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noteを書くということ

こんにちは。

私はNY在住20年近くになります。20年も英語圏に住んでいるのだから、さぞかし英語が上達しているのだろうと思われるかもしれませんが、残念ながらそんなことは全然ありません(泣)

とは言え、一応英語環境で働いているし、こちらの大学も出たので日常会話程度なら話せます。でも自分の思いを言葉にすることや、状況を説明するのはとても苦手です。

仲のいい友達は日本人ばかりだし、日本人同士でも自らどんどんしゃべるタイプではないので、なかなか上達しないのでしょう。

日本語での言い回しは出てこなくなるのに、だからと言って英語が上手くなっている訳ではないのが、辛いところです。

そんなこんなで20年、最近めっきり自分の考えや思いを誰かに話したり、共有することがなくなったなあと感じました。私の彼や仕事先の同僚はみんなおしゃべりで、こちらが黙って聞いていると永遠と話し続けるのでどうしても聞き役が多くなります。もちろん私も話しますが、いつも100%は伝えられていないという欲求不満が残ります。例えば、ある話題(映画とか政治とか何でも)について話していて、それについては私も言いたいことがあると思って、話すタイミングを待っているうちにもう違う話題になってしまうこととかしょっ中(泣)

でも考えてみれば、日本語で話したとしても自分の思いを100%伝えるというのは難しい訳です。同じことを話していても、受け取る側のフィルターによって受け取り方は変わるので、理解されるかどうかは、私のコントロールできることではありません。

それでも「私を伝えたい」「自分の思いを共有したい」「分かり合いたい」「分かって欲しい」というような思いを抱えて、このnoteを書き始めました。

まだ初心者なので、よく仕組みがわからないのですが、沢山の方の文章を読んで思ったことは、同じような思いを抱えている人が多いんだなということ。そしてこのnoteという場がとても暖かくそれを受け入れて、いろんな人が自分を表現することをサポートしているということ。意地悪なコメントとかもないし、みんながそれぞれのユニークさや違いを受け入れているところ。

日本社会は良くも悪くも同じであることを暗黙の了解の中で受け入れて、その社会に適合していくことを求められます。人は一人一人違うのですから、全ての人に適合するシステムなどありません。社会にはある程度ルールは必要だけれど、見えないルールの力が強すぎて、みんなもういっぱいいっぱいになってるように感じます。だからこうやって表現する場を与えられると、みんな水を得た魚のように生き生きした文章を書くのだと思うのです。

私はこのnoteという場だけでなく、日本社会全体がみんなと違う自分を表現しても暖かく受け入れられるようになるといいなと思います。例えば、私とあなたが違う意見や価値観を持っていても、それをお互いに尊重して自分の価値を押し付けない。

NYは様々な人種がいるので、割と違いを受け入れられやすいと言えます。それでも自分の意見や価値を押し付ける人はいます。そんな時に思ってもいないのに同調する必要はなく「あなたはそう思うのね。でも私はそうは思わない。」と伝えることは大切です。それは私のために大切なのです。なぜなら他人に合わせることばかり優先していくと、自分の本当の思いが分からなくなっていくからです。

そうは言ってもいちいち伝えるのが面倒で、合わせてしまうことはあります。でもなるべくそれに気づいて、伝える練習をしています。「ま、いっか」ということはもちろんあっていいけれど、そればかりにならないように。

こうやって自分の頭の中にあるものを、言葉として表現すると、はっきりと自分と繋がる感覚があります。それはとても気持ちが良いものです。そして自分の考えていることが分かると、人と話す時にもそれを伝えやすくなります。自分の立ち位置が分かり、相手との違いも見えてきます。ぼんやりと感じながら過ごしている日々がより鮮明になるようです。

これからもこうやって書くことで見えてくる世界を楽しんで行きたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

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