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『福田村事件』(感想)

2023年9月23日(土)

吉祥寺アップリンクで、『福田村事件』。

森達也さんの本は20冊以上持っていて、劇場映画(ドキュメンタリー)もだいたい観ている。かなり影響を受けているという自覚がある。が、劇映画となるとどうなのか。期待と少しの不安を持ちつつ、いま異例のヒットとなって上映館を増やしている『福田村事件』(長編劇映画デビュー作)をようやく観た。

充実したパンフレットに掲載の「森達也×森直人 対談」で森直人さんも指摘しているように、「視点の多さ」がさすが森達也さん。達也さんもそれに対して、「群像劇だからこそポリフォニー(多声性)は重要です。そこは意識しました」と話されている。氏の言葉はこう続く。「そもそも村人たちの多くにとっては「差別」の前に、自分の家族や仲間が殺されたらたまらないという「自衛」の意識なんです。集団心理の混沌をカテゴライズで区切らず、どれだけ個人と個人の衝突や葛藤として描けるか。そこが最大の勝負になると思っていました」。

まさしくそこが肝で、前半から個人の葛藤や近いところでの衝突を丁寧に描いたからこそ、この映画は強度と説得力を持った。「自衛」は当然だが、その当然性はかくも厄介で難しい。で、そういう自衛と、その行き着く先の「集団心理の混沌」を見せられ、考えさせられると、自分も子供の頃に受けたいじめ体験の景色(いじめっこに逆らうのを不利としていじめに加担する子たちのあのいつくもの目など)を思い出しもするが、その果ての混沌の爆発を衝撃的に描いた作品としてずっと忘れられずに残っているのがマガジン連載時にリアルタイムで読んだ『デビルマン』(コミックの5巻)。魔女狩りならぬ悪魔狩りで暴徒と化して殺戮に走る住民たちの怖さで、『福田村事件』を観て真っ先に頭に浮かんだのが『デビルマン』のあれだった。

まあ『デビルマン』のことはおいといて、とにかく森達也さんの言う通り「集団心理の混沌をカテゴライズで区切らず」描いてみせることができたのがこの劇映画の肝であり、多くの人に響いた理由であるとも思われ、氏がこれまでのドキュメンタリー作品で培った様々なことが活かされた長編劇映画デビュー作であるなとは感じた。

が、僕の知る森達也っぽさとはちょっと違う感触だなと感じたところも少なからずあった。女性たちの性愛的な描写で、ああした情感に寄った部分は達也さんのこれまでの本にはまず出てこない。だから観ていて「へぇ~、こういうシーンも入れるんだ?!」と思ったりもした。で、エンドロールのクレジットで、企画と脚本は荒井晴彦さんで(脚本は荒井さんと荒井さん組のもうふたり)、森達也さんは今回監督に徹していたことがわかって、ああ、だからなのかと思ったし、パンフを読んだら「性愛的なモチーフに関しては、ほぼ荒井さんのアイデアです。僕からそういう発想は絶対出てこない」とあって、そうだよねえと納得したのだが。そのへん、森達也さんは、どの程度納得した上で荒井さんの(どうしても昭和的というか、古臭いとも思えてしまう)アイデアを取り入れたのだろうか。招かれた監督として少し譲ったところもあったのだろうか。これはこれで相当凄い映画だが、自分は企画・脚本・監督/森達也の…純度100%の森達也長編劇映画を一層期待したくもなったのだった(とはいえ、荒井晴彦ミーツ森達也作品という意味での面白さも多大にあり)。

あと、木竜麻生さんが演じた新聞記者に相当わかりやすく現代とリンクさせた台詞を言わせたりしているのが、わかりやすさのよさはあれども映画としては少し違和感。森達也さんが脚本書いたら、こういう言わせ方は絶対しないだろうなと。とはいえ、そのようにわかりやすい…響きやすい言葉(メッセージ)を入れたからこそここまでのヒットになったのだろうと思いはするけれど。

キャスティング、よかったですね。和顔のコムアイの色っぽさに気づいてキャスティングした人、ナイス! それとなんといっても東出昌大の、男の僕からしても惚れてまうやろな筋肉の付き方、その色気。やっぱいい役者。あと水道橋博士の嫌いになるしかない怪演。そして今回もやっぱり素晴らしかったカトウシンスケ。

思い出して書いてたら細部を確認する意味でも改めてもう一回観たくなってきた…。


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