乱葬崗とか鬼とか

新資料を手に入れたのでつけたし。ネタばれ満載になっていますのでご注意ください。

補遺4【乱葬崗にいたもの?】


日本の鬼とは区別しなくては、と思いつつ、よく似た風景かなと思われるものを見つけた。のでメモ。
ふしぎや主の閨の内を、物の隙よりよく見れば、人の死骸は数しらず、軒とひとしく積み置きたり。膿血忽ち融滌(ゆうでき)し、臭穢(しゅうえ)は満ちて膨張し、膚膩(ふに)ことごとく爛壊(らんえ)せり。いかさまこれは音に聞く、安達ヶ原の黒塚に籠れる鬼の住所(すみか)なり。

このような安達ヶ原の「黒塚」の描写は、平安末期に描かれた『餓鬼草紙』の、鳥辺野といわれる葬場の風葬のありさまを思わせるものがある。そうすると、そこで死体を食い漁るのは、曠野鬼とか冢間(ちょうげん)鬼と名付けられた餓鬼ではないかとおもわれてくる。〉(『鬼むかし 昔話の世界』五来重 令和3年10月25日 角川ソフィア文庫 45~46p)

安達ヶ原は実在の地名でもあるが、ここでは「あだ」「あた」からつながる〈人の死と無情をあらわす語〉と考えられている(48p)。したがって〈このように見てくると、安達ヶ原は陸奥ならずともどこにでもある、死者を棄てた葬所の「あだし原」であった。したがって、そこには成仏しない死者の霊が彷徨していると信じられ、これが鬼だった。〉(同前)
注意しておきたいのはここにある「餓鬼」などは〈日本人の霊鬼観念(デーモニズム)を形象化したもの〉(同前49p)である点。そうはいっても似たような風景が乱葬崗に広がったのだろうと想像はできる。たとえば、乱葬崗に落とされて魏無羨を襲った黒い影の正体はそういうものたちだったとするならば、魏無羨が「八つ裂き」と言った理由も視覚的にわかりやすいのかという気はする(分かりやすさの問題)。

補遺5【鬼神】

礼記を見ると、孔子と弟子の宰我との問答がある。「先生、死人をなぜ鬼神というのですか、その理由を私に教えてください」と質問した、これに対し孔子は「人が死ぬと神(魂)は天に昇り鬼(魄)は地に下る、そこで古えより聖王といわれる人は、この二つをあわせて祭り、死人の行く先を迷わぬようにしたのである。すなわち死人から昇るその気は痛ましいものであるし、またその鬼の精(霊)は特に恐ろしく目立つものである。そこで、この鬼と神とを合せて祭るのは、誰もが必要なことであるし、祖先に対してとるべき子孫の孝養であり、また務めでもある」と教えている。……気を神(魂)とし、魄(肉塊)をも神として祭ったのも肯づかれることである。……関伊子という本には「魄は気なり、気は軽し、故に魄からも気が出る、しかもそいの気たるや悽愴のものだ」といい、又白虎通という本には「魄は迫なり迫迫然として人につく」ともいい、……ことに雨の降る夜、死人の体より燐の燃えることなどと思い合わせ、何かしら死人の体、死人を埋めてある墳墓にも不可解の霊力があるとして、祖先を、祖神として祭るようになったのも、これまた当然のことであったろう〉(『鬼の正体 行事と迷信』永田要二 昭和42年8月1日 宝文堂33~34p)
なるほど地獄に鬼がいるということかとよけいなことも考えてしまうが、面白いのは次だ。
「神は申なり雷光なり」〉(同前36p)とある。『封神演義』に申公豹が雷公鞭を持って登場するのも宜なるかな、というところか(申公豹、雷公鞭については諸説あり、ここでは触れない)。
文字として〈この雷光の形を整形化すると、申の形となり、これが示を結びつくと神となるのである。〉(同前36p)
鬼の方を魏無羨が請け負って、神の方を江澄が請け負っているとも見えるわけで、なるほど二人の考え方は概ねいつも正反対だったかもしれない(アニメ版では江澄がどんどん離れて行くシーンが印象的だった)。

とはいえ、さすがにこれは穿った見方であり過ぎるか。江澄は常に人間らしい俗な選択をしてきたし、いくら紫電を持っているからといって精神性の代表といは言いがたいような。


補遺6【本当のオマケー雨月物語「菊花の約」】


ちょうど友人と話していて(正しくはメッセージのやりとり)、で気が付いたことがあったので再び『雨月物語』をもう一度開いてみた。巻一「菊花の約(ちぎり)」の物語。ざっとあらましを言えば、丈部左門という学者が赤穴宗右衛門という男と知り合う。二人は意気投合し親しくつきあう。親兄弟がもうないという赤穴は左門の母を実の母とも思い接する。やがて、赤穴は故郷のようすを見に一度戻ると言い出す。左門は必死でそれをとめるが彼は「9月9日には必ず戻るから」と約束して行ってしまった。そしてその9月9日、その日一日中左門は宗右衛門の帰りを待つが一向に戻る気配がない。母は今日だけのことではないのだからと諭すが左門は赤穴は約束を違える男ではないと言い張る。やがて夜になって宗右衛門が門に立った。左門は守られた約束を喜ぶ。さあ中に、と勧める左門に宗右衛門は「(敵方である尼子氏に)閉じ込められて身体は戻れなかった。だから自刃し魂となって今ここを訪れたのだ。ぜひ親孝行をするように」と語るとかき消すように消えた。その後、左門は宗右衛門のふるさとへ骨を拾うべく尋ね、宗右衛門の監禁に関与したとしてその従弟丹治を殺してしまう。

『人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく』」と。此ことわりを思い出て、みづから刃に伏、今夜陰風に乗てはるばる来り菊花の約に赴……今は永きわかれなり〉(『 新版 雨月物語』上田秋成 訳注青木正次 2017年3月10日 講談社学術文庫 87p)

生きている左門が仇を討つ物語であるので、決して同類とは言えないが死者が何かしらの一念によって魂を飛ばしてその一念を果たすという構造を探していたので、その好例となりうるか(日本の物語だけど! ベースは中国産かもしれないし!)。それはそうと、改めて読んでみてちょっと驚いた。左門が宗右衛門の従弟を討つにあたり中国の故事を例に出すがそれが「魏の公叔座」の故事である。「魏」の字が登場するのだ。ちょっと面白い偶然の一致である。

補遺7【陳情令の伏線】


ドラマでは伏線を張ったはいいが拾い損ねたケースがそこそこあったように思う。例えば第1話。藍思追が魏無羨が吹く草笛で「この曲、どこかで……、姑蘇の調べか?」と藍景儀に聞くが、藍景儀は「こんな下手な曲などしらぬ」と返す。下手だから聞いたことがないのか、そもそも聞いたことがないのかわからない返答である。もしかすると乱葬崗で魏無羨が吹いていたのを藍思追が覚えているという伏線かと思ったが(そうでないと藍忘機が姑蘇で弾いているのを聞いたことがあるとしたら藍景儀の発言はなかなかに問題発言になる)、その場面はなかった。あるいは魏無羨が不夜天で崖からとびおりる場面(1話、33話)。あれも本当は魏無羨を乱葬崗に連れて戻る予定にしていたのではという気もする(43話、乱葬崗に来た時の藍忘機の右腕の赤い血、もしくは小さな傷が気になった。蘇渉とのやりとりの場面、不夜天から乱葬崗、予定とは違う展開だったのでは?)
あるいは第二次乱葬崗掃討のあと蓮花塢で祠堂に行く前の会話「俺たちを赤鋒尊に導いた黒衣の男では?」これは「鬼面の男」のことを指すのか?(46話-2話、大梵山で黒い人影が映る瞬間はある)など。それに斂芳尊の隠し部屋で「乱魄抄」はなかったが台詞ではあった(46話)ことになっている。似たようなところで不浄世の屋根の上での藍忘機と魏無羨の会話もおかしい。二人で屋根に座っている場面、雲深不知処ではなかったはず……(22話)。セットの都合で撮影が前後するだろうからそういう事情で台詞だけがあるということが生じるのだろうとは思う。それはあるとしても、少々困ったなと思うのが封剣のくだりだ。やはり藍忘機が教化司で〈随便〉の封剣に気が付く場面(19話)はわざとその後スルーなのか拾い損ねたのか、そのあと言及がないことも相俟って気になることこの上ない。
剣といえば、暗黒の剣も持ってでない方がよかったのでは?そのあとの乱葬崗で突然再登場する暗黒の剣に困惑し、そのあといつの間にか陰虎符に変わっている流れがよくわからない……(私だけ?)

ついでに、やっぱり藍先生に「丹田に霊気を貯めて使えるんだから怨念だって使えるはず」(【5】)というのも、丹田に金丹がないからこそできる業かもしれない、と考えが揺れたりもする。なかなかすかっとわからないのが辛い。

まあファンタジー作品だし、そこまで厳密に読めなくてもいいのかもしれないけれど。

陳情令だけ16年後に捨身呪(献舎の術)で魏無羨が甦るけど、これは鬼期間を足したものかと見直したけれど関係なさそう。金凌の年齢の問題かもしれない。

まあ全体として再構成されたストーリーがわかりやすい。ドラマとしてみても、個々の心情や振る舞いにそれなりにきちんと動機や契機を見せてくれていて、ところどころにある特撮の安っぽさはおいといて、ストーリーや演出なんかにも文句がない(いってるけど。乱葬崗血屍の場面は見たかった!)。細かいところを言い出せばきりがないし、実写化ドラマとしてはよくできているのではないかと思う。


付記

そうなのか!納得の解説が出ました。餅は餅屋。
16年という数字にも意味があったのですね。勉強になりました。二次創作としての『魔道祖師』の位置づけがよくわかりました。ひとまずメモがわりにここにリンク貼っておきます。




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