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日記。年末年始と引越しと。

12月の28日と29日、二日かけて引越しをした。お願いしたアート引越しセンターの担当者曰く、この時期は引っ越しが多いために大型トラックが出払っているとのことで、中型のトラックで各日2往復。スタッフ4人がかりで大量の荷物を運び、両日とも昼頃からとりかかって21時くらいまでかかった。

実は昨年春、(初めの)緊急事態宣言が出ていた時期にも「荷物の移動」を行なった。大量のCDとレコードと本と雑誌とストーンズグッズを置いた資料室的な部屋を押上に借りていたのだが、コロナ禍による状況の変化に伴って退去し、下北沢の住まいに荷物を戻した。その頃から妻と、東京と田舎での二拠点生活を考えるようになり、夏頃に決め、10月にはまず田舎の家のほうにけっこうな分量(段ボール約80箱)の「荷物の移動」をした。そして今回の都内の引っ越しだ。段ボール約180箱。思えば「荷物を移動」させてばかりの1年だった。

自分の人生、どれだけ荷物の移動に時間と費用を費やしているのか。馬鹿だよなぁとその度に思う。荷物がなければやる必要のないことなのだ。その都度大量に処分しているつもりではあるのだが、思い切りが足りないのだろう。わかっている。わかっちゃいるのだが…これが…なかなか。

春の「荷物の移動」の際にアート引越しセンターに頼み、そのときのスタッフの印象が非常によかったので、10月も今回もアートさんに頼んだ。28日に来てくれたチームのリーダーは、手際が良いうえに見事なリーダーシップを笑顔で発揮していて、素晴らしかった。休憩時間にはリーダーがスタッフたちを笑わせ、和ませていた。こういうリーダーだったら、そりゃあついていきたくなるだろう。よってチームワークもとてもよく、感動してしまうほどだった。指名できるならばまた彼に頼みたいと思った。2日目も引き続き彼のチームが来てくれるものと思っていたのだが、別のチームが来た。2日目のリーダーは前日のリーダーとはまったくタイプが異なり、よく喋る青年だったが、仕事が丁寧だった。荷物を運び入れたあと、ひとり残って大きな棚の組み立てもしてくれた。「DIY好きなのでちっとも苦じゃないです」と彼は言い、それから少し話をすると、「こうしてお客さんとお話できるだけでも嬉しいんです」と言う。怖いお客さんもいるんでしょうねえと聞いたら、「まだ終わんないの?  早くしてよ! と言われることもざら」とのこと。そんな文句を言うひとがいるとは驚きだし、引っ越し屋さんもたいへんな職業だよなぁと思った。

29日は初めて杉並の新居で寝て、30日、朝起きると雨が降っていた。「はじまりはいつも雨」というASKAの歌を妻が口づさんだ。

この日は10数年住んだ下北沢の家の掃除をしに行った。棚やベッドが運び出されたあとの部屋は住んでいたときよりもずいぶん広く感じられた。住んでいる間におもいきって家具の配置換えをしていたらまた気分も変わったのだろうが、大抵の場合、引っ越したときのレイアウトのまま暮らし続けることになる。となると、初めが肝心。新居はベストの配置を考え抜かなきゃ。そんなことも思いながら長く住んだ家の隅々まで雑巾がけをして、『岸辺のアルバム』の最終回よろしく家に「ありがとう」と言って妻と笑いあったら、かえってちょっとセンチな気持ちになった。

ブラっと下北を歩きながら、こうしてふたりで何百回このへんをぶらついただろう、今度このへんを歩くときは地元民としてじゃなくビジターとしてなんだな、そうなると景色の印象も変わるだろうなと考えた。

大晦日は朝から夕方までひたすら荷解き作業。「明日が元旦?  なにそれ?」ってな感じで、もくもくと。次々に段ボールを開けていったが、量が多くて一向に山が崩れない。きりがない。日も暮れてきたので、ある程度のところで無理やりきりをつけ、母の住む石神井の家へ。杉並からだとずいぶん近い。風呂にはいって、ようやくホッ。テーブルにはカニと刺身とおせち的なあれこれ。例年通り日本酒やりながら3人(母と妻と自分)で紅白を見た。二階堂ふみの服のセンスのよさと驚くほどに巧みな進行が光っていた。

2021年・元旦。昼過ぎに妻は田舎に帰り、自分と母とふたりでのんびり過ごす。これも例年通りだ。食べて飲んでばかりだが、こうして例年通りの正月が迎えられてよかったとしみじみ思った。

2020年はたいへんな1年だった。コロナ禍で、というのもあるが、それとは別のたいへんさがあった。叔父が4月に急死して、叔母の認知症が一気に加速したのだ。自分は先述した押上からの荷物の移動と近いタイミングで葬儀やもろもろの片づけがあって、ステイホームと言われていた時期も動かざるをえなかったし、そのあとも度々叔母の家を訪れた。叔母の面倒をみることになった母にとっては、こういう言い方もなんだがコロナどころじゃないという状態がしばらく続いた。高齢である故、母のほうがまいってしまう。自分が生活環境を変えることを決めたのは、それもあってのことだった。少しでも母の近くに住むのがベターだと考えてのことだった。とりあえず叔母の件は冬が始まった頃に一定の落ち着きを見せ(とはいえ楽観を許さない状況ではあるが)、とにかくこうして新年を迎えることができた。「たいへんな1年だったね」と言えば、いまなら誰もがコロナ禍によるたいへんさを思うのが普通だが、それとは別のたいへんさを抱えながら生きているひとも、コロナとセットで抱えて生きているひとも世の中には数えきれないほどいる。そういうことに気づけたのはよかった気がしている。

3日の午後まで石神井の家で母とのんびり過ごし、夕方、杉並の新居に戻って、また荷解きを再開した。

4日。朝起きてベランダに出ると、富士山がキレイに見えていた。窓から外への景色のヌケ感がいいことからこの家に決めたのだが、富士山がこんなによく見えるところだとは思わなかったので、ラッキーがついてきた感じだった。少し荷解きをしてから、ランチがてら妻と初めて新居の近所を散策。近くに何があるかなどはそれほど入念に調べず今の場所に決めたのだが、歩いてみると近くに神社も緑道も図書館もあって、ああ、いいところに住んだなぁという思いが。去年は叔母のこともあったので何度も神社にお参りにいき、それが習慣となっていたため、神社が近くにあるのはよかったし、池尻~下北と世田谷時代にはよく北沢川緑道を走っていたので、そうして走れる緑道が近くにあるのも助かる。これでお参りもランも調べ物もすぐできる!。緑道を歩き、新高円寺のあたりをブラついて、居心地のいいカフェでカレーを食べ、その近くで台湾スウィーツを食べながら、これから何度もこのへんをぶらつくであろう自分を想像したら、ようやく新しい街に住み始めたのだという実感がブワッと湧いてきた。陽気のよさも手伝って、「希望しかない!」、そんな感じがした。

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帰ってからまた荷解き。そして5日も6日も、終日荷解きと荷物の収め作業をもくもくと。かなり古い物件である故、いろいろと直したりもしながら整えていってるのだが(それもまた楽し)、段ボールの山もなくなり、少しずつ住む部屋らしくなっていってるのが嬉しい。片付け作業は元来好きなほうだし、かなり得意だ。雑誌を月順に並べ、もう少し片付いたら今度はレコードやCDをすぐ何がどこにあるかがわかるように並べる作業にとりかかる。

仕事はまだ本格的にまわり出していないので、片付けにがっつり集中することができているここ数日だ。そんななか、世の中はまたもえらいことになっている。感染爆発。再びの緊急事態宣言発出。でまかせとごまかしとその場しのぎばかりでコロナ対策への本気度がまるでない政府。日本は一体どこへ向かおうとしているのか……と思っていたところ、7日の朝起きたらアメリカがとんでもないことになっていた。日本の現状も相当酷いが、アメリカも輪をかけて酷い。いったい何が起きているのか。世界は、人間は、一体どうしてしまったのか。知れば知るだけ絶望的な気持ちになる。

奇妙で、信じられないくらい困難な時代になった。損失量がとてつもない。年が明けてパッと霧が晴れるはずなどなく、霧はますます深まるばかり。2021年の新規感染者数、入院患者数、死者数は2020年を上回るだろうと言われているし、早くもその兆候が見え始めている。このような状態、このような世界は、間違いなくこの先まだまだ続く。全世界の旅客数が以前の水準に戻るのは2024年になる見込みだと言われている。

けど、憂いていてもどうにもならない。「こうなってしまった」うえで、自分は「こうする」。今大事なのはそれしかないだろう。

そう思って、まずはとにかくこの家を片付け、快適に住めるようにする。そのことに集中する。片付けは着々と進んでいる。さっき、あいた百数十枚の段ボールを回収してもらったら、ずいぶんすっきりした。「いや、もう、たいへんだよ」と友達には言っているが、部屋を部屋らしくする作業は、実はけっこう楽しいし、充実感も得られる。引っ越しはやっぱり面倒だしたいへんだけど、片付けることは元来好きなのだ。そして、10月に引越しを終えた田舎の家のほうの片付けと整えもまだ続く。そっちは庭のいじりがいもあるので時間がかかりそうだが、まあ、楽しんで少しずつやるとしよう。

世に対しての不満と不安。新しい暮らしに対しての期待と希望。その両方の行ったり来たりと共に2021年が始まっている。



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