から降ってきて目の前に突き刺さった石板のようである。

そこには、こう書かれていた。
「お前は生かされている」

ただ、これでは不完全である。
さらに続けて、こう彫ろうと思う。
「幸運なことに」

その後引っ越しをして、それ以来あのカフェに行くことはない。
5年の月日はすでに過ぎ去っている。

合掌。

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