見出し画像

湧き出た決意と、あの日拾った子猫の話

7年くらい前のある日、当時住んでいたマンションの下に子猫がいた。深夜だったと思う。暑かったような気もするし、寒かったような気もするが、よく覚えていない。

子猫はとっても小さくて、目は潰れて開かない。ミーミーと、高く小さな声で鳴いていた。
僕はすでに1匹の黒猫を飼っていたのだけど、放置するわけにもいかずそのチビを家に連れて帰った。

湿気たマッチの火のように、風が吹けば消えてしまう命。そんな状態だった。目の汚れを綺麗にして、ご飯をあげて、トイレのお世話をした。黒猫は、チビに興味を示して小突いたりはするものの、特にそれ以上の干渉はしなかった。

チビの目は数日して開いた。嬉しくて胸が締め付けられた。そして次第に元気になっていった。間も無く貰い手が見つかり、うちから居なくなった。

それから季節が2つ過ぎたくらいか、チビの貰い手から直近の写メを見せてもらった。
僕の記憶にあるチビの面影は何処にもなく、毛艶よく、とても凛々しく可愛い顔をした健康的な猫が写っていた。

-----------

僕は、世の中を変える事は出来ないと思う。それは理解するには複雑で、あまりに大きい。ある程度決まった方向へと世の中が進んでいく中で、どうやって流れに乗れるか、いかに適切なタイミングで飛び乗るか、そういった勝負を誰しもが世界中で繰り広げているように思う。

だけど、僕はチビを拾い、世話をして消えかかった命を繋いだことで、チビの世界や、長く連れ添う飼い主の世界も、あの日のたった一つの想いと行動が作り出した。
例えばエサやトイレなどの消費の積み重ねも、巡り巡って誰かの行動に影響を与えていく。どんな些細な想いや行動でも、良くも悪くも全てが巡り繋がって、「世の中」を作っているんだな、ふとそう思ってこれを書いている。人の想いと、それによる行動の集合体のことを「世の中」と呼ぶのかな。

7年も前の話を、何故いまこうして思い出したんだろう?

僕に「世の中」を変える力はなくても、少しの善意や個人の想いで、小さな変化は起こす事ができる。そしてそれがいろんな形で駆け巡り、「世の中」の一部になっていく。
だったら大きな目標じゃなくたっていいし、ありふれた事でもいいから、どうせなら善いことをしよう。誰かのためを想おう。自分自身や、目の前の人たちをもっと大事にしよう。全然できていないけど、小さなところから。

そうやって自分と向き合ってみると、改めてこう思った。小さな範囲でも、困っている人を助けたい。犬猫のためになる事をしたい。

だけど、街で困ってる観光客を助ける事や、見かけた子猫を保護する事は、個人の欲求とも結びつきかねない。今まで根本的な解決に向かう行動を僕は起こしてこなかったから。
ただ浸っているだけなのかもしれないな、と自問自答する事もある。

その答えはまだ出ていないけれど、これをどう継続させていけるのか、少しでも輪を広げられるのか。じっくり考えて、大胆に行動していこうと思う。

お金とか、評価とか、ベンチャーとは、とか。振り回されるのはもうやめたよ。そんなフェーズにはまだ早い。
せっかく久しぶりにnoteを書くほどに考えたので、やってみる。

初めてnote書きました!2018,06,24 よかったら応援お願いします!