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泉谷しげる×仲井戸“CHABO“麗市@有楽町 I'M A SHOW

2023年1月21日(土)

有楽町・I'M A SHOWで、泉谷しげる×仲井戸“CHABO“麗市「ROCK & ROLL HEART」。

作った本人にとっては、そこまで思い入れのない曲、それほどの名曲とは思ってない曲、なんなら忘れ去っていたりする曲だったりするけれど、別の誰かにとってのそれはそのアーティストの曲のなかでも屈指に思えたり、人生に強い影響を及ぼした曲だったり、誰がなんと言おうと名曲だと思える曲だったりする。そういうことってある。

1971年にデビューした泉谷しげるはこれまで数百という曲を世に送り出してきた。が、あれだけ精力的にライブを続けていても、そのなかには数える程度しかライブで歌われなかった曲、一時期は歌っていたけどもう何十年も歌っていない曲、自分自身でさえ忘れている曲だってけっこうたくさんあるはずだ。

例えば大傑作『'80のバラッド』以前の曲でライブで歌われる曲はほぼほぼ固定化されている。「春夏秋冬」「眠れない夜」「火の鳥」「Dのロック」「国旗はためく下に」「黒いカバン」「野良犬」……といったあたりがほぼ定番だ。『'80のバラッド』以降だと、「翼なき野郎ども」「デトロイトポーカー」「褐色のセールスマン」「野生のバラッド」「すべて時代のせいにして」あたりが歌われる頻度のかなり高い曲である(とりわけ「野生のバラッド」は、これを歌わないと終わらないという曲である)。

1978年作『'80のバラッド』以降の泉谷は、ものすごくざっくり書くなら、粗暴でありながらそこに優しさを滲ませる…といったイメージ付けで続けてきた。楽曲は自身または誰かを鼓舞するものや、時代や社会と向き合ったものが多かった。そういう曲のなかで「負けんじゃねえぞ」というメッセージを多く伝えてきた。が、70年代の初期や中期には強さよりも弱さや繊細さをスローなメロディにのせて歌ったフォークよりの曲が多かった。粗暴なイメージを手にした70年代の終わりからロック方向に振り切り、「翼なき野郎ども」「デトロイトポーカー」「野生のバラッド」といった楽曲の通り「いらつき」に対して「吠える」シンガーというあり方でキャリアを重ねるようになったわけだが、それと引き換えに繊細さを残したフォークバラードの多くは歌われる機会が減ってしまった。歌い続けたのは代表曲となった「春夏秋冬」と、あとは「春のからっ風」など数曲といったところじゃなかったか。

自分はといえば、『'80のバラッド』と翌年の『都会のランナー』から受けた影響は計り知れないものがあり、バンドで言うならBANANA期もLOSER期も頻繁にライブを観ていたわけだが、レコードではそれらと同じくらい『家族』や『ライブ!!泉谷~王様たちの夜~』などフォーライフ時代の盤やそれ以前のエレック時代の盤にも親しんでいた。その頃の盤には、ライブではほんの数回しか聴いたことのない曲や1度も聴いたことのない曲もけっこうある。

昔からの友達(マイ・オールド・フレンドと言うくらいの)だったチャボは、泉谷しげるという優れたソングライターのどういう楽曲、どういう歌詞が好きで、泉谷しげるというシンガーのどのような歌い方に魅力を感じていたのだろうか。泉谷のどういう曲に輝きを感じたり、思い入れを持ったりしてきたのだろうか。

昨年5月に観たEXシアター六本木公演もそうだったが、そのアンコール公演として開催された今回の「泉谷しげる×仲井戸“CHABO“麗市 ROCK & ROLL HEART」は尚のこと、それがよくわかるライブだった。ライブは休憩挿んでの2部構成で3時間以上行われたのだが、とりわけ1部に「チャボがいま泉谷に歌わせたい泉谷楽曲」の色がはっきりと見て取れた。

「1/2ブルース」「ブルースを歌わないで」と昔の泉谷が得意としたブルーズフォーク的な曲から入り、「里帰り」「君の便りは南風」が続いた。古井戸の「落葉の上を」(古井戸曲のなかでも泉谷が特に心打たれたと言っていた曲だ)を今回も歌い(前回は「チャボが立って弾いて、オレが座って歌う意味がわかるか?!  オレは加奈埼をやりたいんだよ」と言って歌われた)、そして「春のからっ風」「行きずりのブルース」を歌い、一部の最後を「流れゆく君へ」で締めた。チャボがどういう泉谷の歌をいい! 好きだ!と思うのかが非常によくわかる選曲であり、それは僕の好きな(だけどもあまり見せない)泉谷の側面ともかなり重なっていた。だからグッときた。当の泉谷はといえば、例えば「流れゆく君へ」を歌う前には「なんで仲井戸さんがこの曲を選んだのか…」「1部の終わりがこの曲でいいのか」みたいなことをブツブツ言っていて、つまりその曲の重要さをわかっていないようだったが、僕には1部の終わりをこの曲で締めることの意味がよくわかって、それだけでも「さすがチャボ!」となったのだった。そしてそれにも増して、アンコールの最後の最後の曲が「終わりをつげる」だったことに「うわぁ、ほんと、さすがチャボ!」となったのだった。

泉谷とチャボ。ふたりだけの、ふたりが主役の公演だ。よって、それぞれのよさがよく出ていた。が、チャボは自分よりも泉谷のよさを引き出すことに相当力を尽くしていた。「チャボの好きな泉谷しげる」「チャボの聴きたい泉谷しげる」。それがこの公演の柱であり要でありコンセプトと言ってもいいものだった。

どういったライブにしたいのかはチャボの手中にあり、チャボの音楽的才能に絶大な信頼をおいている泉谷はだから、チャボの言う通りにしたのだろう。チャボが選んだ曲を、泉谷はしっかり歌おうと、(長い間歌っていない曲ばかりだったので)ずいぶん練習したそうだ。その成果、あり。泉谷は歌い慣れていなかったからこそ尚更それらの曲を丁寧に歌っていた。勢いで歌われるロック曲の荒々しい強さもいいが、繊細な言葉を丁寧に(抑え気味の歌唱で)歌う泉谷もまた素晴らしい。そしてそれは、泉谷の単独ライブではそうは観ることの(聴くことの)できないものである故に新鮮でもある。

ガツッガツッとギターを叩くようにストロークして歌われる泉谷の曲には、それはそれの力強きよさがもちろんある。が、第一に音楽家であるチャボは、勢いよりも1曲1曲の音楽的完成度を求める。泉谷のスロー曲を膨らみを持たせたアレンジで演奏し、音楽として提示する。泉谷のもともといい曲に対し、繊細さと豊かさを併せ持ったギターでそのよさを膨らませて伝えてくる。だから「里帰り」も「君の便りは南風」も「春のからっ風」も「流れゆく君へ」も音楽的に素晴らしいものになっていた。

総じて「こういう泉谷がいいんだ」「こういう泉谷がいることをもっと知ってほしいんだ」「こういう泉谷の曲のこういう歌唱をもっと伝えたいんだ」というチャボのプロデュース力が光るライブだった。しかも70年代の楽曲だけでなく、「きらめき」という比較的新しめの泉谷の曲も選んでいたことにも唸らされた。

チャボは泉谷の楽曲を相当深く聴き込んでいる。相当聴き込んで、深く理解し、その上で選曲し、咀嚼し、その核となるところを消化した上で演奏している。チャボのギタープレイからはそのことがはっきりと伝わってきた。この1公演に、どれだけ真剣に、どれだけ全力で向き合っているかということの表れだ。

チャボほど泉谷というソングライターのよさを理解し、リスペクトし、それを引き出せる人はほかにいない。

「チャボと一緒にやれるライブは宝物だ」と泉谷は言ったが、そりゃそうだろう。繰り返すが、チャボほどシンガー・ソングライター泉谷しげるのよさ・凄さをわかっている人はほかにいないのだから。こんなにもシンガー・ソングライター泉谷しげるの本質・魅力を表に出すよう努めてくれるミュージシャンは、ほかにいないのだから。

前回の公演の感想はこちら↓


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