「多様性を認める」って実際しんどい説
「少数派を尊重し、多様性が認められる社会を作る!」って政治家の人とか、テレビとか、新聞とか、大学の先生とか最近めちゃくちゃ言います。でも実際は「そういうのしんどいなぁ」と思ってしまいます。多様性は認められるべきだし、少数の意見とかも尊重されるべきだけど、それを本当にやろうと思ったら死ぬほど辛いと思います。
例えばワクチンの話です。ワクチンを接種することを全ての人に強制すべきではありません。一応安全が保証されているけど、未来のことは誰にもわかりません。なので、自分で情報を集めて自分で判断すべきです。
これは正論です。では、この正論はどこまで通用するのか?
ワクチンを接種すべきだと考えている人と、打ちたくないと考えている人が同じ屋根の下に住んでいる場合を考えます。2人はこれまで何度か話し合いを重ねてきました。
「接種したくない気持ちもわかる。でも、コロナに感染して重症化するのが怖いので、ワクチンを接種してほしい。」とワクチン賛成派の人は言いました。公共の福祉みたいな話もしました。
しかし、ワクチンを打ちたくないと考える人の意見は変わりません。
「副反応が出ることが分かっているのに打ちたくない。」「将来体に対してどのような影響が出るのかわからないから打ちたくない。」「自分たちの年代であれば、コロナにかかって重症化するリスクは低い。それなら副反応の方がむしろ怖い。」「会社の人手が足りないので自分が休むわけにはいかない」
この意見も正しいです。ワクチンを接種したくないと思っている人は真面目に考えて結論を出しています。その意見を変えようとすることは結構傲慢な感じがしてきました。
意見が明らかに対立している。その対立を埋めるために話し合いもした。(途中からキレられたためそこでやめた) 結局、上手く合意が取れない。
この場合、違う意見を持つ人とは距離を取るしかないのか?多分それしかないと思います。
この問題には2種類のしんどさがあります。一つは、同居人がコロナで重症化するかもしれないという不安を抱えながら生活するという狭い意味でのしんどさ。もう一つは、他人は他人で自分は自分だと割り切るという広い意味でのしんどさ。この2種類のしんどさがあります。
まず一つ目のしんどさについて。ワクチン賛成派からすれば、ワクチン反対派の意見を認めるということは、同居人がコロナに感染して重症化するかもしれないという不安、自分が濃厚接触者になって自分の周りに迷惑をかけるかもしれないという不安を抱えながら生活するということです。
自分は自分で他人は他人だから、考え方も情報の集め方も判断の基準も違う。いろいろしんどいけど耐える。公共の福祉という考え方もあるけど、公共の福祉を重視しない人もいる。それもまた判断基準の多様性だと言われればそれまで。考えても無駄。現実は変わらない。気にしないようにして生活するしかない。
二つ目の、他人と自分は違うということを割り切ることのしんどさについて。
意見が対立すると分かったら、関係深くない人同士の場合、他人は他人だと思って、比較的簡単に割り切れると思います。しかし、近い関係にある人と意見が真っ向から対立する場合が難しい。家族、恋人、仲良しの友人と意見が真っ向から対立する場合。どんなに親密な関係でも、彼らは自分とは違う人間。他人。その事実を毎度突きつけられる。もっと辛いのは、話し合いもできないこと。親しい間柄の人と話し合いの前提も共有できないこと。そのくらい違うという事実がある。これがかなりしんどいなぁと思います。
結論は、
「異なる意見が同時に存在することを認めるのは、間違いなく正しい。でもそれはかなりしんどいことである」
です。
多様性が認められない社会は多分間違っているけど、一人一人の気持ちのしんどさは少ないと思います。意見が合う人たちで集まって、それが全てだと信じて、協力しながら生活できるからです。
多様性が認められる社会は、多分正しいけど、しんどいと思います。自分は自分で、他人は他人だと割り切って、その都度他人との違いを突きつけられながら生きていかなきゃいけないからです。
正しくはないけど、楽な世界。
正しいけど、しんどい世界。
どっちも嫌だなと思ってしまう。
あと、「少数派を尊重し、多様性を認める社会を作る!」という意見が多数派になっている感じも怖いなと思う。
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