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ローデン准教授の歴史への挑戦 7.お慶

(お慶と結婚するローデン。その後お慶と共に現在に戻ってしまう)

 ローデンが幕末に戻ってきてひと月ほど経った10月25日、お慶と祝言を挙げることになった。
 祝言は、順斎の家で行われた。
 安政6年7月27日に、ロシア士官1人、水夫2人、が襲撃され、祝言直前の10月11日には、フランス領事館の下僕の清国人が惨殺されたため、警護の役人は二人から四人に増えていた。
 出席者は、順斎の学者仲間や、斉藤などの若い学者たち。万次郎と井伊直弼の代理。お慶の友人。留吉と大家。留吉の長屋の代表が二人と、二十名ほどになった。
 順斎が通っているいくつかの藩からは、祝いの品が届けられていた。

 特に、井伊直弼の代理人の田村は出席者から一目置かれているようだった。田村は、ローデンが順斎に従って直弼に会いに行ったときに案内してくれた男だった。
「私は、代理人と言っても下っ端ですから」
 田村は、返って恐縮していた。それでも、直弼から直々に代理人を仰せつかったと泣かんばかりに喜んでいた。あまり場違いな者を代理人に立てないようにとの、直弼の配慮に違いなかった。
 場違いといえば、一人の外国人が万次郎と共に出席していた。彼は、外交官のようで、辺りを珍しそうに見ながら、「ビューティフル」を、連発していたが、話し方からイギリス人のようだった。

 台所では、うなぎ屋の女将が万次郎を救った礼ということで自ら包丁を握り長屋のおかみさん連中や女中たちの陣頭指揮を取っていた。
 ローデンは、借りてきた猫以上に緊張していた。山本が見たら、信じられない光景に驚いたことだろう。
 ローデンは、時代劇で見た婚礼風景を思い出して辺りを見回した。金屏風の前の新郎新婦。その左右にずらっと並んだ人々。前に置かれた箱善。箱善には、酒や肴が並んでいる。時代劇とそっくりだと思ったが、時代劇が、過去の事実に基づいて作られているだけで逆だと気が付いて苦笑いした。
 ローデンは、お慶さんはどんな顔をしているのだろうか? と、気になりお慶の顔を覗きこんだ。
 お慶は、ローデンが自分を見ていることに気が付き、恥ずかしそうな顔をした。今まで見たこともない初々しい顔だった。
「お慶さん。今日は、とても綺麗だ」
 ローデンは、思わず言っていた。
「そんな…」
 お慶は、恥ずかしそうにしながらも、「お慶さんだなんて、ローデン様は水臭い」とローデンの顔をちらっと見た。
「お慶さんこそ」
 ローデンは、お慶を見て笑った。
「そうでした」
 お慶は、ばつの悪そうな顔をした。
「今日も綺麗だが、普段のお慶さんの方もいい。ポニーテールのようで」
 お慶は、ポニーテールの意味が分からず不思議そうな顔をしたので、「未来では、女の子の髪型の一つです」と、小声で説明した。
「何を二人でごちゃごちゃ言っているのです?」
 斉藤は、もう酔っ払っていた。
「そうですぜ。話は、後でゆっくりやればいい。寝床の中で」
 留吉は、そう言って意味深に笑った。

 祝言は、つつがなく進行して一時間ほど経ってお開きとなった。
 出席者は、ローデンとお慶それに順斎にお祝いの言葉をかけて帰って行った。
 万次郎は、殆んどの出席者が帰った後を見計らうように外国人を伴ってローデンの前に進み出た。
「順斎殿も、こちらにいらしてください」
 万次郎は、客の対応にまだ追われている順斎を呼んだ。
 順斎は、客に挨拶をしてからお慶の隣まで来てそのまま畳の上に座った。
「ローデン殿。順斎殿。それにお慶さん。こちらの方を紹介します」
 万次郎は、外国人を見てから、「アメリカの横浜領事のイーベン・ドール氏です」と、紹介した。
「領事ですか…」
 ローデンは、ハリス以外の外交官が日本に訪れていたことは知らなかった。ハリスが単に有名過ぎたのかも知れない。
 順斎とお慶は、少し身構えた。万次郎がなぜ領事を紹介したのか、困惑した顔になった。
「実はローデン殿がお慶さんと一緒になられたので、日本人になるか確認に来られたのです」
「日本人?」
 ローデンは、呆気に取られて鸚鵡返しに尋ねてしまった。
「正式な祝言ですよね」
 万次郎は、念を押すように尋ねた。
「もちろんです」
 ローデンは、即座に答えた。お慶は、事情を察して何も言わなかったが、嬉しさのあまり涙があふれ出てきた。順斎は、ローデンがそこまで考えていてくれたと喜んだが、娘が他人になることも意味していた。
「そこで、アメリカ国籍をどうするかということで来られたのです」
 万次郎は、別段困った顔はしていなかった。
「でも、私は…」
 ローデンは、アメリカ国籍がこの時代にあるはずはないと慌てた。万次郎の真意が分からなかった。
「その点は、ご懸念いりません。こんな事もあるかと、書状をアメリカに送っております」
 万次郎は、そう言ってから声を落として、「あなたが、フェアヘーブンで生まれたことにするように頼んであります。ですから、問題はありません」と、付け加えた。
「そうですか…」
 ローデンは、万次郎の配慮が嬉しかった。が、「そんな事できるのでしょうか」と、少し心細い気持ちになった。
「あなたが、未来から来たことは当然伏せてあります。アメリカに移住するつもりが、諸般の事情で日本に滞在することになったことにしました。私の恩人なら、力になってくれます」
 万次郎は、太鼓判を押したが、「なに。万が一駄目でも他に方策を考えるまでです」と、別段心配しているような顔はしなかった。
「万次郎様。ご配慮感謝いたします」
 順斎は、喜んで万次郎に礼を言った。
「ローデン殿は、私の命の恩人です。私のささやかな恩返しです」
 万次郎は、そう言って笑った。
「そう言っていただけると…」
 ローデンは、恐縮した。
「ところで、ローデン殿は、日本人になりますか?」
 万次郎は、改めてローデンに尋ねた。
「それは…」
 ローデンは、即答を避けた。
「ローデン殿。お慶は、一人娘です。できれば養子になってくれませんか?」
 順斎は、無理を承知でローデンに頼んだ。
「お慶さんは?」
 ローデンは、お慶が何も言わないことを気に掛けて尋ねた。
「そんなこと。どちらでもかまいません」
 お慶は、ローデンと祝言を挙げたことだけで幸せだった。それからのことは考えていなかった。形などどうでも良いと思った。
 ローデンは、少し考えていたが、「分かりました。養子にさせてください」と言って、順斎に頭を下げた。
「よろしいのですか!?」
 ローデンの言葉に一番驚いたのは、お慶だった。
「はい。私は、この時代に来る前から考えていました。これでも、日本を愛しているつもりです。この国に、骨を埋めるつもりでいます」
 ローデンは、そう言ったが他にも理由があった。これ以上、万次郎に迷惑をかけるわけにはいかない。アメリカ国籍のままだと、フェアヘーブンに照会が何度も行く可能性もあると考えた。
「分かりました」
 万次郎は、そう言ってから、イーベン・ドールに英語で伝えた。

 ローデンは、晴れて? 日本人になることになった。日本の名前は、お慶の案を受け入れて、苗字のローデンから取って露伝(ロデン)とすることにした。松山露伝という日本人が誕生したのだ。

 露伝となったローデンとお慶の新婚生活は、何事もなく過ぎて行った。ローデンが幕末に戻って二月経った11月22日を過ぎても、ローデンは幕末にいた。暦が12月に変わっても、ローデンには、何事も起こらない平穏な日々が続いた。
 お慶は、相変わらずローデンの講義を受けていた。斉藤も、時間の許す限りお慶と一緒にローデンの講義を受けていた。
 留吉は、読み書きそろばん程度をマスターしていた。
 世の中は、吉田 松陰の死罪などに代表される安政の大獄が続いていた。
 順斎は、死罪や切腹という情報がもたらされる度に心を痛めた。が、井伊直弼を支持する気持ちに変わりはなかった。
 そんな世情に、順斎の心は痛んだ。有為な人物が次々と亡くなっていくことを悼むと共に、直弼を案じる気持ちが強くなってきた。
 順斎やローデンそれにお慶の気持ちとは裏腹に、無常にも時はいつものように流れていた。

 12月も後半に入り、19日になっていた。ローデンは、お慶と斉藤に対して講義をしていた。順斎は、二人の後ろで講義を聞いていた。その時に、直弼からの使いがやって来た。
 応対に出た順斎は、暫くすると戻ってきた。
「父上。如何なされました?」
 複雑な順斎の顔色に気づいたお慶は、心配そうな顔になり尋ねた。
ローデンも気になり、順斎を見た。斉藤は、異様な雰囲気にただならぬ気配を感じて自然と順斎を見てしまった。
「いや。明日、直弼様のお屋敷に呼ばれた」
 順斎は、直弼の使いの用件を伝えた。
「気がかりなことでも、あるのですか?」
 斉藤は、経緯が分からず尋ねてしまった。
 順斎は、少し逡巡してから、「実は、直弼様のお命が危ないのです」と、斉藤に真実を告げることにした。
「まさか?」
 斉藤は、驚いてローデンの顔を見た。
 ローデンは無言で頷いて、「未来では、誰でも知っています。来年の三月三日に襲撃されます」と、具体的な日にちを言った。順斎が打ち明けたので、ローデンも下手に隠さない方がいいと思った。
「それは、事実ですよね。つまり、何も手立てを講じなければ、来年の三月三日に井伊様は、襲撃されると…」
 斉藤は、納得したが、「では、何故お教えしないので…」と、そこまで言って納得した顔になった。歴史の重みを感じたからだ。
「いえ。ご忠告は致しました」
 順斎は、ローデンが直弼に告げた時の事を思い返した。が、「しかし、まだ起きていないことは、情報の一つにしか過ぎないのです」と言って、顔を曇らせた。
 斉藤は、それ以上何も言えなくなった。さすがに、ローデンが未来から来たから知っているとは口が裂けても言えないだろう。
「私に…。私に出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」
 斉藤は、順斎に向って頭を下げた。その日は講義どころではなく、講義は取りやめとなった。
 ローデンは順斎に、「未来に戻ることになると思いますが、次に来るときは詳しい内容を調べておきます」と、言った。事実ローデンが知っている桜田門外の変は、教科書に毛が生えた程度だ。詳しいことを調べておいた方が、万が一に備えることも出来ると思った。

 その日の夜。夜が更けて、ローデンたちは寝ることにしたが、お慶は布団の中から、「明日は、直弼様のお屋敷ですね」と、緊張した声を出した。
「そうだな。しかし、父上の忠告を聞かれるかどうか…。それを思うと…」
 ローデンは、口ごもってしまった。それに、幕末に来てから三ヶ月近くになっている。いつ、未来に戻ってもおかしくはない。そのことも気がかりの一つだった。
 父上は、そのことも充分ご存知であろう。午後二時いや八つに気をつけていればすむことである。と、思い直した。
「今から、案じていても仕方ありません」
「そうだな。今日は、もう休もう」
 ローデンは、そう言って眼を瞑った。

「ローデン!」
 山本は、ローデンを睨みつけて、「何だ!? その格好は?」と、不思議な光景に驚いた。
 ローデンは、布団と一緒に戻ってきた。しかも、誰かと一緒に一つの布団で寝ている。山本の声に気が付いたもう一人が山本の方に顔を向けた。眼が合った山本は、「お慶さん…!?」と、素っとん狂な声を上げた。
「夫婦が、一緒に寝るのは当たり前だろ」
 ローデンは、体を起こして迷惑そうな顔で答えた。お慶も体を起こすと襟を正した。
「夫婦?」
 山本は、二人を交互に見て、「お慶さん、本当ですか?」と、ローデンではなくお慶に尋ねた。
「はい」
 お慶は、少し俯いて恥ずかしそうに答えた。
「まさか? 今日が約束の日か?」
 ローデンは、複雑な顔をした。
 山本は、意外な展開に戸惑って、「今日が約束の、9月29日だが…」と、ローデンの問いかけにそのまま答えた。
「何時だ?」
「午後二時ちょうど。約束の時間だ」
 山本は答えたが、ローデンが真昼間から布団に入っているのが不思議に思えた。
「もう暮れ六つはとっくに過ぎている。俺の時計は、11時過ぎだ」
 ローデンは、複雑な顔で時計を山本に向けて、「時間までずれてしまったのか?」と、呟いた。
「幕末は、いつだったんだ?」
 山本は、恐る恐る尋ねた。
「まだ明け六つにはなっていないので、12月19日です」
 お慶は、ローデンの代わりに答えた。江戸時代は、明け六つ。つまり、夜明けの時間が一日の初めだった。
「明日は、直弼様のお屋敷に行く予定だったのに…」
 ローデンは、慌てだした。
「なおすけさま…?」
 山本は、ローデンの言葉を繰り返しながら少し考えていたが、「大老の井伊直弼じゃないよな」と、念のためにローデンに尋ねた。が、万次郎と知り合いになったローデンが大老と知り合いになった可能性が頭をよぎった。
「おまえの言う通り、井伊直弼様だ」
 ローデンは答えたが、「明日父上と直弼様のお屋敷に伺って、ご忠告する予定だったのに…」と、悔しそうな顔になった。
「桜田門外の変のことを言ってるのか?」
 山本は、まさか? と、思いながら尋ねた。ローデンは、無言で頭を縦に振った。
「それは、歴史的事実だぞ」
 山本は、ローデンがまた何か厄介なことに首を突っ込んでしまったと思った。それに、歴史的事実である。ローデンが何をしたところで歴史が変わるとは思えない。いや、歴史を変えてはいけない。
「歴史的事実が何だ! 俺は、自分が正しいと思うことをする!」
 ローデンは、山本を睨みつけて怒鳴ったが、まずいと思ったのか少し語気を和らげて、「そのどこがいけない? 直弼様は、日本にとって大切な方なんだ…」と、情けない顔で付け加えた。
「おまえは、大老にじかに会ったのか?」
 山本は、ローデンの態度に驚いて尋ねた。
 歴史を変える事の危険性を知っているはずのローデンが、歴史を変えようとしている。大老と実際に会ったのだろう。が、確かめずにはいられない。
「会った。父上の計らいで、二時間ほど自由に話すことが出来た」
 ローデンは、言葉を切ってまっすぐに山本を見た。
「そうか…」
 山本はローデンの視線を受け止めて、ローデンの真意を確かめようとした。ローデンは本気だ。俺が止めたところで聞きはしないだろう。だが、歴史が変わったら? と、思うと複雑な気持ちになった。まだ、徳川幕府のままか? そんなことはないだろう。が、どんな形で明治政府が発足するのだろうか? 今の歴史よりまともな明治政府になった可能性も否定できない。
「どうした? 何を考えている?」
 ローデンは山本が沈黙したことで不安になったが、自分の想いだけは知ってほしいと、「俺は、とんでもないことをしようとしているかも知れない。それは承知している。歴史が変わるか変わらないか、そんな事はどうでもいい。ただ、あの人物は殺したくないんだ。俺は、そう思ったから守ろうとした。ただそれだけだ」と、言葉をつないだ。山本に理解してもらうつもりは無かったし、理解してもらえるとも思えなかった。
「おまえの気持ちは、分かった」
 山本は、いつもと違う真剣な顔でローデンを見つめて、「それに、大老が殺されなくても、桜田門外の変が起きたことで、更迭される可能性もある。つまり、大老が生きていても歴史の変化は少ないかもしれない」と、考えたことをローデンに語った。
「そう思ってくれるか?」
 ローデンは、嬉しくなった。
「ああ」
 山本は、頷いたが、「しかし、歴史が簡単に変わるとは思えない」と、持論は変えなかった。
「でも、やらせてくれるのだろ」
 ローデンは、自分が何を誰に確認しているのかおかしくなった。歴史を変える事を、誰に確認しても始まらない。学者でも政治家でも同じ事だ。自分が歴史を変えたら、もうとっくに歴史は、変わっているのだから。
「おまえを、止めることは諦めた。しかし、無茶はするなよ。いくら知り合いだとしても、幕末では身分が違いすぎる」
 山本は、ローデンの身を案じた。
「ありがとう」
 ローデンは、心から礼を言った。
「まあ、歴史が変わったら…」
 山本は、そこまで言って大声で笑い出した。
「どうした?」
 ローデンは、笑い出した山本を不思議な眼で見た。
「歴史が変わったら、変わった歴史が事実になってしまう。歴史が変わったとは、誰も気が付かない。解る筈がないんだ」
 山本は、ローデンに向って、「だから、誰にも気兼ねは要らない。おまえの好きにしろ」と言った。
 お慶は、山本が歴史を変える事に同意してくれたことにほっとした。難しいことは分からないが、ローデンが何も気にしないで井伊様を助けることが出来るとほっとした。
「難しいことは分からないが、好きにさせてもらう」
「俺も、今まで気が付かなかった」
 山本は、そこまで言ってから少し落ち着いたのか、「そんなことより、いつ一緒になった!?」と、興味津々という顔になった。
「10月25日だ」
ローデンは、あることに気がつき、「安政六年の」と、山本のために付け加えた。
「そうか…」
 山本は、そう言ったが、「正式な結婚か?」と尋ねた。
「正式だとも」
「でも、アメリカなら出生証明書がいるだろう」
「それは、万次郎さんが計らってくれた。それに俺は、婿養子になった」
「婿養子? おまえが? 日本人になったのか?」
 山本は、目を白黒させた。
「はい。松山露伝と名乗っています」
 お慶は、ローデンの代わりに答えた。
「ロ・デ・ン? 苗字に似ているが、どんな字を書くんだ?」
 山本は、呆気にとられた。
「ロシアの露に伝えると書いて、露伝と読みます。私が考えたのです。いい名でしょ」
 お慶は、山本のために説明した。が、自慢することも忘れていなかった。
「ところで、すぐにでも戻りたいんだ。その前に、桜田門外の変の資料がいる」
 ローデンはそう言ってから、山本に自分の服を取りに行ってもらうよう頼んだ。
 せっかく未来に来たお慶には、短い間に未来を見せたいと言って、着るものを買ってくるように頼んだ。
「これで、いいだろう」
 ローデンは、懐から財布を取り出して山本に渡した。
 山本は、財布を受け取ると中を覗いて驚いて、「これは…」とローデンを驚きの眼で見ながら、「寝床まで持っていたのか?」と、尋ねた。
「念のためだ。いつ呼び戻されてもいいように持っていたんだが、夜中になるとは思ってもいなかった」
 ローデンは、答えてから、「国に持って帰るから綺麗な小判に換えてくれと言ったら、綺麗な小判に換えてくれた。それなら、高く売れるだろう」と、言って笑った。
「そうだな。これを売っ払って銀座に繰り出そう」
 山本は、無邪気に喜びだした。
「おい。こう見えても俺は新婚だぞ」
 ローデンは、呆れた顔をした。
「そうだったな…。すまん」
 山本は、あまり気にしていないような顔でそのまま部屋を出て行った。が、すぐに戻って来ると雑然とした自分の机で何かを探し始めた。
「何を探しているんだ?」
 ローデンの問いに山本は答えず、引き出しの奥から荷造り用のビニール紐を取り出して、「宅配便が届いたときに取っておいたんだ」と言いながら、紐の長さを見て、「これでいいだろう」と言った。
「何をするつもりだ?」
 ローデンは、山本の持っている紐を見ながら尋ねた。
「お慶さん立ってくれますか?」
 山本の言葉に、お慶は素直に応じた。
「ちょっと失礼」と言って、山本はお慶の腰に手を回して、後ろからひもを廻して、「サイズを測るんだ」とローデンに向かって言った。
 お慶は、山本の行動を呆気にとられながらも見守るしかなかった。
「そうか。別に和服でもいいんだけどな。和服なら多少はごまかせる」
「俺に、そんなセンスがあると思っているのか?」
 山本は、逆に尋ねた。
「思ってない。が…。和服だろうが洋服だろうが同じじゃないか?」
「和服は高いし、せっかく未来に来たんだ。洋服を着てもらいたいと思っただけだ」
 山本は、マジックでひもに印をつけてからお慶の前に立って、お慶の身長を確かめて、「俺の目の高さだな」と、一人で納得した。
「まさか? その紐を持っていくんじゃないだろうな」
「寸法を測りたいんだが、メジャーがないんだ」
 山本は、事も無げに言ってから、お慶の姿を見て、「何とかなるだろう」と一人で納得しながら部屋を出て行った。

 お慶は、ローデンの後から山本の研究室に足を踏み入れて、「物置ですか?」と眼を白黒させた。
「山本の研究室…。つまり、学問をする部屋だ」
 ローデンは、答えてから、「あいつは、頭はいいが掃除は下手なんだ」と、山本のために言い訳した。
「なら、山本様が戻るまで部屋を片付けましょう」
 お慶は、ソファのテーブルの上に置いてあった書類の山に手をかけた。
 ローデンは、お慶の手を優しく掴んで、「やめといたほうがいい。下手に動かすと山本が困る」と言った。
「?」
 お慶は、不審な顔をローデンに向けた。
「勝手に片付けると、どこに何があるか分からなくなると言って前に怒られたんだ」
「そんなものですか?」
 お慶は、呆れた顔でもう一度部屋を見回した。
 ローデンは、山本が戻るまで、お慶が、外に出ても困らないように未来の話をお慶に一通りすることにした。

 山本は、二時間ほどして戻ってきた。
 山本は、「女性の買い物って結構大変だな」と言って大きな二つの紙袋を床に置いた。
 お慶は、ソファーから立ち上がると、「お手数をかけました」と、素直に礼を言って頭を深々と下げた。
「いやあ。そんなことはないです。そんな格好で外を歩く訳にもいきませんから」
 山本の言葉で、お慶は改めて自分が寝巻き姿だという事を思い知った。
「この紐を見せたらおかしな顔をされた」
 山本は、お慶のウエストを測った紐をまだ持っていた。
「どんな服を買ってきたんだ?」
 ローデンは、少し後悔しながら尋ねた。せっかく未来に来たんだ。お慶に、おしゃれをさせてやりたいと思っていたところだった。
「実は、お慶さんぐらいの美人がお客にいたんだ。その格好が垢抜けていたから、その美人みたいな服をくれと言った」
 山本は、胸を張ったが、「そんなことより、着替えを手伝ったらどうだ」と、付け加えた。
「着替えって?」
「下着だって入ってるんだ。お慶さんが一人で着られる訳ないじゃないか」
「…」
 ローデンは、呆気に取られてから顔が赤くなった。
「何なら、俺が手伝ってもいいんだが…」
 山本は、わざといやらしそうな顔をした。
「お慶。着替えるぞ」
 ローデンは、わざとぶっきらぼうにお慶を呼んだ。
「下着を選ぶのも大変だったんだぞ。念のために二種類買ってきた。合わなければ外へ出てから買い換えればいい」
山本は、真面目な顔になった。
 ローデンは、着替えのためにお慶を連れてタイムスリップ装置のある部屋に入って行ったが、「覗くなよ」と、一言付け加えることも忘れていなかった。
 お慶の着替えは、初めてなので手間取ったのか三十分ほど掛かってしまった。

 着替えを済ませて出てきたお慶を見て山本は、「綺麗だ…」と呟いて、ローデンの厳しい視線を感じて、「これならどこに出しても恥ずかしくない。だれも、昔の人間だと思わない」と慌てて一言付け加えた。お慶は、まんざらでもない顔をした。
「よく言うよ。日本人なら昔も今も違わないだろう」
 ローデンは、呆れた。
「そうでもないんだ。顔にしても、体型にしても今とはぜんぜん違う」
「そんなもんかな」
 ローデンはそう言いながらも、長屋のおかみさんや他のこれまで出会った女性の顔を思い浮かべた。山本に言われて、今の女性と顔立ちが少し違うことに初めて気がついた。
 山本は、腕を組んでお慶をまじまじと見ていた。が、「まあいいだろう」と、自分に納得させるように言った。
「何がいいんだ?」
「服に比べて、髪が寂しいような気がしただけだ」
「そんなものか? ポニーテールのようでいいと思うんだが」
「そう言われれば…」
 山本は、答えながらお慶を見て、「まあ、日本髪ではないからいいか」と、勝手に納得していた。
 お慶は、二人の会話をただ聞いているしかなかった。が、未来に来るということは、大変なことだと思い始めていた。それに、未来の下着と呼ばれる物をつけて違和感を感じていた。が、二人のために我慢することにした。

 時計を見ると、五時近くなっていた。次の日に資料を集めることにして、その日は山本も加わって東京見物に出かけることにした。お慶が一番驚いたのは、東京スカイツリーと東京タワーだった。ローデンが前に見せたビデオには写っていなかったためか、浅草寺の五重塔より高い建物があるとは思っていなかったのだろう。お慶は、登ることになった東京タワーの下から上を見上げて恐ろしそうな顔になった。
「あんな高いところ…」と、怖がるお慶を山本は面白がって展望台まで連れて行くことにした。
 山本は、乗ったエレベーターでお慶が恐ろしさのあまりしゃがみ込みそうなのを必死で立たせて、ローデンにしがみ付かせた。山本は、「高所恐怖症って言ってもこんなにひどいとは思わなかった」と、わざと他の乗客に聞こえるように言って連れてきたことを少し後悔した。
「おまえが面白がって連れてくるからだ」
 ローデンは、仕方なしに山本に調子を合わせた。
「だいじょうぶです」
 お慶は、無理をして気丈に答えたが、持ち前の好奇心が頭をもたげてきた。もう二度と未来に来ることができるとは思えない。こうなったらできるだけ未来のことを知っておきたい気持ちになった。それでもお慶は、恐怖で震えていた。
 エレベーターが展望台に着くとお慶は、ローデンにしがみ付いたまま意を決したように展望台の中に足を踏み入れた。が、眼下に広がる夜景が目に入ると、「なんて美しいんでしょう」と、さっきまでの恐怖が嘘のようにはしゃぎだした。
「無理して、連れてきた甲斐があったじゃないか」
 山本は、ローデンに得意げな顔で言った。言葉とは裏腹に、大事にならなかったことにほっと胸を撫で下ろした。お慶のはしゃいでいる姿を見てまるで子どもだ。と思ったが、生まれて初めて見る光景に驚かない方がおかしいと思い直した。
「ご迷惑をおかけします。田舎から出てきたもので」
 山本は、訝しげにお慶の姿を見る見物客に気がついて愛想良く勝手に言い訳を始めた。ローデンは、慌てて山本に小声で、「おい。かえって怪しまれるじゃないか」と言った。
 山本は、余計なことを言ったと目だけでローデンに謝った。

 結局その日は東京タワーから降りると山本を連れて家に帰る事にした。お慶が思った以上に疲れているように思われたことと、寝ている途中でタイムスリップしたことで今日はゆっくり休ませてやりたかったからだ。
 途中コンビニに寄って、酒とつまみを買った。お慶は、コンビニの明るすぎる照明に驚いていた。
 ローデンのマンションに戻ってからも、お慶の驚く光景が待っていた。
 明るすぎる照明やエアコンなど家にある電化製品やガスコンロなどすべてに驚いていた。少し慣れてくると、珍しそうに眺めだした。
 お慶は、電子レンジで回っている焼き鳥を珍しそうに眺めていた。ローデンは、コンビニで買ったつまみをそのままテーブルの上においてお慶を呼んだ。
 お慶がローデンの横の椅子に座ると、電子レンジがチンと鳴った。ローデンは、立ち上がって焼き鳥を持って戻ってきた。
 お慶は、場違いなところに来たような顔でローデンを見ているしかなかった。
「どうです? 驚いたでしょう」
 山本は、興味津々と言う顔でお慶に尋ねた。
「もう、何がなんだか…」
 お慶は、戸惑いながらも正直に答えた。
「とりあえずどうぞ」
 山本は、何のためらいもなく缶ビールをお慶の前に差し出した。
「それは、何という飲み物ですか?」
「初めてですよね。ビールという飲み物です」
 山本は、改めてお慶が幕末からやってきた人間だと再認識した。
「お慶は、俺がもって行ったウイスキーしか飲んだことがないんだ」
 ローデンは、山本に説明した後に、「飲んでみるか?」とお慶に尋ねた。
「そうですね。せっかくだから頂きます」
 お慶は、グラスを持った。
 山本が、お慶のグラスにビールを注いだ。
「冷たい!?」
 お慶は、驚いたが必死でグラスを落とさないよう握っていた。
「冬でもビールは、冷やして飲んだほうがおいしいんです」
 山本は、お慶のために説明した。が、どこまで理解してもらえるか分からなかった。
「そうですか…」
 お慶は、そういうと恐る恐るビールを口に持って行って一口飲んだ。
「苦い! お酒とちがって辛くないんですね」
「おい。酒って辛かったか?」
 山本は、自分のグラスにビールを注ぎながらローデンに尋ねた。
「前に持って帰った酒を飲んだだろ」
「ああ。辛口だった…。って、昔は、甘口の酒はなかったのか?」
「さあ? しかし、俺が飲んだ酒は、みんな辛口だった」
「そうか」
 山本は、納得してから、「お土産のお酒ありがとうございました。とてもおいしかったです」と、思い出したようにお慶に礼を言った。
 それから、酔いも手伝ってか和んだ雰囲気で会話が弾んだ。山本は、二人に気を使ってか直弼のことは話題にしなかった。話題は、もっぱらお慶にとって未来の今いる時代の話になった。
 お慶は、数時間の間に垣間見た未来の姿に興奮していた。

 お慶の未来滞在は、あっという間に過ぎていった。次の日の一日ローデンは、国会図書館や自宅のパソコンからインターネットで桜田門外の変の資料を取得して纏めていた。お慶は、初めて見るパソコンを驚きの目で見つめていた。が、ローデンに迷惑がかかると悪いと思ったのかリビングでテレビを見始めた。
 お慶は、テレビのニュースという番組が何の制約もなく、記者(瓦版屋?)たちが政治家(大老や老中など幕閣)に接して対等いや時には詰め寄る姿を見て、未来の日本が羨ましくなった。
 お慶の未来での滞在の二泊はあっという間に過ぎ去った。

 ローデンは、約束の時間に昔の背広姿で現れた。
「ローデン! 引っ越しでもするつもりか?」
 山本は、ローデンが大きな段ボール箱二つを台車に乗せて研究室に運び込むのを見ながら呆れた声を上げた。ローデンを茶化そういう気持ちも交じっていた。箱の一つには、『精密機械。取り扱い注意』と書かれてあるのに気が付いた。もう一つの箱には、『服』と、書かれてあった。
「そんなところだ」
 ローデンは、段ボールを見ながら、「ソーラーパネルとパソコンそれに蓄電池が入っているから、幕末でもパソコンが使える。もっとも、インターネットは我慢するしかないが」と言って笑った。
 そんなところとは? ローデンは、幕末にパソコンを持って行って何をするつもりだ? まさか本気で引っ越しするつもりなのだろうか? 現在と幕末をさまようまではまだ時間があるというのに…。山本は、ローデンの持ってきた段ボールを怪訝そうな顔で見た。
「もう帰るつもりはない。戻さないでくれ」
 ローデンは、真剣な顔になり山本に頼んだが、「もっとも、勝手に現在と幕末を行ったり来たりするんだったな」と、苦笑いした。
「ちょっと待ってくれ」
 山本は、そう言うなり腕組みをして何かを考え始めたようだ。
 ローデンは、山本の真剣な顔を見て、何を待つんだ? という言葉を飲み込んで山本の次の言葉を待つことにした。
「あなた、本当にいいのですか?」
 そんな二人のやりとりを知らないお慶が、研究室に入ってきた。お慶は、山本が買ってきてくれた服を着ていた。
 その時山本は笑い出した。
「どうしたんだ?」
 今度は、ローデンが怪訝な顔をする番だった。お慶は、二人の顔を交互に見ながら自分が入り込むすきのない男と男の関係を感じ取って、静観するしかなかった。
「悪い、悪い」
山本は、言葉とは裏腹に、悪びれる様子もなく、「お前の選択は、正しいと思っただけだ」と、訳の分からない説明をした。
「俺の選択が正しいとは?」
 ローデンは、呆気にとられておうむ返しに尋ねてしまった。
「もしお前を、現在に戻さなければ、現在と幕末を勝手に行ったり来たりすることがないかもしれない」
 山本は、複雑な顔でローデンに答えた。
「本当か!?」
 ローデンは、驚いて山本の顔をまざまざと見た。が、嬉しくなった。幕末に…。いや、お慶と一緒にこれからの人生を過ごそうと決めていた。一つ気がかりだったのは、知らないうちに突然幕末と現在を行ったり来たりするのは愉快なことではない。お慶や義父に、迷惑をかける可能性もある。お慶の顔色も変わった。
「たぶんそうだろう。確証はないが、これから調べてみる」
 山本は、少し弱気になった。が、「カップラーメンは、戻ってこなかった。だから、お前も時間をずらして呼び戻せなくしてしまえば…」と確信が持てない弱気な顔で、付け加えた。
「俺は、カップラーメン並みか?」
 ローデンは、いつものように憎まれ口を言ったが、山本の言葉で救われた気がした。
「そうだ。カップラーメンにできておまえにできないことはないだろう」
山本は、おかしな表現をした。
「調べて分かったら、便りをくれ」
「幕末にか?」
 山本は、ローデンの言葉に怪訝な顔になった。どうやって便りを送るのだ?
「ビデオに撮って同じ場所にタイムスリップさせれば、受け取ることができる。電源はあるから、パソコンでも、ビデオでも使えるから心配するな。それに、送ってから三日後に呼び戻せば、俺の返事もおまえに送ることができる」
「そうか。その手があった」
 山本は、ローデンの言葉に救われた気がした。が、これがローデンとの永遠の別れになるという事実を知ってローデンの顔を改めてまっすぐに見つめた。
「手紙は止めてくれ。誰かの手に渡ったら、面倒なことになる。だから、CDかDVDにしてくれれば、俺しか内容を見れない」
「そうする。確証がつかめたらさっそく連絡する」
 山本は、視線を落として答えた。が、もう時間なのだろう。ローデンは何も言わないが、時間がずれたことで、少しでも早く戻りたい。そんな言葉を言いたそうな顔をしている。山本は、無言でタイムスリップ装置のある部屋に向かった。ローデンも、無言で台車に荷物を乗せたまま山本の後に従った。お慶も、二人の今までにない顔に何も言えず後からついてくる。
「お別れだな」
 山本は改まった顔になり、タイムスリップ装置に立った二人を交互に見ながらローデンに手を差し出した。
 ローデンは、無言で山本の手を掴むとしっかりと握って、「ああ。もう二度と会えないだろう」と、暗い顔になった。
「すべて、俺の責任だ」
 山本は、ローデンから手を離すと、「すまない」と言って、頭を深々と下げた。
 ローデンは、お慶を見やってから、「よせやい。お前らしくない。お慶と出会えてお前に感謝しているくらいだ」と、努めて明るい声を出した。いつもの茶目っ気たっぷりな顔だ。
「ありがとう」
 山本は、他に適当な言葉が浮かばない自分を恥じた。
 無機質なタイムスリップ装置の起動は、山本とローデンの想いをよそに一段と音を増幅させた。
「無茶はするな! お慶さんを幸せにしてやってくれ」
 ローデンとお慶が最後に聞いた、山本の言葉だった。
「ありがとう」
 ローデンは、最後に山本に礼を言った。
 山本は、ローデンとお慶の消え去った後を複雑な顔で眺めた。もっと前に気が付いていたら、こんな慌ただしい別れではなくゆっくりと別れを惜しむことができたのではないか? しかし、いくら別れを惜しむ時間があっても同じことかもしれない。いや、もっと悲しみが増幅されるような気になった。これでいのかもしれない。と、思い直すとパソコンの前に座ってローデンが現在と幕末とをさ迷わないか確認する作業を始めた。それが、親友に対する最後の友情の証のように。

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(戻った時は、桜田門外の変当日だった)近日公開

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