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ローデン准教授の歴史への挑戦 8.惜別

(戻った時は、桜田門外の変当日だった)

 斉藤は、ローデンの部屋の壁にもたれ掛かりながら、ローデンの帰りをあても無く待つしかなかった。安政7年三月三日の夜明けまで、あと半日もない。夜の九つ(夜の12時)の鐘を聞いたから、あと五刻(10時間程度)も経てば直弼の命はなくなるかも知れない。
 留吉は、斉藤の隣であぐらをかいて壁にもたれながらうとうとしていた。順斎は、正座をしながら読書をしていたが、やはり気がかりなのか時折部屋の中央を見ていた。
「本当に間に合うのでしょうか?」
 斉藤は、留吉を起こさないように静かな声で順斎に尋ねた。
「それは分かりませんが、露伝を信じるしかないのです」
 順斎は、戻ってくるであろう部屋の中央を見ながら溜息をついた。井伊様には、全てを打ち明けた。本来なら安心していいところであるが、実際にはローデンが戻らなければ細かい事情が聞けない。
 昨年の12月19日の夜、お慶と二人夜具ともども未来に行ってしまったのだろう。朝目覚めたときには二人の姿はどこにも無かった。あれから二ヵ月半になるが、まだ戻ってこない。
 斉藤と留吉が心配して来てくれたが、露伝たちが戻ってくる確証は順斎にも無かった。少なくとも、急いで戻ってくるはずだと淡い期待を持つことしか、順斎には残されていなかった。
 露伝が戻らなかったときは、斉藤と留吉に様子を見に行ってもらう事にした。が、二人では少し心もとなかった。

「そろそろまいりませんと間に合いません」
 斉藤は、明け六つの鐘を聞きながら順斎に告げた。
 順斎は、珍しく溜息をついてローデンが戻るであろう部屋の真ん中を見てゆっくりと腕を組んだ。が、「もう少し待ってみましょう」とあえて静かな口調で言った。
 斉藤は逸る気持ちを抑え、「分かりました。五つ(午前8時ごろ)まで、待つことにします」と、同意した。急げば半時ほどでつける距離だが、井伊様に襲撃のことを説明する時間がほしかった。しかし、ローデンが戻ってこなければ説明することもできないだろう。留吉と、様子を見に行く事しかできない。
 留吉は、壁にもたれたまま起きる気配がなかった。
 順斎と斉藤には重苦しい時間が無為に過ぎて行くような気がした。先のことを知っていても何もできない自分が歯がゆかった。が、ここまでくればローデンが戻ることを祈るしかない。長いような短いような時間が、過ぎて行く。
 二人の想いとは裏腹に、五つの鐘が聞こえ始めた。
 その時、部屋の中心が光りだした。
 まさか…。
 斉藤も光に気がつき、「帰って、き・た?」と、期待を膨らませた。
 光はさらに輝きを増し、閃光とともに突然ローデンとお慶が布団の上に立って現れた。二人は、タイムスリップしたときと同じ布団の上に立っていた。ローデンは、前に来たようにこの時代の背広姿だった。お慶は、今まで見たこともない着物を着ていた。布団の端には、大きな箱が二つあった。ローデンは、昨日書店から買った本やインターネットで調べた資料を手に持っていた。
「露伝殿!」
 斉藤は、喜びのあまり上ずった声を上げた。これは運命なのか? 斉藤は、運命のようなものを感じた。が、時間がない。しかし、急げば間に合うはずだ。
「どうしたんです?」
 留吉は、斉藤の声に気がついて大きなあくびをしながら目をあけてローデンに気がついて、「ローデンさん!」と、驚きの声を上げた。
 ローデンは、「どうしました?」と、自分の部屋に、三人が集まっていることを訝しがった。まさか?
「本日が、三月三日です」
 斉藤は、切羽詰った声でローデンに告げた。
「そんな…。未来では、二日しか経っておりません。急いで帰ってきたのに」
 お慶は愕然としたが、日差しでまだ夜が明けてからそんなに経っていないと確信して、「まだ間に合うのではありませんか?」と、斉藤を睨みつけるようにして尋ねた。
「はい。五つ(8時ごろ)になったばかりです。あと半時ほど猶予があるかと…」
 斉藤は、お慶に告げるとローデンに向って、「馬を用意しています。まずは、井伊様のお屋敷に」と言って立ち上がった。

 ローデンは、乗り付けない馬に乗っていくしか方法がない。外は、インターネットで調べたように昨夜降った雪がまだ積もっていた。
 馬をみれば、ローデンが思っていたような馬ではなくポニーを一回り大きくした程度しかない。馬と言えば競馬を連想するが、在来種の日本の馬は農耕馬として使われており、競馬馬のスマートな恰好ではなくずんぐりとしていた。それでも乗り付けない馬に乗るのは大変だった。斉藤と留吉に手伝ってもらい、やっとのことで騎乗の人になると見送りに出てきたお慶と順斎に向かって、「行ってきます」と声をかけた。
「行ってらっしゃい」
 お慶は、平静を装ってローデンに声をかけた。いくら直弼と面識があるとはいえ、一度だけである。登城の直前にそんなローデンが現れたら、直弼に会う前に無礼打ちになる可能性も捨てきれない。それでもローデンを止める気にはなれなかった。最悪の場合は、これが今生の別れになるかもしれない。
 順斎は、この男にお慶を嫁がせたことが正しかったと悟った。しかし、ローデンの対応いかんによっては、ローデンに危害が及ぶ可能性も捨てきれない。が、今はローデンを信じるしかない。順斎は、「気を付けてな」と一言だけ声をかけた。自分が同行することも考えたが、今の体力では返ってローデンたちの足手まといになる。今からでは、間に合わないことも考えられた。順斎は、次の世代のローデンや斉藤たちに後を託す時が来たことを悟った。

一時間ほど乗り付けない馬に揺られて、やっとのことで井伊家の屋敷の門が見えるところまでたどり着いた。インターネットで調べたように昨夜降った雪が積もっていた。時計を見ながらまだ時間はある。と、自分に言い聞かせた。留吉は、そんな雪の中を走りづめである。贅沢など言っている場合ではない。ローデンは、留吉を見た。留吉は、ずっと小走りに走っていたため息も絶え絶えであった。斉藤は、間に合ったとほっと胸をなでおろした。屋敷の門までは、百メートルほどだろうか。馬で門の前まで乗り付ける訳には行かない。
 斉藤は、馬から降りてローデンのそばまで寄り、「時間がありません。さ、私の肩につかまって」と、ローデンのために肩を差し出した。
「ありがとうございます」
 ローデンは、斉藤の肩につかまり留吉の助けを借りてようやく馬から降りることができた。
「留吉さん。後は、我々が行きます。あなたは、ここで休んでいてください」
 ローデンは、留吉に優しい声をかけた。その時、門は開いた。
「遅かったか!?」
 ローデンは、門が開いたのを見て絶望的な顔をした。
「まだ諦めるのは、速いですよ」
 斉藤は、何か思いつめたような顔をしてそのまま駆け出した。
 ローデンは、呆気にとられた。いくら面識のある外国人だとはいっても、幕末である。斉藤は、面識すらない。いったい何をしようとしているのだろうか。
 斉藤は、門の近くまで走って行くとゆっくりとした足取りになり門の前でいきなり雪が積もっている地面にひれ伏した。
 ローデンは、斉藤を見て最後の望みが残されていることを知った。
「留吉さん。あなたに、迷惑がかかると大変だ。何があっても、ここでじっとしていて下さい」
 ローデンは、優しい口調で言った。
「しかし、ローデンさんは、未来の…」
 留吉は、ローデンを見てそれ以上何もいえなくなった。この人は、斉藤さんが何をしようとしているか知っていて斉藤さんの後を追うつもりなんだろう。
「斉藤さんだけでは、無理です。見殺しにはできません」
「分かりやした」
「後のことは、頼みました」
 ローデンは、留吉に言い残すと斉藤の後を追った。
 留吉は、何もできずにそのまま突っ立っているしかなかった。祈るような気持ちで、二人の無事を案じていた。
 ローデンは、息せき切って斉藤の隣まで走ってくると、斉藤に倣い地面にひれ伏した。雪の冷たい感触が足に染み込んでくる。しかし、事の重大さに比べれば些細なことだ。斉藤は驚き、ローデンの顔をひれ伏したまま見た。ローデンは、斉藤と同じように地面にひれ伏していた。
 斉藤は、大老の籠が目の前を通り過ぎるときに直訴するつもりであった。緊張のため、胸は高鳴り心臓の鼓動が速くなっているのが自分でも分かる。斉藤は、ローデンに声をかけようと思ったものの、緊張のあまり声をかけることができなかった。
 自分一人なら、この場で無礼討ちにあったとしても仕方がない。しかし、ローデンが自分と行動を共にすることまでは、考えてもいなかった。
「斉藤さん。心配はしないでください。私がどうなろうとも、妻は判ってくれるはずです」
 ローデンは、小声で斉藤に告げた。
 ローデンさんは、私が何をしようとしているのか知っている。この先どうなるかも。斉藤は、自分がとった行動が浅はかだった事を悟った。
 しかしローデンさんは、私の行動を止めることなく、止むを得ないと思って行動を共にしてくれるのか? 斉藤は、喜びだけではなく感動すら感じた。
 その時行列の先頭が、門の外に出てきた。斉藤は、ひれ伏したまま目だけを行列に向け大老の籠が現れるのを待った。
 もうすぐだ。もうすぐに違いない。その時行列が止まった。
 まずい! 感づかれたのだろうか? ローデンも同じことを考えていた。犬死だけはしたくない。山本の言った歴史的事実だという言葉が、頭の中で増幅されていった。
 これが、運命というものだろうか? 斉藤さんや私が無礼討ちにあったとしても、桜田門外の変という大事件の陰で見向きもされないだろう。今までの苦労はいったいなんだったのだろうか?
 行列が、動く気配はなかった。思い過ごしだろうか? 誰かが呼ばれたのか、微かに足音がしたような気がした。現代と違い、草鞋履きである。単なる気のせいだろうか?
 斉藤は、口惜しさがこみ上げてきた。ここで死んでたまるか。大老に、一言忠告してからでも遅くないはずだ。しかし、行列が止まってから、何の変化も感じられない。いったい、何があったというのだろうか?
 暫くして行列は、何事もなかったかのように動き始めた。ローデンと斉藤は、ほっと胸をなでおろして大老の乗った籠が目の前に現れるのをじっと待った。
 籠は、まもなく二人の視界に入った。もうすぐ門を出て、我々の前に現れる。斉藤は、ローデンを巻き込んだことは気がかりだったものの籠に全神経を集中させることにした。ローデンも、同じ気持ちだった。
 留吉は、遠くから恐る恐る行列と行列の前にひれ伏している二人を見ていた。
 籠は、まもなく二人の近くまで近づいてきた。
 斉藤は、ローデンに目配せをした。今だ! ローデンは、斉藤に小さく頷いた。
 二人が顔を上げようとした時に、行列が止まった。
「遠慮などいらぬ。面を上げよ」
 籠の中から、大老の声がした。二人は、驚いて顔を見合わせた。機先を制された格好になった。
 この先、どうなるのだろうか? 斉藤は、そのまま成り行きを見守る他はなかった。
 籠は、地面に下ろされ家来が籠のそばまで急いで来ると二人を一瞥した後に恭しく籠の扉を開けた。
「ローデン殿、いや、松山露伝殿。見送り大儀である」
 大老は、真面目な顔でローデンに声をかけた。
「井伊様!」
 ローデンは、大老の計らいが嬉しかった。目から、熱いものが込み上げてきた。
 留吉は、その光景を目の当たりにして慌てて地面にひれ伏した。
「ご友人共々、早朝の見送り嬉しく思うぞ」
 大老は、笑顔を見せた。が、「これから登城ゆえ、ゆっくりとはできぬが…」と、名残惜しそうな顔になった。
「井伊様の…。井伊様の御命が…」
 ローデンは、子供のように泣きじゃくりながらやっとそこまで言った。
「その事なら、もう良い。順斎殿から、すべて聞いておる」
 大老は、事も無げに言った。
「この御行列は!?」
 ローデンは、大老の真意を測りかねた。すべてを知った上での、登城なのだろうか?
「まだ先の事は、判らぬではないか。わしは、天命に逆らわないことに決めたのじゃ。
 わしの命、少し永らえたところでこの国が良くなるとは限らぬ。おぬしたちの気持ちは、終生忘れぬ。体を大事にな。無茶はいけない」
 大老は、二人の危ない行動を諭すように言った。
「申し訳ございません。私が、軽はずみなことをして露伝殿を巻き込んだのです」
 斉藤は、大老の気持ちを察して正直に答えた。
「露伝殿。いい友を、持たれているようだ」
 大老は、優しいまなざしを斉藤にそれから遠くでひれ伏している留吉に向けた。
「はい。斉藤俊介と申しまして、蘭学を学んでおります」
 ローデンは、斉藤を紹介した。
「これからは、おぬし達のような人材が必要になる。老いぼれのためでなく、この国のために命をささげてほしい」
「もったいないお言葉」
 斉藤は、感極まってひれ伏した。
「そろそろ刻限じゃ。名残は惜しいが後は、田村から話しを聞くが良い」
 大老は、笑顔を見せた。
 これが日本人なのか? ローデンは、大老を見て自分がまったく異なった文化を持っていることに初めて気がついた。日本語を話し日本文化に憧れ、自分では日本のさまざまな文化を身につけたつもりであった。大老は、この先に待ち構えている現実を知っている。必ず死が訪れるのである。ローデンは、畏怖のようなものを感じた。日本人だからなのか? 立場がそうさせるのだろうか?
 大老は、田村を呼んだ。田村は、複雑な顔をしながら大老の元に駆けつけて来るとローデンの隣に座り地面にひれ伏して顔を少し上げた。
「田村。良いか? 順斎殿や露伝殿たちに、事の次第を説明して遣わせ」
 大老は、穏やかな口調で命じた。
「しかし…」
 田村は、口惜しそうな顔をした。
「余の命じゃ!」
 大老は、厳しい顔になり田村を一括した。
「ははあ」
 田村は、地面にひれ伏した。肩は震え、嗚咽を精一杯こらえていた。
「見送り大儀であった」
 大老の言葉を合図に、籠の扉は閉められた。
「井伊様、刀の…、刀の柄袋を…!」
 ローデンは、そこまで叫んだ。刀の柄袋とは、雨や雪などで濡れたり汚れたりするのを防ぐのが目的の物で、桜田門外の変では柄袋をつけていたために対応が遅れたとされる。直弼を止められないなら、せめて対応が遅れないようにと祈るようなローデンの想いからの叫びだった。
 ローデンの読んだ資料には、拳銃の発砲を襲撃の合図に使ったとあった。発砲は、空にではなく籠に向けられて直弼に命中してその時点で直弼は重傷を負ったと書かれてあった。その件はうやむやになり犯人たちも否定しているため真偽のほどは分からない。それが事実なら、拳銃の発砲音が聞こえた時点で直弼の命運は尽きたかもしれない。しかし、自分たちが直弼の籠を止めたことにより違った歴史になる可能性も捨てきれなかった。
 大老は、返事をしなかった。
 籠の扉が閉じられ、行列は何事もなかったように静かに動き出した。ローデンは、行列が野辺送り(なきがらを火葬場や埋葬地まで見送ること)の行列に見えた。行列は、昨夜降った季節外れの雪の上を確実に死に向かって動き出している。
 ローデンは、大老の言葉の重さを噛み締めた。もし、桜田門外の変が失敗していたら? 幕府は少し生き延びることが出来るかもしれない。しかし、明治時代はどのような形で訪れていたのか? 井伊様は、そこまでお考えなのだろうか? 幕府の限界を知っているからこそ天命という言葉が出たのではないのか? ローデンは、だんだんと小さくなっていく行列を見ながら自分の力のなさを思い知らされた。山本の言ったとおりなのか? 未来を知っていても何の役にも立たないのか…。
 知らないあいだに門は閉められて三人だけが屋敷の外に取り残された恰好になった。
 斉藤は、無言で行列を見送った。せっかくここまでやって来たのが無駄になったと落胆した。
「実は、先日順斎殿が参られましてすべてを話していただきました」
 田村は、涙をこらえながらローデンを見つめた。まだ感情が昂ぶっているのか声は震えていた。
「私のことも?」
 ローデンは、はっとして田村を見た。自分が未来から来たことも義父は話したのだろうか?
 斉藤も田村を見た。しかし、今口をはさむのは得策でないと思い黙っていることにした。
「はい」
「信じておられないと、言うことですか?」
 ローデンは、暗澹とした顔になった。義父の努力もこれで無駄になった。
「いえ」
 田村は顔を大きく横に振った後に、「殿は、歴史を変えるわけにはいかないと他人事のように仰っていました」
 田村は、口惜しそうな顔になった。
「それでも行かれたのか!?」
 ローデンは、驚いて田村を見た。斉藤も驚いて田村を見た。
「はい。本来なら、私も一緒にお供をして…。しかし順斎殿に、説明差し上げろと御下命がありました故、断腸の思いでこうしてお見送りさせて頂いている次第です」
 田村は、感極まってまた泣き出した。
「私は、資料でしか見てはいませんが、次の藩主も名君だと言うことは知っています」
 ローデンは、田村が殉死しかねないのではないかと危惧した。
「おっしゃるとおりです。贔屓目か解りませんが若君は、立派な方です」
「井伊様は、あなたに死ぬなと仰っているのではないでしょうか?」
 ローデンは、言葉を切って田村を見た。
「そんな。私のような軽輩如きに…」
 田村は、驚いてローデンの顔をまざまざと見た。
「いいえ。井伊様は、あなたが藩に必要な方だと思われたのではないでしょうか。もしかすると、日本に必要な方だと思われているのかもしれません」
 ローデンは、田村の目を見据えた。
「勿体無い」
 田村は、感極まってまた泣き出した。
 留吉は、じっとしている事ができず三人のそばまで歩いてきた。三人は、留吉には気がつかない様子だった。
「あのう。ローデンさん、お取り込み中のようですがどうなりやした?」
 留吉は、三人を見下ろすような恰好になり恐る恐る訊ねた。ローデンたちは、初めて留吉の存在に気がついて一斉に留吉を見上げた。
 留吉は、三人の形相に少し驚いた。
「出きるだけの事はしましたが、後は井伊様次第です」
 ローデンは、事実だけを言った。が、留吉にも事情はのみこめたようだ。
 普段の留吉なら、侍は恰好ばかりつけやがると悪態の一つもたたいたであろうが相手は他ならぬ大老である。三人の顔つきを見るだけで、この先何が起きるのかは聞くまでもなかった。これ以上口を利くのも、はばかれるような状況だった。斉藤と田村は、ローデンの言葉にうな垂れてしまった。留吉は、二人にかける言葉も見つからなかった。四人は、沈黙したまま最悪のことを考えていた。
「これからどうしやす?」
 暫らくして、留吉が痺れを切らしたのか聞いて来た。
「帰ろう。父上が心配されているだろう」
 ローデンは、留吉の言葉で我に返った。こんな所でいったい何をしているというのだ! もう、井伊様は止められない。心配していても始まらないではないか。
 ローデンは、ゆっくりと立ち上がった。名残を惜しむかのように、大老の行列が去っていった方角を見た。斉藤も立ち上がると、ローデンの横から同じように行列が去っていった方角を見た。
「本当に、これで良かったのでしょうか? 他に、手立てはなかったのでしょうか?」
 斉藤は、独り言のように呟いた。
 ローデンは、何も答えることができなかった。
「殿は、ローデン殿のように異人の方が日本で生まれるような時代が来るのだと、仰っていました」
 田村は、もう一度、地面にひれ伏すと声を上げて泣き出した。その言葉は、ローデンを弁護しているようにも聞こえた。ローデンは、田村の言葉から大老は自分の命と引きかえに日本の未来を救おうとしたのかもしれないと思った。
「さあ、田村さん。辛いでしょうが、井伊様のご命令です。父上に説明してください」
 ローデンは、田村の手を取り立つのを手伝った。田村は、もう一度直弼の籠に向かって深々と頭を下げると、名残惜しそうな顔でローデンたちに随った。直弼の行列は他の大名屋敷の塀ですぐに見えなくなった。馬が繋いである所まで来ると、ローデンは留吉に助けられて馬に乗った。
 その時、銃声の音が聞こえてきた。
 時に、安政七年三月三日(旧暦)。桜田門外の変の直前に起きた、ささやかな出来事であった。万延と年号が代わるきっかけの一つになった、大事件である。ローデンたちの行動は、歴史に登場することもないささやかな出来事であったが、ローデンにとって歴史的事実に対する精一杯の抵抗でもあった。

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(山本は、タイムスリップの装置を破壊することに決めた)近日公開

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