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健太が行く 年金体験プロジェクトあけぼの荘六畳物語 第二部 年金体験


解説(あらすじ)

 年金の実態を把握し、今後の年金改革の参考にするため年金体験プロジェクトが発足した。メンバーの一人厚生労働省の官僚嵐健太は、国民年金と同額の月6万6千円で一年間生活する羽目になる。健太が、一年間過ごすことになったあけぼの荘は、只者じゃない老人たちが健太を待ち構えていた。それだけではなく、テレビの密着取材で健太は、囚人のような生活を余儀なくされる。
 果たして健太は、年金体験プロジェクトを成功させることができるのであろうか? それとも…。

お断り

 この作品は、2009年に著したものです。日本年金機構は、2010年に発足したため社会保険庁となっております。民主党が政権交代した時です。
 もう10年以上前になりますが、民主党が政権を取ろうが自民党が政権に返り咲こうが、日本の問題点は10年経っても変わっていません。状況は悪くなる一方ではないでしょうか。
 日本の政治の御粗末さは、あまり変わっておりません。個人的な時間の関係もあり、その当時のままの作品を投稿することにいたしました。
 読者皆様の反響が多ければ、現在に即した物語に書き直すことも考えなければなりません。

第二部 年金体験


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったアパートの、三丁目の夕日のような自分の部屋で健太は、最初の夜を過ごすことになった。
 美咲から貰ったロケ弁とペットボトルのお茶で食事をすることになった健太は、弁当を食べながら明日からこんな弁当も買うことが出来ないと溜息をついた。テーブル、いや小さなちゃぶ台も無い部屋で、あぐらをかきながら侘しさを噛み締めていた。

 健太は、美咲が帰るときに置いていったビデオカメラとルーレットを、箸を止めて複雑な顔で眺めた。
 美咲は、一週間に一回ビデオテープを取替えに来ると言った。
 健太は、外出や買い物をするときに、このビデオカメラを使えと言った美咲の顔を思い出していた。明日は、身の回りのものや食料を買いに行くことにしたので、さっそくこのビデオカメラで一部始終を撮らざるを得ない。
 風呂は、近くに銭湯があるものの銭湯代がもったいないので我慢することにした。風呂に入らなくても、死ぬことは無い。という、大家の意見を取り入れた。

 健太は、ルーレットを困惑した顔で眺めた。
 明日からの生活で、やる羽目になったルーレットだ。一週間に一度ルーレットを回し、出た目の通りの生活を一週間行う。という、何処かの番組で見た代物だった。
 美咲の、「本当のお年寄りが、生活するためにやっていることなのよ」という言葉が蘇ってきた。ルーレットには、『スーパーの閉店間際の半額商品ゲット』・『試食グルメ食べ歩き』という、誰でも考えられそうなものから、『一日一食で生活する』・『パチンコで一発逆転』・『野草はご馳走』という項目まであった。が、『無料の食品をゲット』という、不可解なものもあった。
 健太は、後からやってきた大道具の人が造った、着替え用の試着室のようなカーテンを見て溜息をついた。が、もう一つ忘れていたことを思い出した。まさか? 布団まで、ないというんじゃないだろうな。健太は、慌てて襖を開けて、押入れの中を見てほっと胸を撫で下ろした。あった。しかし、どう見ても安物にしか見えなかった。俗に言う煎餅布団である。健太は、仕方なしに食事を終えると、弁当のケースを片付けてから煎餅布団を敷いた。
 それからパジャマを持って、着替え用の試着室のような空間に入ってカーテンを閉めた。

1.四月二日 年金体験二日目

 健太は、誰かがドアをノックする音で目が覚めた。
 健太は、時計を見てまだ朝の七時だという事に驚いた。いったいこんな朝早く誰だろう? 
「健太さん。美咲よ」
 ノックの主は、美咲だった。
 健太は仕方なく起きると、「はい」と、答えてからパジャマのまま入り口に向かった。

 ドアを開けると、照明の光が容赦なく健太に降り注ぎ、昨日のカメラマンが健太にカメラを向けていた。美咲は、手にマイクを持っており、「昨日は、眠れましたか?」と健太に尋ねてから、マイクを健太の口元に持っていった。
 健太は、一瞬戸惑ったものの仕方なしに、「はい」と答えた。
 美咲は、マイクを自分の口元に戻すと、「これから、年金体験をする嵐健太さんに今日一日密着取材をします」と言った。健太は、どうなっているのか戸惑ってぽかんと口を開けていた。
「ごめんなさい。ちょっと心配になったものだから」
 健太の顔を見た美咲は、罰の悪そうな顔で言った。

「心配? 嘘だあ」
 健太は、冷ややかな目を美咲に向けた。
「ばれた?」
 美咲は、子供のように舌を出した。
「当たり前だろ」
「本当は、初めてだから、密着したほうがいい画(え)が取れると思ったの」
 美咲は本音を漏らしながら、健太は自分が思ったほど馬鹿ではないのだろうと少しほっとして、「その代わり、今日はボーナスを持ってきたの」と、言って封筒を健太に差し出した。
 健太は、少し身構えながらも受け取ることにした。少しでもお金が増えることはありがたかった。が、封筒に書かれてあった文字を見て愕然とした。封筒には、『ボーナス(勿論生活費ではなく、必要な物の購入費)』
と、書かれてあった。

「必要な物の購入費? って何だ?」
 健太は、生活費ではないことにがっかりしながらも、必要なものの購入費という文字が気になり尋ねた。
 美咲は、この男はやっぱり馬鹿だと思いながらも、「この部屋には、ちゃぶ台もないでしょ。炊飯器や電子レンジは?」と、呆れた顔をした。
 健太は、少し固まった後で辺りを見回した。汚いコンロと、古びた冷蔵庫。テレビと、古いパソコン。この部屋には、他に何もなかったことに改めて気がついた。
「前に住んでいた人は、どうやって生活していたのだろう」
 健太は、独り言のように呟いた。
「昔は、炊飯器や電子レンジもあったみたいだけど…。壊れちゃって、買うお金もないので他の部屋の人から借りていたみたい」
「借りた?」
 健太は、目を白黒させて驚いた。
「ええ。米を持っていってご飯を炊いてもらって、冷蔵庫に入れて食べるときに電子レンジを借りたそうよ」
「…」
 健太は、何だか日本の出来事ではないような気がしてきて、何も言えなかった。
「そんなときに、介護保険が始まって、挙句の果ては、後期高齢者保険でしょ」
 美咲は、そこまで言って健太を探るような眼で見てから、「体調を崩したけど、医者に行くお金もなくなって…。他の住人が、なんとか医者に行くお金を都合したときにはもう亡くなっていたそうよ」と、言った。が、主観を要れずになるべく客観的に話すように努めた。自分は、ジャーナリストの端くれだという想いがそこにはあった。
「そんな…」
 健太は絶句した後に、「どうして、生活保護を申請しなかったんだ」と美咲に食って掛かった。
「さあ?」
 美咲は、健太の剣幕を気にしていないかのように首を傾げてから、「本人には、そんな体力はなかったのかもしれないし、申請しても直ぐお金がもらえるとは限らないでしょ」と公僕の一人である健太に鋭い眼を向けた。それは、お前のせいだと言っているように健太には思えた。
 健太は、これが最低の文化的生活を保障した日本の現実だと思い知らされた。
 もちろん、例外には違いない。しかし日本の行政は、例外に対処するときは慎重である。いや、例外を想定しようとしないのかも知れない。例外を想定すると、法令が複雑になると思っているふしがある。しかし自分の都合のいいところでは、経過措置という例外で複雑にしていることも確かである。

 後期高齢者医療制度は、健康保険制度をより複雑にしているではないか。健太は、国民のためではなく、官僚のために法令があるような気になってきた。官僚の仕事を増やすためだけに様々な不要な制度があるのでは、と思えてきた。
 美咲は、健太が何も言わない。いや、何も言えないのを少し可哀想になってきた。
 彼が、こんな酷い日本にしたわけではない。しかし、これから年金体験をする健太には、すべての現実を知って欲しかった。単に、大臣のパフォーマンスのために年金体験をして欲しくなかった。
「終わったことは、仕方ないじゃない」
 美咲は、あっさりと言ってから、「あなたが、この国を変えるのよ」と有無を言わさない言い方で健太に迫った。
 健太は、美咲の言葉に戸惑って、「おれに、そんなことが…。国を変えるなんて…」と、あまりに現実離れした言葉に絶句した。

 美咲は、言い過ぎたことを悟った。自分の必要以上の思い入れが、健太を追い詰めたのだと。
「成功しても、失敗しても、それが、この国の現実でしょ。今からそんな気持ちじゃ何もできないと思わない?」
 美咲は、健太の負担を和らげようとした。
「そんな…。こんな気持ちにさせたのは、君だろ!」
 健太は、いきなり怒り出した。
「ごめん」
 美咲は、素直に謝ってから、「でも、私の気持ちは、分かって欲しかった」と、しおらしくなった。

 健太は、初めて垣間見た美咲の素直な態度に驚いて、美咲をまじまじと見つめた。
「どうしたの?」
 美咲は、健太の自分を見る眼がさっきまでと違うことに気がついて尋ねた。
「別に」
 健太は、そう言ったものの、「君も、普通の女の子だと思っただけだ」と、思わず付け加えてしまった。
「えー? 今までどう思っていたの?」
 美咲は、健太の言葉に目を白黒させた。
 健太は、言っていいのか少し考えたが、「一方的な正義を振りかざして、自分の意見を人に押し付ける。人の立場を考えないで、ずかずか入っていく」と言ってしまって、怒るだろうなと思いながら美咲を見た。

 美咲は、呆気に取られてまじまじと健太を見る番になった。健太は、怒り出すはずの美咲が何も言わずに自分を見ていることに驚きながらも美咲の次の言葉を待った。きっと、怒っているに違いない。
「そう。一方的? そうかも知れない…」
 美咲は、目を伏せて言った。
 健太は、美咲の言葉に驚いた。『一方的で悪かったわね』ぐらいの憎まれ口を利くのかと思っていたのが、なんだか肩透かしを食った感じだった。健太は、また美咲をまじまじと見ながら、「体の調子でもおかしいの?」と、尋ねてしまった。

「やだあ」
 美咲は、健太をまじまじと見ながら、「一方的で悪かったわね! とでも言うと思った?」と健太を驚きの顔で見た。
 健太は、自分の思ったことが見透かされたことに驚いて、何も言えず眼を泳がせた。
「やだあ。こう見えても、仕事を離れたら普通の女性。居酒屋やパチンコ屋だって行くんだから」
 美咲は、勝手に言い訳を始めた。
「それって、昔流行った立派なおやじギャルでしょ」
 健太は、呆れてもう一度美咲をまじまじと見てしまった。

 美咲は、やばいことを言ったと思って、「失恋だってするんだから」と、また余計な事を言ってしまった。
 健太は、「結構かわいいのに」と、言ってしまった。事実、美人とはいえないものの、どこか普通の女性とは違った雰囲気をかもし出していることに気がついた。昔の言葉で、別嬪という言葉が当てはまっているような気がした。それに、自分の意見をずかずか言うものの何処か憎めないとこがある。

 美咲は、何も言えずに黙ってしまった。が、眼は、しっかりと健太を見ていた。
 この男は、ただの何処にでもいる官僚だと思っていた認識を少し変えなければならないかもしれないと思った。もしかすると若い官僚は、普通の人間なのかもしれない。ただその中で、おかしな野望を持った人間がだんだんと、官僚組織という悪の軍門に下るのではないだろうか、と。
 健太は、失恋という美咲の言葉に、かわいいのにと言ってしまったことで美咲が傷ついたと思って、「悪いこと言ったみたいだね。ごめん」と、素直に謝った。
 美咲は、健太が何故謝ったんだろうかと思って、はっとした。自分が失恋したことを喋ってしまったことで、彼が気を使ってくれたんだと。美咲は、「私こそ、変なこと言って」とばつが悪そうな顔になった。

「美咲さん。そろそろ本題に入りましょう」
 カメラマンは、このまま放っておいたら、二人はずっと話しを続けるかも知れないと思い声を掛けた。このまま放っておいたらどういう展開になるか興味がないわけではなかったが、今日のところはこの辺にしてもらわないと話が進まない。自分が話しに割って入ったことで、照明と音声ががっかりしたような気配が伝わってきた。
「そうね」
 美咲は、カメラマンの言葉で我に返って、「カメラ回ってる?」と、顔だけカメラマンに向けて尋ねた。
「バッチリですよ」
 カメラマンの言葉に美咲は、まずいと思った。今までの会話が全部収録されている。どうしようか…。
 美咲の困った顔を見て、少し後悔したカメラマンは、「嘘ですよ。嘘」と言うと、カメラのファインダーから目をはずして美咲を見ながら笑った。

「いい雰囲気だったのにな」
 照明は、音声に目配せしながら言った。音声は、空気を読んだのかためらいがちに首を縦に振った。
 美咲は、ほっとした顔で、「カメラ回して」と言った後で健太に顔を戻すと、「封筒を開けてください」と、いつもの顔に戻っていた。
 健太は、いつもの顔に変身した美咲に戸惑いを覚えたものの、仕方なしに言われるとおりに封筒を開けた。

 封筒の中には、一万円札が一枚だけ入っていた。健太は、呆気に取られながらも一万円札を取り出して、念のため眼を凝らして見つめた。が、何度見つめても一万円札が増えるはずはなかった。健太は、さっきまでの美咲との会話とあまりにも懸け離れた現実を思い知らされた。これだけで必要なものを揃えろという事だろう。決まり文句は、老人はそれほど恵まれていない。だろう。
 美咲は、呆気に取られたかと思ったら穴の開くほどお札を見つめて納得したような顔をした健太を見て、「全部言わなくても、納得してもらったようね」と言った。

「おう。やっとるな」
 大家は、ご機嫌な顔をしてカメラマンと音声の間をすり抜けると、ドアの前までやってきた。
「大家さん」
 健太は、古びたジャージ姿の大家を見て、少し驚いた顔をした。
「朝のジョギングじゃ」
 大家は、得意げな顔になり、「そんな事より、昨日のニュース見たぞ。わしがばっちりと映っていた」と、顔をほころばせながら美咲に言った。
「ありがとうございます」
 美咲は、礼を言った。
「大家さんが?」
 健太は、その日のニュースに出るとは思っていなかった。

「なんじゃ。見とらんかったのか」
 大家は、呆れた顔をした。
「昨日はなんだか疲れて、テレビもつけずに寝てしまったものですから」
 健太は、少し後悔した。
「後で、ビデオを持ってきてやる。ビデオをダビングして、孫たちに見せてやるんじゃ」
 大家は、そう言ってから、「そうか。ビデオはないんじゃったな」と、気の毒そうな顔になった。
「別に、気にしてませんから」
 健太は、そう言ったものの、少し後悔した。
「そうか」
 大家は、残念そうな顔をしたが、「どうじゃな。反響は」と、身を乗り出して美咲に尋ねた。

「それが…」
 美咲は、困惑した顔をして、横目で健太を見た後に、「散々です」と仕方なしに答えた。
「悪かった?」
「はい」
 美咲は、健太に聞かせた方がいいと思い直して、「大臣のパフォーマンスに、期待は出来ない。とか。あんな若造がやっても、意味がない。もっと偉い官僚がやるべきだ。とか。どうせ、すぐ投げ出すに決まっている。とか。
 殆んどが、批判じみた内容でした」と答えた。

「そんな…」
 健太は、がっかりした。
「おまえさんの、『日本の、素晴らしい年金制度を体験するのは光栄です!』という、勇ましいところが出ていたからかな?」
 大家は、昨日のニュースを思い出して、「不評だったのは、彼が現実と懸け離れたことを言ったからなのか?」ともう一度美咲に尋ねた。健太は、ニュースを見なくて良かったとほっとした。
「そのようです」
 美咲は、素直に答えるしかなかった。
「いいか? これが、国民の怒りじゃ」
 大家の言葉に健太は、あんたが、言わせたんだろう。という言葉を呑み込んで、「そう言われても…」と、肩を落とした。
 大家は、見かねたような顔をしてから、「そんなこと、気にせんでもいい」と、気にも留めていないような声を出した。
「しかし…」
「官僚は、誰のために存在するか分かるか?」
 大家は、健太に尋ねた。
「え!?」
 健太は、大家の突拍子もない質問に戸惑ってしまった。
「それぐらい、分からないで何が官僚だ」
 大家は、健太を馬鹿にしたような顔で見た。
「国民のために、存在するはずですが…」
 健太は、仕方なしに表向きの言葉を使った。
「本当に、そう思うか?」
「私は、そう思いたいです」
「しかし、そう思っている役人どもが、どれだけいるか判っているか?」
「いえ」
 健太は、そう答えるしかなかった。
「わしに言わせれば、この国を牛耳っている天下りをして恥ずかしくない連中や高級官僚の殆んどは、自分の事しか考えていない」
「そんな…」
 健太は、困惑したものの、「中にはまともな官僚だっているはずです」と、反論を試みた。
「おまえさんは、まともだと思うよ。だが、何故日本が、悪くなる一方なんだ?」
 大家は、厳しい視線を健太に向けた。
「多分、世間を知らないからだと思います」
「それだけかな?」
 大家は健太をじろりと見て、困惑した顔をしているのに気がついて、「自分たちのためだけに、天下りをするための不要な組織を造って税金を無駄遣いする」と言って健太の顔を見た。
「まるで私が官僚の代表で、吊るし上げに会っているみたいだ」
 健太は、がっくりと肩を落とした。
「おまえさんが、年金体験でテレビに出たじゃろ。おまえさんは、官僚の代表と国民には見られているんじゃ。その事を知って欲しかっただけじゃ」
 大家は、さっきとはうって変わって物静かな口調になった。
「そうね。大家さんの言う通りね」
 美咲は、大家に同調した。
「君まで…」
 健太は、呆気に取られて美咲の顔を困惑した顔で見た。
「仕方ないでしょ。現実なんだから」
 美咲は、あっけらかんとしていた。
「そんな…」
「まあ、ピンチは、チャンスだと思うしかないようね」
「ピンチは、チャンス?」
 健太は、戸惑いながらも美咲の言った言葉をどう受け止めるか考えた。
「やっぱり、あなたは馬鹿?」
 美咲は、溜息をついた。
「何で、いつもこうなるんだ? 俺が何をしたというんだ?」
 健太は、愚痴り始めた。
「まだ何もしていないじゃろ」
 大家はそう言うと健太を見て、健太がハッとした顔で自分を見返したことに満足すると、「これから、真に国民のため年金体験をやり遂げるのじゃ。だから、ピンチを逆手にとってチャンスにするのじゃ。他の誰も出来ないチャンスを掴んだと思って頑張りなさい」と満足そうな顔をした。

 健太は、自分の不甲斐なさを実感した。自分でも、どうして軟弱なんだろうと思いながらも、「やってみます」と、小さな声で答えるしかなかった。が、「昨日から、おだてられたり、けなされたり、散々な目にあいました」と、本音を漏らした。
「かわいい子には、何とかじゃ」
 大家は、そう言うと豪快に笑った。

「何か変な気持ちだ」
 健太は、美咲やカメラマンと音声、それに照明を従えて買い物に行くときに呟いた。
 年金体験ということで、歩いて行くことになった。駅前の電気屋で、セールをやっているという情報が入ったからだ。一万円で何を買うかまだ決めかねている健太を、美咲が強引に引っ張り出した格好になった。アパートの近くまでは人通りも少なかったものの、駅が近づくにつれて人通りも多くなり、通行人の奇異な目に晒される事になった。
「しょうがないでしょ。ちゃんとした番組だもの」
 美咲は、慣れているのかあっけらかんとしていた。
「ちゃんとした番組?」
 健太は、美咲の言葉に唖然として鸚鵡返しに尋ねた。大家が帰った後に部屋に上がりこんだ美咲は、ルーレットをしろと迫った。健太は、仕方なしにルーレットを回すことにしたが、アングルが悪いとかでルーレットを回すまで10分ほど掛かった。それから、ルーレットを回す前に、何か話せということで、「これから、初めてのルーレットをします」とカメラに向かって言った後に、ルーレットを回した。カメラは、ルーレットが止まるまでルーレットを映していた。ルーレットは、『試食グルメ食べ歩き』で止まってしまった。

 健太は美咲の指示で、ルーレットを持って「『試食グルメ食べ歩き』で止まりました」と、嬉しそうに言うしかなかった。が、健太は、駅前を思い浮かべてぞっとした。駅前には、大きなスーパーが一軒しかなく、商店街はシャッターが下りている店舗が多く試食の食べ歩きなどできそうも無かった。
「駅前には、スーパーが一軒しかないんだぞ!」
 健太は、美咲に詰め寄った。
「はい」
 美咲は、一枚の紙を健太に手渡しながら、「試食をやっている店が、書いてあるわ」と言った。紙には、簡単な地図が書かれており、試食をやっている店に丸印がついていた。
 健太は、紙を受け取って少し眺めていたものの唖然として、「そんな。隣の駅まで行けと言うのか? それに、あっちこっちに散らばっている」と、恨めしそうな顔で美咲を見た。
「大丈夫。みんなアパートから、三キロ以内で行ける店だから」
 美咲は、事も無げに言った。健太は、あまりのばかばかしさにずっこけてしまった。もちろん、カメラは回っていた。
 そんなやり取りで、気がつくと八時半を過ぎていた。
 美咲は、慌てて電気屋に行くと言い出した。まだ、早い。と健太が言うと、早く行かないと無くなるかもしれないでしょ。と、美咲がやり返して、半ば強引に連れ出された格好になった。健太の想いが、ちゃんとした番組? という言葉に集約されていた。
「当たり前でしょ」
 美咲は、不本意だという顔で健太を見た。
「どうみても、やらせに近い」
 健太は、溜息をついた。
「やらせじゃないでしょ。ちょっと、面白くさせたかっただけ」
 美咲も、負けてはいなかった。
「何故?」
「面白くなければ、誰も見てくれない」
「よく言うよ」
「少しでも多くの視聴者に、見てもらいたいから」
「視聴率を、稼ぎたいだけだろ」
 健太は、言ってからしまったと思った。
 美咲は立ち止まると、何ともいえない顔をして健太を黙って見つめた。緊張が走った。「まずいな」
 後ろから、カメラマンの声が聞こえた。健太は、怒らせてしまったと後悔した。彼女の気持ちは、分からないでもない。しかし自分が、モルモット同然であることに変わりはない。

 健太は、美咲の怒鳴り声に備えて首をすくめた。
「何よ! みんな私の気持ちが分からない。私は、少しでも多くの国民に事実を知ってもらいたかっただけなのに…」
 美咲は、そう言うなりうずくまって子供のように泣き始めた。
 健太は、困惑した。自分の不用意な一言で、美咲を追い詰めた。しかし彼女が、こんなに脆かったとは思ってもみなかった。
 道行く通行人は、物珍しそうに健太たちを見ながら通り過ぎて行った。何処かで見た男と、うずくまって泣いている女。それを、困惑しながら見ているカメラマン。その後ろに何かの機材を肩から掛けマイクを持った男と照明機材みたいなものを持った男が互いの顔を見ながら困惑している光景。
 テレビの取材のようだが、何かトラブルでもあったのだろうか? ただ、それだけだった。通行人は、少し気に留めたものの足早に通り過ぎて行った。

「ごめんよ」
 健太は、自分の一言で美咲がどれだけ傷ついたか見当もつかず謝るしかなかった。
「本当? 本当に、悪かったと思っているの?」
 美咲は、上目遣いに健太を見て尋ねた。
「本当だよ」
 健太は、心の底から謝った。
「ちゃんと、私の言うことを聞いてくれる?」
「聞く」
 健太は、なぜか姪が駄々をこねたときに似ているような感じを受けた。姪は、直ぐに機嫌を直して自分の欲しがっていたおもちゃをゲットすることに成功した。
 美咲は、すっと立ち上がって、「なら許してあげる」と、何事も無かったように歩き出した。
 呆気に取られた健太に、カメラマンは、「最終兵器に、やられたな」と囁いた。

「え?」
 健太は、思わず尋ねてしまった。
「そう。そう。女の武器。それは…」
 音声は、もったいぶった言い方をした。
「それは?」
 健太は、思わず尋ねてしまった。もちろん想像はつく。
「女の涙。なんちゃって」
 音声は、面白がって答えた。
 健太は、想像していた通りの答えにやられた! と思った。

「何やってるの!」
 美咲は、さっきの涙が嘘のように元気な声を出して、「早く行きましょ」と、そのまま電気屋に向かって歩き出した。健太は、カメラマンたちに肩をすくめて見せた後に、カメラマンたちを従えて付いて行くことになった。

「人垣が出来てるじゃない」
 美咲は、電気屋の前まで来ると溜息をついた。
 健太たちの前には、百人ほどの人垣が出来ていた。健太に与えられた一万円で買える必要な電化製品は、電子レンジ+オーブントースターか、炊飯器+オーブントースターに限られていた。健太は、限られた選択肢しかないのにまだ決めかねていた。もちろん、在庫が無くなれば買えなくなってしまう。平日の午前という時間で、殆んどの客は主婦や老人で占められているようだった。
「とにかく始めるわ。人垣を撮って…」
 美咲の言葉は、近くにいた開店を待ちわびる客の一人の視線により中断された。
 主婦らしい五十過ぎの女性は、美咲の声に気が付いて怪訝な顔を美咲に向けてから健太に視線を移して、「どっかで見た顔ね」と、まじまじと健太を見始めた。
「すいません。番組の収録なので…」
 美咲は、丁重にお願いしようとした。
「ちょっと待って」
 主婦は、美咲の言葉に耳を貸そうともせずじっと健太を見ながら、「俳優にしては、さえない顔をしている」と言いながら、健太に向けた顔を傾けながら考えていた。
「大きなお世話です」
 健太は、傍若無人に自分の顔を見ている主婦に言ってやった。

「仕方ないでしょ。あんたを、どっかで見たんだから」
 主婦はそう言いながら、健太をじろじろと見ていた。が、「お笑いの…」と、言って納得したかに見えた。が、まだ納得が行かない顔をして健太を見ていた。
 主婦と健太のやり取りに、何事かと後ろを振り返った別の六十代と思しき女性が、健太をじろじろ見て、「昨日のニュースでやっていた。年金体験の」と言って、背筋を伸ばすと、「日本の、素晴らしい年金制度を体験するのは光栄です!」と健太のように大声を張り上げて、「と、言った、世間知らずの官僚よ」と五十過ぎの女性に教えた。
「世間知らずは、余計でしょ」
 健太は不快な顔をしたが、人垣の視線が前の電気屋でなく健太に注がれ始めたことを知って恥ずかしくなった。
「本当。政府の、回し者よ」
「木っ端役人だ」
「身の程知らずの役人よ」と人垣は、健太に罵声を浴びせ始めた。

「あんたも、憎まれたものだな」
 カメラマンは、人事のような言い方をした。
 人垣は、健太たちの周りを取り囲み始めた。殺気すら感じられた。人垣は、健太たちを取り囲むと人垣の輪はゆっくりと狭まり健太たちに無言で近づいてきた。

「どうします?」
 カメラマンは、対応に困って美咲に尋ねるしかなくなった。
「とにかく、人垣を撮って」
 カメラマンは、美咲に言われたとおりカメラを人垣に向け回し始めた。
「何をする気!?」
 健太を初めて見つけた五十過ぎの女性は、怒り出した。
「そうだ! 木っ端役人の味方は余計なことはするな! 怪我をするぞ」
 一人の若い男は、五十過ぎの女性の前に出て今にも襲い掛かるようなそぶりを見せた。
 人垣の中から、「そんなやつやっちまえ!」「国民の怒りを見せてやれ」と、口々に野次が飛んだ。

 健太は、まるで国会のようだと思いながらも、「木っ端役人で、悪かった…」と、咄嗟に若い男に怒鳴り返そうとして、俺より強そうだと観念すると、「木っ端役人で、悪かったですね」と、声のトーンが下がってしまった。
「そうさ。俺は、おまえらの無策のおかげで派遣を切られた」
 男は、健太の襟首を左手で掴むと腕を振り上げた。手は、平手ではなく拳で思いっきり健太を殴りつけようとしていた。
 健太は、無駄だと思いながら男の左手を両手で掴みながら、「誤解ですよ。私がしたことではありません。私は、下っ端ですから」と反論を試みた。

「だから何だ!?」
 男は、聞く耳を持っていないのか、「お前は、首にならないから人事のようなことが言えるんだ」と付け加えて、振り上げた腕に力を入れた。健太は、観念して眼をつぶると歯を食いしばった。
「ちょっと待って」
 美咲は、呆れた顔をして男に声を掛けた。
「何だ? おまえも、痛い目に遇いたいのか?」
 男は、鋭い視線を美咲に向けると美咲を睨みつけた。
「殴るんなら、ちょっと待って」
 美咲は、男が呆気に取られている隙にカメラマンに向かって、「早く撮って」と、命じた。カメラマンは、一瞬呆気に取られたものの健太と男に向かってカメラを向けた。
「どういうつもりだ!?」
 男は、思いがけない展開に驚いた。
「今日のニュースに出します」
 美咲は、悪びれずに言った。
 美咲の自然な言い方に、「何故だ!?」と、 男は拳を振り上げたまま、「軟弱な木っ端役人をかばうのか」と、美咲を睨みつけた顔に困惑した顔が付け加わって、少し滑稽に思える顔に変わった。
「だから、殴っていいのよ」
 美咲は、少し落ち着きを取り戻したような顔になった男に向かってけしかけるように言った。
「どういう事だ? さっきは、待てと言ったくせに」
 男は、完全に困惑しているような顔になって今度は健太に向かって、「あの姉ちゃんの頭は、どうなっているんだ?」と、尋ねた。

「さあ?」
 健太は、まだ力を抜いていない左腕を押さえながらも仕方なしに答えた。拳は、少し力が抜けたとはいえ、まだ照準は健太に向いていた。
「殴ったところをカメラで取って俺を、犯罪者にするつもりか?」
 男は、やばいと思いゆっくりと腕を下ろしたが、健太の襟首は握っていた。
「大丈夫。ちゃんと顔にモザイクかけるから、心配しないで」
 美咲は、男の怒りが萎えていくのを感じて失敗したと悟った。一発ぐらい殴らせれば、いい画が撮れたのに…。と、思いながらも成り行きに任せるしかないかと溜息をついた。
「やらせか?」
 男は、健太に尋ねた。
「そうかも知れません」
 健太は、そこまで男に言ったが、今までのいきさつを考えると、「いや、本気かも知れませんよ」と、付け加えた。
「マジで?」
 信じられない顔で尋ねた男に健太は、「はい」と、頷いた。
「何を仲良くなってるのよ」
 美咲は、知らない間に健太の襟首から手を離して健太と会話をしている男に向かってムッとした顔で怒鳴った。
「何だ、殴らないのか?」
 人垣から、不服そうな声が聞こえてきた。が、さっきのような殺気は感じられなくなっていた。
「ふうっ」
 カメラマンは、ほっと胸を撫で下ろした。
 美咲は、仕方なしにカメラの前に行くとマイクを持って、「国民は、政府の仕打ちに怒っております。年金改ざんに始まり、後期高齢者医療制度。お年寄りをどれだけいじめれば気が済むのでしょうか。それだけではありません。派遣切りに象徴される、日本の無策振りを感じざるを得ません。私は今、年金体験プロジェクトに密着取材して、ここでも国民の怒りを身をもって体験しました」と言ってマイクを口から離すと、「どう?」と、カメラマンに尋ねた。
「ばっちりです」
 カメラマンは、カメラを構えたまま答えた。
「じゃあ、インタビューを始めるわよ」
 美咲は、そういうとマイクを口の前に持っていって、さっきの女性を捕まえると、「今回の年金プロジェクトを、どうお考えでしょうか」と尋ねると、マイクを女性の前に持っていった。

「私、映ってるの?」
 女性は、美咲の問いには答えず、カメラを気にしているようだ。
「はい」
「じゃあ、テレビに出るの?」
 女性は、あたふたし始めた。
「私が決める訳ではないので、約束は出来ませんが」
 美咲は、そう言ってお茶を濁すしかできなかった。
「わかった。でも、いい事は言わないけどいい?」
「もちろんですよ」
 美咲は、言ってからマイクをもう一度女性の口元に差し出した。
「政府は、何かに付けて財源が無い。年金が破綻する。と言って、年金を引き下げることしかしないじゃない。これじゃあ年寄りに、死ねといっているのと同じじゃない」
 女性は、怒り出した。

 美咲は、「ありがとうございます」と言って、次のインタビューの相手を見つけようとしたが、女性は美咲からマイクを奪い取るようにして、「年金体験かなんだか知らないけど、こんなペーペーにやらせてもどうせ、え・ら・い(偉い)! 政治家や役人が、うやむやにするんでしょ」と言って、健太を睨み付けた。
「ペーペーで、悪かったですね」
 健太は、うんざりした顔を女性に向けた。年恰好は、自分の母と同じぐらいだ。と思いながら。
「そうよ。あんたがペーペーでなかったら、ぶん殴ってやりたいぐらいよ」
 女性は、昨日のアパートの住人と同じことを言った。

 美咲は、強引に女性からマイクを奪うようにして取り返すと、「分かりました。ありがとうございます」と、平静を装いマイクをわざと女性から遠ざけた。女性は、やっと諦めてくれたようだった。
「官僚たちは、高給をもらって天下りをして、仕事もしないのに高い給料をもらって、きっと高い年金ももらっているんでしょ」
 別の女性はインタビューに答えると、健太を睨みつけるような眼で見た。
「どうせ、パフォーマンスでしょ。あなたも気の毒ね」
 別の女性は、健太に同情の眼を向けて、「どうせ官僚は、嘘しかつかない。本当に必要なことはしない。要らないことを必要だと言って自分の天下り先を確保するんでしょ。やったって人気取りだけ」と、首をすくめた。
 他に数人インタビューしたが、答えは、どれも似たようなものだった。

「政府は民意と言う言葉を良く使いますが、本当に民意を反映しているとは思えません。東日テレビの尾上美咲が、お伝えしました」
 美咲は、そう言って話を締めくくると、「もういいわ。お疲れ様」と、カメラマンたちにねぎらいの言葉をかけた。
「本当に、放送するんですか?」
 カメラマンは、予想外の展開に戸惑っているようだった。
「それは、私が決めることではないわ」
 美咲はそう言ったものの、カメラマンには、美咲がいつものごり押しで無理矢理ニュースの中に入れることは分かっていた。親の七光りと言えば聞こえは悪いが、美咲は親の地位をうまく利用して活路を見出していた。美咲の親は、編集長でも取締役でもないものの記事には定評があり、業界では一目おかれる立場であった。

 彼女は、自分のためというよりも、社会のためという信念のために、親の地位いや才能を利用していた。結果は出している。当然会社には、いや一部の保守的な上司には睨まれていることだろう。しかし、そんなことはお構いなしなところが彼女の魅力の一つでもあった。
 健太たちの周りには、まだ人垣が出来ていた。
 健太は、美咲とは少しはなれたところで、さっきの男と話しこんでいた。

「どう考えても、おばさんたちの言っていることが正しくて、官僚のしていることが愚かに思えてきました」
 健太は、本音を語ると、「頭が良くても、ただそれだけ。その頭を、国民のために使うつもりは無いようですね」と、話を続けた。体のいい詐欺ではないのか。と、思えてくる。健太はたった二日で、自分がとんでもない詐欺集団の一員かもしれないと思い始めた。詐欺をしたら犯罪者だが、官僚は首にすらならない。これでは、国民が怒るのは当たり前ではないか。
「まさか? 本気か?」
 男は、健太の言葉に困惑した顔で尋ねた。
「本気ですよ。これでも、まともな官僚だと思ってるんですから」
 健太は、さっきとはうって変わってムッとした顔を男に向けた。
「嘘だ。あんたは、まともな官僚じゃない」
 男は、言下に否定した。
「私は、嘘はつきません」
 健太は、男をまじめな顔になった。
「本当の官僚は、国民のためと言って自分のためにこの国を動かしている。あんたは、違うようだ」
 健太は、男の言葉に呆気に取られてしまった。
「俺は、森、森浩介という。よろしくな」
 男、いや森は、自分から名乗って健太の前に手を差し出した。
 健太は、一瞬戸惑ったものの、「よろしく」と森の手を握って、「私にできることがあれば、力になります」と、言ったが、自分の現在の置かれた立場を思うと、「こんな状況じゃ、何もできませんね」と、笑うしかなかった。
「せいぜい、期待しているぜ」
 森も、健太に釣られて笑った。
「何で、そこで仲良くなってるのよ」
 美咲は、呆れた顔で二人に声を掛けた。健太と森が美咲を見ると、美咲の横でカメラが自分達に向けられていた。カメラは回っていた。
「油断もすきもない」
 健太は、美咲とカメラを見ながら嘆いた。
 美咲は、森の前まで来て名刺を渡すと、「後で、話を聞かせてくれる?」と、尋ねた。

「話って?」
 美咲から名刺を受け取って、困惑した顔をした森に、「あなたが派遣を切られた話に、決まってるでしょ」と、呆れた顔をした。美咲と森は、健太を無視して取材の打ち合わせを始めた。
 健太は、人垣が消えたことで、電気屋が開店したことを始めて知った。電気屋の入り口を見ると、他の客たちが先を争って入り口に殺到していた。
 カメラマンと音声、それに照明の三人は、電気屋の入り口から殺到する客たちを映していた。
「なにを、ぼうっとしてるのよ!」
 健太は声のするほうを見ると、いつの間にか森と打ち合わせが終わった美咲が健太を睨みつけて、「行くわよ」と言って、先に歩き出した。
 健太は、我に返ると慌てて美咲の後を追った。

「実は、インタビューの事を考えていたんだ」
 健太は、電気屋に入ると言い訳がましく美咲に言った。
「そう。で、何か結論は出た?」
 美咲は、そっけない言い方をした。
「官僚は、詐欺師じゃないかと思えてきた。それも、絶対処罰されない詐欺師だと」
 健太は、本音を吐いた。

「え!?」
 美咲は、驚いた。健太の言葉が本音かどうか知りたくなって、「あなたは、その官僚の一員でしょ」と尋ねてみた。
「もちろん、全員がそうだとは言わない。ただ、天下りが出来る官僚は、全員詐欺師じゃないかと思ってきた。少なくとも、自分はまともな人間でありたい」
 健太は、言ってから肩を落とした。
 美咲は、いくらペーペーだといっても、現役の官僚の言葉とは思えず、「熱ある?」と健太の額に手を置いて、「ないみたい」と言ってそっと手を離した。
「俺は、真剣なんだ」
 健太は、美咲の態度に腹を立てた。

「ごめん」
 美咲は、健太の態度を見て悪いことをしたと思い謝った。この男は、何かをやるかも知れない。と、思えてきた自分に少し驚いた。
 健太は、美咲の素直な態度に驚いた。こんな一面もあるんだ、と。
「お忙しいところすいませんが、どうするんです?」
 カメラマンは、ためらいがちに尋ねた。が、カメラは健太と美咲に向けられていた。
「嵐さん。決心はつきましたか?」
 美咲は、突然健太に尋ねた。もう個人の顔は、仕事の顔に変わっていた。

 健太が、少し呆気に取られたのを見て、「電子レンジか? 炊飯器か? どっちを買いますか?」と、助け舟を出すことにした。
 健太は、溜息をついてセール対象の炊飯器を見ていた。俺は、ご飯が好きだ。しかし、電子レンジでチンすれば、簡単に料理が出来る。いや、どうせオーブントースターも買えるんだから電子レンジは諦めて…。

 美咲は、セールの炊飯器をじっと見つめながらぼそぼそ呟いている健太を溜息混じりに見ながら深呼吸をすると、「炊飯器は、ご飯を炊くだけ、電子レンジなら料理はできるし、ご飯だって炊けるんだから」と、助け舟を出した。
「電子レンジでご飯?」
 健太は、驚いて美咲を見た。そんな事信じられない。
「もちろん、専用のおなべみたいのがいるけど」
「それって高い?」
 健太は、興味を持って尋ねた。
「さあ?」
 美咲は、どこかのテレビで見た記憶があるものの金額までは思い出せなかった。
 健太は、腕組みをしながら、「うーん」と唸った。
「両方買ってもいいの?」
 健太は、子供のような顔で尋ねた。
「もちろんよ」
 美咲は、あっさりと認めたが、「足らない分を、あなたが出すならね」と言って、健太の反応を待った。
「オーブントースターを諦めれば…」
 健太は、計算を始めた。「八千五百円が二つで、一万七千円…? …七千円? 七千円も足らない!」と、大声を張り上げた。

「どうしますか? ずっと考えていたら、炊飯器も電子レンジもなくなりますよ」
 美咲は、カメラが回っているためにジャーナリストの顔になった。付き合ってらんないと思いながらも、「また、ルーレットで決めますか?」と言いながら、バッグの中から小さなルーレットを取り出した。
「まさか…。そんな物用意していたの?」
 健太は、小さなルーレットに釘付けになった。
「そうよ。うちの小道具さんは優秀なの」
 美咲は、小さなルーレットを健太の目の前に出しながら、「やってみる?」と、尋ねた。

「遠慮しとく」
 健太は、身体を少し後ろに仰け反るようにした。
「じゃあ、決めてください」
 美咲は、健太に詰め寄った。
 健太は圧倒されながら、まだ見ていない電子レンジのコーナーに行くと、「あと、一台になりました」という店員の声に慌てて、「これ下さい」と、言ってしまった。
「ありがとうございます」
 店員は、にこやかな顔で頭を下げた。それを見ていた美咲たちが、口をあんぐりと開けたまま固まってしまったのは言うまでも無い。

 健太は、電子レンジとオーブントースターを両手に下げて帰ろうとした。が、「さっきやったルーレット覚えているわね」と、美咲が言い出した。
「覚えているが、俺に何をしろと言うんだ?」
 健太は、美咲の言った理由が分からなかった。
「隣は、スーパーでしょ」
「だから?」
 健太は、少し考えてから、「まさか…」と、絶句した。
「どうせ、また来るんでしょ。だったら、遅い朝食にしましょう」
 美咲は、ニヤッとした。
「荷物は?」
 健太は、電子レンジとオーブントースターを交互に見ながら尋ねた。
「川田ちゃんが、一つ持ってくれるから大丈夫よ」
「川田ちゃん?」
 健太は、きっとこの中にいると思いカメラマンたちを眺めた。

「おれっす」
 音声の男は、手を少し上げてから、「川田俊介っす」と言いながら少し頭を下げた。
 健太は、少しおかしな状況だと思いながらも、「はじめまして…。じゃないけど、嵐健太です。よろしく」と言って頭を少し下げると、軽い方のオーブントースターを渡した。
「そう言えば、紹介していなかった。一応紹介しておくわね。カメラマンの…」
「白石治夫です」
 カメラマンは先に名乗って、「よろしく」とファインダーから顔だけ離して頭だけ下げた。
「こっちが…」
「照明の川端恭二です」
 川端も、紹介される前に名乗って少しだけ頭を下げた。
「よろしく」
 健太は、二人に軽く会釈した。

 スーパーは、お昼前という時間のためか、客はあまりいなかった。美咲は、話を付けてくると先に一人で店内に入っていった。
 数分経ってから、店長らしき中年の痩せぎすの男と一緒に出てきた。
「店長の、新城さんです」
 美咲は、店長を紹介したものの何か冴えない顔をしていた。
「店長の、新城です」
 店長は、丁寧なお辞儀をした。
「嵐健太です」
 健太も、店長に倣ってお辞儀をした。
「それと、カメラマンの白石さん」
 白石は、カメラを肩からはずしてぎこちなく少しだけ頭を下げた。が、店長が自分を見ていないことに気がつくと、少し嫌な顔をした。こういう時は、あまりいい返事ではない。

「こちらが、照明の川端くん。最後に、音声の川田くん」
 川端と川田は、ぎこちなく頭を下げた。
「年金体験って、ことでしたね」
 新城は、健太を少し嫌味な顔で見ながら尋ねた。
 美咲は、さっき説明したのにくどいと思いながら、「はい。お年寄りと同じ年金額で生活するので、ご協力お願いします」と、丁寧に頭を下げた。
「趣旨は、分かりますがね…」
 新城は、歯切れの悪い言い方をしてからもう一度健太を一瞥すると、「彼は、あまり好感を持たれていないみたいで…」と、お茶を濁した。

 健太は、「私が…?」と、顔を曇らせながら新城の顔を見た。
「あなただけの、責任じゃないんですが。なんせ、無責任な官僚が…。それに、こんなこと言ってはなんですが、ペーペーでしょ。あなたが、何を言っても、大臣や官僚はうやむやにするだけだと…」
 新城は、歯切れの悪い言い方をした。
「そんなこと、やってみなければわからないじゃないですか」
 健太は、切れた。昨日から、すべての事が官僚や政治家のせいで日本が悪くなったかのような言い方をする。ほんとうに、そうだろうか?
「…」
 新城は、健太の剣幕に黙ってしまった。
「あなた方だって、政治家や官僚の責任だけをあげつらっているだけじゃないですか! 政治家を選挙で選んだのは、あなた方国民なんですよ」
 健太は、協力してもらわなくてもいいと思ってきた。
「あなたは、甘い! と言わせてもらいましょう」
 新城は、健太をまざまざと見ながら、「どこに、そんな政治家がいます? 日本全国を見たって皆無に等しい。少し、ハードルを下げても指の数もいないじゃないんですか」と、怒り出した。
 健太は、思わず手を目の前にもってきて両手の指を見てから、足を見ようとして、「足の指は、入っていません」と言う、新城の言葉に唖然として新城を見つめてしまった。
「どこに、民意を反映できる政治家がいるのか、そこまで言うなら教えてください」
 新城は、健太に詰め寄った。

「それは…」
 健太は、自分が投票した政治家の顔を思い出そうとした。しかし投票した政治家は、何をやっているのか? 本当に、国民のために何かをしようとしているのか判然としなかった。たまに、ブログを見てもこういう実績がありますと書かれているものの、実感として沸いてこないのは事実であった。
「もうこんな政治はご免です。マニフェストよりも、政権を取るほうが大事だと思っている政治家がほとんどでしょ。口では、民意と言っていても本当に国民のことを考えている政治家は、いるのでしょうか?
 有権者の責任という人間もいますが、あほと、ばかのどちらかを選べと言われているようなものとは思いませんか? 他に選択肢が無いのですから。どっちを選んでも、結局国民の声は届かない。違いますか!?」
 新城は、怒りに任せて言い切った。
「中には、いると思います」
 健太は、そう答えるしかなかった。国会議員の中には、まともな人間もいるはずだ。いてほしいという想いが健太の言葉に表れていた。

「やっぱり、あなたは認識が甘い」
 新城は、健太の答えをあっさりと否定して、「そういう政治家は、新人や中堅と呼ばれている中にいますが、当選しても力がない。何もできない。
 そのうち、力をつけてくると、権力の魔力に取り付かれて、国民の事は見向きもしないで、自分の権力を守ることだけに躍起になる。
 自分は偉いと勘違いして、さも自分の職業のように振舞って息子に譲ることが当たり前のようになる。これじゃ、日本が良くなるわけがない」と言ってから、もう一度健太を睨みつけた。その顔は、どうだこれが日本の現実だと勝ち誇っているようだった。

 健太は、新城を睨みつけて、「だから、私がこのプロジェクトをやる羽目になったんです」と、怒り出した。
「何の関係があるんです…?」
 新城は、目を白黒させながら健太の顔を見た。健太の剣幕に押され、さっきまでの鼻息は消え去った。
「私は、愚か者のパフォーマンスと高級官僚の身勝手のために年金体験をする羽目になったんです。昨日から、官僚だというだけでどれだけ辛い目に会ったか。
 だから、決心しました。真の老人の暮らしを、自分勝手な官僚や愚か者の政治家に知らせたい。と、思うようになっただけです」
 健太は、自分の気持ちをぶちまけた。俺だって被害者なんだと。それに、身勝手な高級官僚とは違う、と。
 健太は、その時カメラが回っていることに気がつかなかった。美咲は、試食が出来なくなったときの事を考えて白石にカメラを回すように目配せしていた。美咲は、またいい画が撮れそうだと一人ほくそえんでいた。
「偉い!」
 新城は、いきなりそう言うと、「自分の上司を、そこまでこき下ろせるあなたが気に入った。
 誰が見たって愚か者ですよ、あの大臣は。財源がないと言うだけで良かったのに、天から金が降ってこない、と言ったじゃないですか。
 天から金を降らす立場にあることを、知らない。あなたの言う通り、愚か者です。ぜひご協力させてください」と態度を一変させた。

「いいんですか?」
 美咲は、新城の豹変に驚いた。
 一番驚いたのは、健太だった。俺が切れたことで美咲に迷惑が掛かるかと、言い終わった後で気がついたもののどうすることも出来なかった。後悔はしなかったが、新しい展開に驚いた。
「もちろんですよ」
 新城は、笑ってから、「こんな官僚がいるんなら、日本も捨てたものじゃない。と思いまして」とにこやかな顔になった。

 健太は、美咲やカメラマンたちと共に試食コーナーに通された。もちろん、健太の荷物はスーパーで預かってもらい、思う存分? 試食を楽しめそうだった。

「これって、喜ぶべきでしょうか?」
 健太は、試食コーナーの前に来ると困惑した顔でカメラマンに尋ねた。
「いいんじゃない」
 白石は、いつものように人事のような言い方をした。健太は、つっけんどんだが何処か憎めない白石に好感を持ち始めていた。
「そうそう。せっかくだからご馳走になったら」
 川田は、あっけらかんとした顔で話に割り込んできた。
 美咲は、試食のステーキ肉を先にほおばりながら、「おいしいわよ。あなたも食べてみたら」と、健太の腕を掴んで言った。

 その時、何処からともなく殺気を感じたような気がした。美咲の隣で試食を楽しんでいた? 老婆が、「あんたは、気楽でええなあ」と、鋭い視線で健太を睨みつけた。
「気楽って?」
 健太は、呆気に取られて老婆の顔を見た。
「あんたは、一年したらまたお・え・ら・い(お偉い)、官僚様に戻れるやろ。
 わしら、もう何も出来へん。国に殺されるだけや。あんたも、気いつけな。うかうかしてたら国に殺される。ちゃうか?」
 老婆は、横目で健太を睨みつけながらも、試食のステーキ肉を食べることは忘れていなかった。
 健太は、老婆を何処かで見たような気がした。そうだ、「おばあさんは、昨日箒を持って…」と昨日のことを思い出して尋ねた。
「そや。ペーペーが来るとは知らんかったから、あんな張り紙までしたのに損したわ」
 老婆はそう言うと、「ま、じんわりとなぶったるさかい、覚悟しとき」と試食を食べる手は休めず健太を睨みつけた。

「私は、あなた方の敵ではありません」
「ふん!」
 健太の言葉は、老婆には届かないのか老婆は鼻でせせら笑うと、「下っ端と言うても、日本人の敵は官僚や」と言って、指を健太の目の前に突き出した。
「何故そうなるんですか? 私は、まだ官僚になって三年しか経ってない」
「しゃあないな。言うたる」
 老婆は、呆れた顔をしながら、「官僚は、財源がないと何もでけへん。ちゃうか?」と健太に尋ねた。

「そりゃそうや」
 健太は、老婆の関西弁に釣られて言ってしまったが、「いや、財源がなければ何も出来ないじゃないですか」と、反論した。
「ふん! ほな、その財源ちゅうのを、いらんとこに何でぎょうさん使うんや?」
「いらんとこ。いや、いらない所とは?」
 健太は、呆気に取られたものの、老婆の意見を聞きたくなった。
「そやな、例えば、道路や。住民がいらん言うとんのに造りたがる。ぎょうさん金を使って造っても、道路はガラガラ。だから、アホや言うねん」
 老婆は、言ってから鋭い目で健太を睨みつけた。
「それだけやないで。後期高齢者医療制度。あれはどう考えても、詐欺ちゃうか? まだあるで、少子化。で、人口が減るというのに何で、道路がいるんやろか?」
 健太は、何も反論が出来ない自分が情けなくなったが、それが官僚の少なくともキャリアと呼ばれる官僚の実態ではないかと思えてきた。
「何で、黙ってるんや? なんや。張り合いのない、あんちゃんやな」
 老婆は、健太をじろりと見たが視線を健太から試食のステーキに戻すと、器用に爪楊枝を二つ掴んでステーキを突き刺して健太を横目で見ながら、「なんや。黙って立ってても、腹はいっぱいにならへん」と言ってからステーキを口に入れた。
「健太さん。おばあさんの言う通り。早く食べなさい。おいしいんだから」
 美咲は、ちゃっかり健太の代わりにステーキを食べていた。
「私は…。私は、愚かな政治家や、身勝手な官僚たちに真実を解って貰えるのでしょうか」
 健太は、情けない顔をした。

「本気か?」
 健太の言葉に老婆は、疑り深い顔で健太をじろじろ見ていた。その顔は、さっきの主婦とどこか違うような気がした。何か、自分の真意を確かめようとしているような真剣な顔に思えてきた。
「もちろんです。だから敵ではないと言ったでしょ」
 健太は、疑り深い顔で健太を見ながら試食をしている老婆に向かって答えた。
「しゃあないな。教えたる」
「本当ですか!?」
 健太は、身を乗り出した。
「ああ、ほんまや」
 老婆は、そう言うと真面目な顔になり、「無理や。そんな事できへん」と、あっさりと言った。
「え?」
「あんたも、あほやな」
 老婆は、溜息をつくと、「あほうどもは、数字でしかものを見ないのとちゃうか?」と健太に鋭い視線を向けて尋ねた。
「はい」
「そやろ。そないなな連中に、国民の苦しみが解るはずないやろ」
「そうかも知れませんが…。何か理解してもらえる方法があるはずです」
 健太は、食い下がった。
「一つだけあるで」
「あるんですか?」
 健太は、老婆の言葉に身を乗り出して尋ねた。
「ある」
 老婆は、そう言うとほくそえみながら、「政治家や官僚の給料を、全部生活保護と同じ額にするんや。あほうどもは、生活保護や年金を真剣に見直すやろ。今までのように、財源がどうのこうのちゅう、ややこしい事は言わないんとちゃうか?」と言って健太を見た。
 健太は、呆気に取られながら老婆を見た。そんな事できるはずがない。健太は、「そんならんぼうな…」と呟いた。
「日本の福祉は、素晴らしいんとちゃうか? 少なくとも、それで生きていけると思っとるんやろ」
 老婆は、皮肉な目で健太を見た。返答のできない健太に悪いと思いながらも、「じゃあ、政治家や官僚が、範を垂れるのが筋とちゃうか? 年金体験プロジェクト? チャンチャラおかしいわ」と続けて言った。
 健太は、老婆の言葉に声を失った。
「人の命より、財源しか考えとらん。あべこべとちゃうか?」
 老婆は、健太が何も答えられないのを見て、今までの鬱憤を全部ぶちまけてやろうと思って、「いくらあれば生きていけるか考えないで、年金や生活保護を出しとる。ちゃうか?」と健太に詰め寄った。
「国民年金が、月額六万円のことですか?」
 健太は、やっとのことでそれだけ尋ねた。

「そや。生活もでけへん金額で、二十五年以上掛けなければその年金も貰えへん。老人だけの世帯や、一人暮らしの老人が増えてるのに、どうやって生きていけと言うんや?」
「おもしろい、おばあさんね」
 美咲は、老婆の話に筋が通っていると思った。へたな評論家より、まともなことを言っている。この老婆を政治討論会に招いたら、面白い展開になるかもしれないと思い、「お名前を窺ってもよろしいですか?」と尋ねて自分の名刺を老婆に差し出した。
 老婆は、素直に美咲の名詞を受け取ると、「西条正子いいます」と名前を名乗った。
「西條さん。日本の政治はどうすれば良くなると思われますか」
 美咲は、西条にマイクを向けた。
「あんたも、あほか?」
 西条は、呆れた顔で美咲を眺めた。
「どうしてですか?」
「だれも知らない老いぼれに、何でそんなこと聞くんや?」
「だって、まともな事言うんですもの。それに、話に筋が通っている」
「ほんまか?」
 西条は、目を輝かせた。
「ほんま」
 美咲も、西条の関西弁に思わず関西弁で答えて、「いえ、本当です」と慌てて答え直した。
「しゃあないな。じゃあ、言うたる」
 西条は、咳払いをしてから話し始めた。
「まず、政治家や官僚の給料を減らす。あほうどもの言葉で言うと是正するんや」
「生活保護費並みですか?」
「そや。住宅ローンや借金があればそれは政府が肩代わりしてもええ」
「面白くなりますね」
「そんなもん、おもろない。わては、真剣やで」
 西条は、不服そうな顔になった。
「すいません。言葉のあやです」
 美咲は、素直に謝った。この人は、本気なんだと思った。少し乱暴な考え方だとは思ったが、今まで政府がしてきた事を考えると西条の気持ちは分からなくもない。
 西条は、美咲の素直な態度に満足したのか、「それから、無駄をなくすんや」と、話を続けた。
「二重行政のことですか?」
「そや。それから、いらん役所は無くすんや」
「どこですか?」
 美咲は、興味を覚えて身を乗り出した。
「国土交通省や。あんなもんいらん。それから、官民交流センターもいらん。ハローワークで十分や。それに、通産省(経済産業省)、厚生労働省もいらん。その代わり、社会保障省みたいなもんを造るんや」
 西条は、調子に乗っているのか饒舌になった。
「国土交通省は、どうしていらないんですか」
 美咲は、納得したものの西条の言葉で聞きたくなって尋ねた。
「日本を、いくつかに別けて都道府県の道路を造るとこを合併させるんや。そうすれば、国土交通省なんぞいらん」
 西条は、一刀両断に切って捨てた。
「ダムや、河川、港湾、空港はどうします?」
「ダムや河川は、道路と同じにすればええ。港や空港は、会社にしてもええやろ」
「会社…、ですか?」
「そや。税金の無駄遣いする必要がなくなるやろ」
「それは、独立採算制にするということでしょうか」
「難しい言葉は、解らん」
 西条は、そう答えたが美咲は、老婆の言葉が気になった。
「無駄な港や空港を造らないと、解釈していいのでしょうか」
「そや。成田や羽田は儲かってるんやろ」
「はい」
「儲かってれば、変なとこに空港造るより新しい滑走路を造った方がええと思わんか?」
「思います」
 美咲は、嬉しくなって知らないうちに身を乗り出していた。
「それから、天下りは廃止や。今まで天下っていた、何とか法人も全部廃止や。余った税金を年金や福祉に回すんや」
「すごい金額になりますよ」
 美咲は、面食らってしまった。
「まだあるで」
 美咲は、少し驚いて西条を見た。この老婆は只者ではない。かも知れない。老婆の言いたい事を、最後まで聞いてみよう。
「年金や、健康保険を一緒にするんや」
「それは、一本化するということですか」
「そや。そうすれば、事務費ちゅうんか? 給料が減るやろ。病院の事務も、簡単になるやろ」
「なるほど、そうすれば人件費は圧縮される。それに、負担の不公平もなくなります」
「そや。税金もあんたのいう言葉にすると、一本化するんや」
「税金まで?」
「あたりまえやろ。所得税と住民税を一緒にして、市町村で払えばええ。年金、健康保険それに、税金を全部市町村で払えるようにするんや。市町村、都道府県で必要な額を差し引いた余りを国の予算にするんや」
「今と、逆?」
「そや。国は、外交と防衛、治安それに国の未来だけ考えとればええ。そうすれば、いらん国会議員も減らせるやろ」
「福祉や、年金それに医療や教育はどうなります?」
「国は、調整するだけでええ。あほうどもに金をやると、ろくな事にならん。権限だけ与えとけば、あほは喜ぶやろ」
「四十七の都道府県の調整と言っても大変ではないでしょうか」
「四十七にこだわらんでええ」
「道州制を視野に入れると言う事ですか」
「あんたな」
 西条は、呆れた顔を美咲に向けた。

「どうかしました?」
「どうして、わてが易しゅう言うてるのに、なんで難しい言葉をいちいち使うんや?」
 西条は、少し嫌味な顔で美咲を見た。美咲は、はっとして、「あなたは、わざと誰にでも解る言葉を使ったんですね」とすべてを察したつもりになった。
「いいや。あんたの言うてることは、ちんぷんかんぷんや」
 西条は、恥ずかしそうな顔はせず、それが当たり前だという顔をした。
 美咲は、言葉などどうでもよくなった。頭がいいと自惚れている官僚たちは、易しい言葉をわざと難しくしているのではないだろうか? と、思えてきた。つまり、難しい専門用語を並べていれば、ばかな国民を欺くことができる。と思っているのだろうか。もちろん、その中には政治家も含まれている。
「すみません」
 美咲は、素直に謝った。
「解ればええ」
 西条は、満足そうな顔になって、「道州制がええか判らん。しかし、こんな狭い国少なくしてもええやろ。そうすれば、いらん議員も減らせる。いらん議員言うたついでに、市町村の議員はボランティアにしたらええ」と、話を続けた。
「ボランティア? ですか」
「そや。普通の人間が、政治家になる事ができるんや。ロハでやれとは言わんで。時給1500円もあればええやろ」
「時給…? ですか?」
 美咲は、あまりにも現実離れした西条の言葉に驚いた。もっとも、アメリカやヨーロッパではボランティアみたいなことをやっていることも事実だと再認識するしかなかった。
「そや。議会を夜や土日にやれば、誰でも政治家になれるやろ。時給1500円だせば、小遣いぐらいにはなるやろ」
「じゃあ、専門に議員をやりたい人はどうするんです?」
美咲は、そこまで言って、あることに気がついて、「まさか…、生活保護?」と、西条に尋ねた。

「あんた。解っとるな。そや、生活保護を受けるんや」
「もしかして、生活保護を後ろめたい物ではないと仰りたいのですか?」
「そや。生活保護が恥ずかしいちゅうのは、間違いや。金があるのに生活保護を受けるちゅうのは犯罪や。しかし生活に困ったら、生活保護を受けて何処が悪い」
 西条は、不服そうな顔で美咲に顔を向けた。
「さっきの、政治家や官僚の給料を生活保護と同じ額にするというのは…」
 健太は、気になり横から話に割り込んできた。

「あんたも、思ったより賢そうやな」
 西条は、満足そうな顔になり、「そや。困ったら、自分の生活をあんじょうするまで国が面倒を見てもええ。ちゃうか。政治家だって生活保護を受けるようになれば、なんも恥ずかしいことやないで」
「その通りだと思います」
 美咲は、前にニュースで見た年金生活のお年寄りのことを思い出していた。少ない年金で生活保護も受けず最低の生活をしている。
 子供がいるものの、子供も大変で援助は受けられず、恥ずかしいから生活保護だけはやめてと言われたそうだ。

「この世の中、おかしいことばかりや」
 西条は、そう言って溜息をついた。その時拍手が巻き起こったことで、自分たちの周りに買い物客が集まっていることに始めて気がついた。中には、「そうだ!」と言う声も聞こえた。良く見ると声の主は、店長の新城だった。
 美咲は、そろそろ潮時だと思い、「貴重なご意見、ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「ほんまに、思っとるんか?」
 西条は、疑り深い眼差しを美咲に向けてきた。
「今度、討論会がありますから、その時は出席していただきますか?」
 美咲は、西条の問いかけの答えの代わりに言った。

「金は、出るんか?」
「些少ですが、出演料はお支払いします」
「解った。出てやる」
 西条は、最後まで強気の発言をして、「そろそろ帰るから、その時は言うて」と言って、何も買わずにスーパーから出て行った。

「本気ですか?」
 白石は、カメラを構えながら呆れた声を出した。
「私が、今まで冗談を言ったことがある?」
「知りませんよ。あなたは、会社に睨まれているんですから」
「いいの、そんな事。視聴率と、国民に真実を解ってもらえるなら構わない」
 美咲は、そう言うと、「白石ちゃんありがとう」と言った。
「どういたしまして。私にも生活がありますから」
 白石は、また人事のような口ぶりになった。
「そう言えば健太さん、一口も食べていないじゃない」
 美咲は、呆れた顔をした。
「そんなこと言われても…」
 健太は、そう言うと試食の肉が置かれてある一角を見て絶句した。ない。あんなにあった肉が、一切れもなくなっている。
「すいません。今やらせますから」
 新城が慌てて駆け寄ると、「君、早くお造りして」とエプロン姿の女性を呼んだ。
「すいません」
 健太は、申し訳なさそうな顔をした。
「いいえ。面白いものを、拝見させていただきました」
 新城は、美咲と西条のやり取りを最初から見ていたようだ。「くだらない、政治討論会を聞いているより、よっぽどこっちの方がまともですよ」と、真面目な顔をした。
 結局健太は、買い物客の視線を気にしながら試食をする羽目になった。美咲の依頼により、「これは、いける。おいしいです」とカメラに向かって笑顔で言う羽目になった。

 店長の新城がただで宣伝できたと喜んだのは言うまでも無かった。

「また、あんたか」
 次に訪れた小さめのスーパーで先に試食を楽しんでいた? 西条は、うんざりしたような顔をした。
「すいません。ここに書いてあったもので」
 健太は、思わず謝ってしまった。なんか、自分が西条の邪魔をしているかもしれないという想いから自然に出た言葉だった。
「どれ、見せてみい」
 西条は、奪うように試食がある所を書いた地図を見て、笑い出した。
「どうしました?」
 美咲は、西条の笑い声に困惑した。
「あんたら、こんなもん持ってうろついてるんか?」
 美咲は、少しムッとした顔をしたものの、事実に違いないと思い、「はい」と、仕方なしに答えた。

「こんなもん、あかん」
 西条は、地図を美咲に返しながら、「落第や」と言った。
「落第? どうしてですか? 私たちは、インターネットで様々なサイトを見てやっと調べたんですよ」
 美咲は、不服そうな顔をした。
「商店街なら三益のとんかつ。福助の大福。ちょっと離れた、京谷のてんぷら(関東ではさつま揚げ)…」
 西条は、店と試食の食材を並べだした。
 健太と美咲、それに白石たちは、口をあんぐりと開けて西条の試食の話を聞いていた。もちろん、カメラは回っていた。

「…。隣の駅前のスーパーの、ハンバーグは絶品やで」
 西条はそこまで言って、全員が呆気に取られていることに気がついた。
「終わりですか?」
「いいや。しゃべってたら食えへんやろ」
 西条は、爪楊枝を掴むと黙々と食べだした。
「幾つあった?」
 川端は、川田に尋ねた。
「三十まで数えたんだが…」
 川田は、西条を見ながら、「凄すぎる!」と唸った。
「どや? 足元にも及ばんやろ」
 西条は、焼き鳥を頬張りながら得意な顔をした。
「恐れ入りました」
 美咲は頭を下げながら、勝てっこないと思った。それは、知識や知恵、それに能力を超えていたからだ。

 西条にとっては、命が掛かっている。少ない年金をやりくりしても、西条がまともに生きることができない世の中になってしまったのだろうと思った。
 西条は命がけで、少しでも年金を浮かすために始めたのに違いなかった。それを、インターネットだけで得意になっている自分は、本当に老人たちの事を解っていたのだろうか?
 健太は、俯いたまま顔を上げようとしない美咲が気になった。「どうかした?」と、健太は美咲に尋ねた。
「ううん。何でもない。ただ、私は、命を賭けて仕事をやってきた積りだったのに、西条さんの話を聞いたら、何をやってきたか解らなくなって…」
 美咲の言葉に、健太は何も言えない自分が情けなかった。健太は仕方なしに美咲の肩に手を置いて、「君は、君なりに頑張ったんだ。しかし、西条さんとは重さが違う。人生の重さが」と、慰めることしかできなかった。
「ありがとう」
 美咲は、しおらしい声をあげた。
 西条は、知らないうちに姿を消していた。


2.健太の覚悟

 健太は、西条が消えた後も美咲と共に数件のスーパーや食料品店を回った。が、西条の姿は何処にも無かった。
 結局美咲は、最後まで立ち直ることができなかった。健太は、心配しながらも別れるしかなかった。

「今日の取材が、番組になるから見てね」
 美咲は、あけぼの荘の玄関で健太と別れる時に思い出したように言った。
「五月三日じゃなかったの?」
 健太は、電気屋の男に美咲が言っていたのを思い出して尋ねた。
「それがね。昨日プロデューサーに見てもらったら、面白いから今週の土曜日に三十分枠でやると言ってくれたのよ」
 美咲は、飛び上がりそうに喜んだ。
 健太は、美咲がやっと立ち直ってくれたと喜んだ。

「ごり押ししたくせに」
 川田は、川端に小声で言った。
 川端は、頷こうとしたが、「何言ってるの!? 私の実力よ」と言う言葉に圧倒されて固まってしまった。
「編成の隙間に滑り込ませた、と言うのが本当のところです」
 白石は、カメラのファインダー越しに健太に説明した。
「いいじゃない。好評だったら毎週放送するんだから」
 美咲は、もう決まったような顔をした。

 健太は、自分の部屋に戻ると部屋に設置されているビデオカメラを一瞥しながら小さな机の前にあぐらをかいて座った。
 大丈夫かな? と、恐る恐るパソコンのスイッチを入れてみた。が、美咲の事を考えて、「凄い年代ものです」と、カメラに向かって絶望的な顔をすることも忘れていなかった。パソコンは、当たり前のように電源が入った。
「やったあ!」
 健太は、飛び上がって喜んだ。もちろん、これは健太の本音である。年金体験プロジェクトで、メンバーが行わなければいけない唯一つの仕事。レポートを書くためのパソコンであった。
 健太は、Wordを起動すると溜息をついた。
 今日は、朝から様々な所で試食をして歩いた。美咲が店に許可を取って、せっかくだということで試食と言うより、立派な食事になってしまった。これでいいのだろうか? もちろん、西条さんみたいな兵(つわもの)がいることも確かだ。

 しかし、老人が皆そうだと思われることがあってはいけない。そんな想いを健太は払拭することができなかった。自分が、テレビに出ることになってから、本当は違うのだという気がしてきた。
 人は、単純な生き物ではない。西条さんにしても、別の顔を持っているはずだ。女性らしい顔? 人を思いやる顔? 家族を愛する顔? 今日の彼女からは、想像もつかなかったが他の一面もあるはずだ。小説やドラマとは違い報道は、人の一面だけを表にだすようなところがあると思う。

 健太は、今度美咲と会うときにそのことを言おうと思った。西条の話は、乱暴だと思ったが、官僚や政治家が考えつかないアイディアではある。もう少し整理すれば、まともな考えになるかもしれない。
 健太は、そう思うと忘れないうちに残しておこうと、仕事は後回しにして西条の言ったことを整理し始めた。


3.2回目のルーレット


「さあ、今度は何が出るでしょうか?」
 健太は、美咲のためを思って無理に笑ってから、ルーレットを回した。白石は、カメラをルーレットに向けた。
ルーレットは、『パチンコで一発逆転』で止まった。
 まさか…。と絶句した健太は、「『パチンコで一発逆転』です。どうなるんでしょうか?」と美咲のために無理をして笑顔を造った。が、どことなく白々しくなった。
「なんか、無理してない?」
 美咲は、健太の白々しい台詞に気がついた。
「無理? そりゃそうだよ。俺は、お笑いでもタレントでもないんだ」
 健太は、困惑した顔をして見せた。
「そうじゃなくって」
「これは俺に、死ねと言っているようなものだ」
 美咲の真剣な顔を見てしまった健太は、溜息をついた。
「パチンコ弱いの?」
「ああ。一回も勝ったことが無い」
 健太は、本音を漏らした。
「覚悟を決めて」
 美咲は、また健太の優柔不断が始まったと溜息をつきたい心境になったものの、一回決まったルーレットを覆す訳にはいかなかった。
「もう一度やりなおしてもいい?」
 健太は、美咲に向かって頼んだ。
「駄目!」
「お願い。一回だけ」
 健太は、両手を合わせて頼んだ。が、「駄目!」と美咲は、聞く耳を持たなかった。
「どうしても?」
 健太は、両手を合わせたまま尋ねた。
「当たり前でしょ。やらせじゃ無いんだから」
「そんな…」
 結局健太は、美咲に強引に連れられてパチンコ屋に行く羽目になった。軍資金は、一万円。一万円をすった時点でゲームオーバーになる。これも何処かの番組のパクリだった。

 健太は、数年ぶりに珍しそうに辺りを見回しながらパチンコ屋に入っていった。
 パチンコ屋の事務所では、美咲が店長と揉めていた。
「だから、35番に座れば間違いないって言ってるのに」
「それは、やらせになります」
 美咲は、そう言って店長の申し出を断った。
「でも、一万円ぽっちじゃ、すぐにすっからかんになるんですよ」
 店長は、残念そうな顔で、「知りませんよ。番組にならなくっても」と、言った。が、本音は、金をすったところを全国に放送されたくなかっただけであった。
「ありがとうございます」
 美咲は、頭を下げて、「現実は、厳しいところも視聴者に理解して欲しいだけです」と言った。

 健太は下見のつもりで入ったパチンコ屋の店内に、多くの人がパチンコをしていることに気がついた。

 まだ、朝の十時過ぎだというのに、そんなに大きくないパチンコ屋の店内は、二十人以上がパチンコ台にかじりついていた。その中に、数人の老人を見つけて驚いた。一人の老人は、パチンコ玉が詰まった箱を三つ椅子の後ろに並べていた。きっと時間を持て余している裕福な老人だと思って近づいていくと、何処かで見た老人と目が合った。
「なんだ。ペーペーか…」
 老人は、健太を見るなり健太を睨みつけた。

 健太は、空いている老人の隣三十五番の台に座って、「ペーペーで悪かったですね。と、言いたいんですが、パチンコを教えてください」と頭を下げた。その老人は、西条と一緒に箒を持って現れたうちの一人だった。
「なんじゃと?」
「だから、パチンコをやる羽目になったんです」
「そんなに、嫌なのか?」
「はい。弱いんです。しかし…」
「ルーレットの目が、パチンコで止まったんだな」
 老人は、面白そうな顔をした。
「他人事だと思って」
 健太は、そう言ったが、「テレビ見てくれたんですね」と嬉しくなった。
「他に、面白いのが無かったからな」
 老人は、そう言ったものの、「軍資金は、幾らだ?」と健太に尋ねた。
「一万円です」
 老人は、少し考えていたようだったが、「まあいいか。少しやってみねえ」と言った。もちろん、素人がたった一万ぽっちで勝てる訳がねえと言いたかったが、なんだか言うといけないような気がして黙っていることにした。
 健太は、言われるままに一万円札でカードを購入すると、老人の隣に座った。
「駄目よ!」
 美咲は、慌てて健太に声を掛けると駆け寄ってきた。
「何が、駄目なんだ?」
 健太は、美咲の顔を見て呆気に取られて、「怒っているの?」と尋ねた。
「いいえ。でも、ここだけは駄目よ」
「そんな。教えてもらうところなのに」
「ここ以外なら、何処でもいいわ」
「そんな…」
 健太は、美咲の剣幕に押され仕方なしに椅子から立ち上がった。
「やんないのかい?」
 一人の老婆が、ほくそえみながら尋ねた。
「はい」
 老婆は、健太の返事を聞くといきなり健太の座っていた台の椅子に座った。
「なんだ、あんたか」
「ここは、出るんだよ」
 老婆は、おそらく事務所の前で美咲と店長の話を聞いていたのだろう。
 健太は、老婆をもう一度見て、「あなたは…」と、絶句した。箒を持って現れた老人が又一人現れた。それも、パチンコ屋という彼らとは懸け離れたような空間で。
 健太は、仕方なく三十七番の台に座った。
 健太は、老人の指導で曲がりなりにもパチンコ台のスタートチャッカーと呼ばれる穴に入れられるようになった。
 老婆は、スーパーリーチが掛かった台を顎で指しながら、「ほらね」と、得意な顔になった。スーパーリーチから7が三つそろった。老婆は、その後も何度も当たりを引き、ドル箱と呼ばれるパチンコ玉がいっぱい詰まった箱を積み始めた。

「あんまり派手にやると睨まれるぞ」
 老人は、老婆に少し心細そうな顔で言った。
「いいでしょ。台を動いたって」
 老婆は、老人に向かって言ったが、「こんな出る台を隠していたなんて」と少し怒りながらもハンドルを握っていた。
「まさか…。さくら…?」
 健太は、老人を見ながら呟いた。
「良く解ったな。このばあさんは、さくらだ」
「平野さくら。よろしく」
 老婆は、老人とパチンコ台の間から顔を健太に向けて、「このじいさんは、中沢源治という、老いぼれよ」と言った。
「老いぼれとは、ひでえ言い方しやがる。こちとら、江戸っ子でい」
 中沢は、そう言ってさくらに食って掛かった。
「よろしく。嵐健太です」
 健太は、変なところで変なタイミングで挨拶する羽目になった。
「よろしくね」
 さくらは、パチンコ台をから眼を離さないで言った。
「よろしくな」
 中沢は、老いぼれ呼ばわりされたさくらに嫌味な顔をしてから、仕方なしに言ったが、「ばあさんのやってた台に移れば儲かるぞ」と付け加えた。
 健太は、少し考えたが、「ここでいいです」と答えると、パチンコのハンドルを握って、「やっぱり、さくらなんですね。さくらさんじゃなくて、さ・く・ら」と小声で中沢に囁いた。
「さくらちゃん。ここええの?」
 何処かで聞いた関西弁だと思って健太が振り向くと、そこには西条が立っていた。
「西条さん…」
 西条の登場に健太は驚いた。
「どうしたんや? 落第生」
「人聞きの悪い」
「どうや? 試食は、うまくいったんかいな?」
「何だ、見てなかったのか?」
 横から、中沢が声を掛けた。
「見たで。けど、あんなのあかん」
 西条は、カメラマンを一瞥すると、「テレビやから、あそこまでできるんや。このペーペーの力やない」と健太を睨みつけた。

「言ってくれるよな」
 白石は、そう言うと、カメラを西条に向けて、「あんたらには、同情する。国は、なにもやっちゃくれねえ。いや、年金が破綻しねえように、簡単に年金を下げる。しかし、どうして立ち上がろうとしねえんだ? このペーペーは、力がないかも知れねえが、あんたらのために一肌脱ごうとしているんだ。もうちょっと言い方があるだろう」と珍しく熱くなった。
「白石ちゃん。言うときは言うのね」
 美咲は、小さく拍手した。
 健太は、白石の言葉が嬉しかった。が、「ペーペーは余計ですが…」と自分の立場を守ることも忘れてはいなかった。
「人の気持ちも解らないで、よく言うよ」
 さくらは、顔だけ白石に向けた。その時、パチンコ台が「スーパーリーチ」と、叫びだした。
「おまえさんだ」
 中沢が、健太の肩を叩いた。
「え?」
 健太は、自分の台を見て、「こんなの、生まれて初めてだ!」と、叫んだ。
 白石は、カメラを健太のパチンコ台に向けた。数字は、6だったものの、健太には、スーパーリーチになっただけでも奇跡に近かった。

 結局、白石の言葉はうやむやになった。白石は、「せっかく俺が、これだけ言ってやったのに」と嘆いたが、誰も白石の言葉を聞いていなかった。美咲、中沢、さくら、それに西条まで健太のパチンコ台に集まってきた。みんなが固唾を呑んで見守る中、真ん中の数字は呆気なく5で止まった。
「まだ解らんぞ」
 中沢は、健太の台を見つめた。
「このまま、大当たりすることも」
 西条は、そう言いながら、「あれ? 終わりかいな」と言って溜息をついた。
「いいんです」
 健太は、ハンドルを握ったまま言った。
「外れたのよ」
 健太は、美咲の言葉に、「だってスーパーリーチは、今まで一回もないんだ」と、興奮冷めやらぬ顔になった。
「最高で、いくら使った?」
 中沢は、健太に尋ねた。
「お金ですか? そうですね、五千円ほど」
「修行が足らないようだ」
 中沢は、肩をすくめた。
「この調子なら、大当たりしたら大声で、喚き散らすやろな」
 西条は呆れて、さくらが座っていた台に戻って行った。付き合ってると、自分が儲けそこなうと。

「また、スーパーリーチです」
 暫くは、何事も無かった。が、健太はさっきと同じスーパーリーチになったことでほっとして、笑顔でテレビカメラに向かって言った。
「どうなの?」
 さくらは、気になり中沢に尋ねた。
「この台は、遊び台、いや地獄行きだ」
「そんなこと、言わないで下さいよ。あと、二千五百円しか残っていないんですから」
 健太は、溜息をついた。
「どうせ、当たっても単発じゃな」
 中沢は、気の毒そうな顔をした。数字は、2だった。
「駄目なんですか?」
「三回は、当てないと元は取れないぞ」
「そんな…」

 健太は、中沢の言葉にぞっとした。が、パチンコ台は、様々なうっとうしいリーチアクション画面を表示しながら、大当たりに近づいていた。
「まだ、終わらない?」
 健太は、中沢に尋ねた。
「最近は、凝っているからな」
 数字は、あっさり1で止まった。
「とまった…」
 健太は、がっくりと肩を落とした。が、いきなり数字が揃った。
「やったあ」
 健太は、大声を上げて西条の予言を的中させた。もちろん、テレビで放送するからではなく、本当に興奮したからだった。
「問題は、再抽選だ」
 中沢は、顔だけ出して健太の台を見つめた。
「何です?」
「ほら、始まった」
 揃った数字が動き出したかと思うと、回転しだした。
「奇数で止まれば確変だ。もう一回必ず当たりになる」
 中沢は、少し身を乗り出して健太の台を見つめた。
「これで一発逆転! …かも?」
 健太は、カメラに向かって笑顔を見せたが、すんなりと前と同じ2で通常の当たりになった。

 結局、虎の子の出玉も呑まれてしまい、一万円は一時間もしないうちになくなってしまった。一方さくらと中沢のさくらコンビは、夕方になってドラマのように大きな荷物を抱えて出てきた。西条は、何も持たずに出てきたが、何処かへ消えていった。

「おめえ、金にはなったのか?」
 中沢は、さくらが、ドル箱をうず高く積んでいたことが気になった。
「しみったれてるよ。半分で、我慢しろだって」
 さくらは、穿き捨てるように言った。
「立ち聞きしてたんだろ。しゃあねえじゃねえか」
 中沢は、お見通しだよと言う顔をさくらに向けた。

「おう、にいちゃん」
 江戸っ子と言った中沢が、帰りに健太の部屋を訪れて、「これ食ってくんねえ」と、缶詰が入った紙袋を健太に手渡した。
「これを私に?」
 健太は、突然のことに驚いた。
「さ・く・ら、だからでい。金にはなんねえが、おかずにはこまらねえ」
 中沢は、少しはにかんだ顔になった。
「もしかして、現物支給?」
「さすが、官僚。頭だけは、いいねえ」
 中沢は、そこまで言ってから、「にいちゃんを、認めた訳じゃねえからな」と少しつっけんどんに言った。
「解っています」
「しおらしいじゃねえか」
 中沢は、少し面食らった顔をした。
「こんな事で、解ってもらえるとは思っていません。本当に私が、国民のためになるかどうかもう少し見守ってはくれませんか?」
 中沢は、一瞬呆気にとられたような顔になったが、「本気か?」と、健太の本心を探るように健太の顔を覗き込んだ。
「はい」
 健太は、中沢の視線を受け止めながら答えた。
 中沢は、健太を不思議そうな顔で見てから、「みなまで言うな」と言うと、健太の肩を叩いて、「本当の、官僚になっちくんねえ」と言ってから、部屋の中を覗いた。

 健太が、怪訝な顔をすると、「映ってる? 映ってない?」とそわそわしだした。
「ビデオカメラですか?」
「いや、その…」
 中沢は、口ごもって恥ずかしそうな顔をした。
「映っているはずですが、テレビに出られるか…」
 健太は、中沢の気持ちを悟ると少し気の毒そうな顔で答えた。
「いや、ちょこっと気になっただけでい。こちとら江戸っ子でい。細かいことは、言わねえ」
 中沢は、少しはにかみながら自分の部屋に戻って行った。本当の官僚? 健太は、中沢の言葉を噛み締めた。俺に、そんな事ができるのだろうか? とにかく、やるしかない。


4.年金体験もう一つの真実

 健太と同じ年金体験を始めた他の官僚たちも、初めてのことに戸惑っていた。健太の出演しているテレビを見て、様々な反応を示した。

 厚生労働省健康局から、年金体験プロジェクトに選ばれた筋川静雄は、財布の中身を見ながら溜息をついた。まだ、三週間とちょっとだというのに、残高は、三万円しかない。家賃を二か月分払ったことを後悔していた。

こんなことなら、…。いや、待てよ。俺も、一発逆転を狙うか。年金体験をしている筋川は、健太みたいなどじは踏まない。俺は、パチンコには自信があるんだと、パチンコ屋に向かった。
 やったあ! 筋川は、5個目のドル箱を店員が後ろに積んでくれるのを横目で見ながら、これなら後五万はいける。そう思った筋川の台は、ぴたりとでなくなった。はまったと、気がついたときは、残りが一万円になっていた。これじゃあ、どう考えても一ヶ月以上生活することは出来ない。しかし、これで何とか…。筋川は、最後の大勝負? にでた。結果は、虎の子の一万円まで失うことになってしまった。
 幸い? な事に、小銭を合わせると千円ちょっとになった。筋川は、やけくそになって最後の晩餐を牛丼の大盛りにした。
 結局筋川は、水と少しの食料で飢えをしのいだものの数日後には、救急車の厄介になった。必然的に彼の年金体験は、終わりを告げた。
 皮肉にも、救急車を呼んだのは、凸凹新聞のカメラマン山田であった。山田は、東日テレビに密着取材を取られたので、何とか特ダネを狙っていた。
 筋川にターゲットを絞って、パチンコ屋にも付いて行った。その後、アパートから出てこないのを不審に思い、思い切って取材を申し込もうとして筋川の哀れな姿を見てしまった。山田が、救急車が到着するまでにカメラのシャッターを筋川に向けて何回も切ったことは言うまでも無かった。

 ニュースを見ていた健太は、「年金体験プロジェクトのメンバーの落伍者第一号が出ました」と心持嬉しそうな顔で告げるニュースキャスターを複雑な顔で見た。
「しかも、栄養失調で救急車で運ばれたんだから、官僚も地に落ちたという他ないでしょう」
 コメンテーターの一人、青木が笑いをこらえながら言っていることが気に障ったものの認めるしかなかった。
「しかも、残高が少なくなったから、パチンコで儲けようとしたようです」
 もう一人のコメンテーター、原田が言った。
「そもそも、年金体験プロジェクト、いや、年金そのものが、もう破綻していると言っても過言じゃないでしょう」
「そうです。お年寄りの、血のにじむような生活を解っちゃいない。だから、無理があったんです。年金体験をやらされているのは、ペーペーですよ。本来なら、課長以上のはずがすり替えられてしまった。高級官僚がやっていれば、もっと面白くなったのに残念です」
 健太は、それ以上ニュースを見る気にならなかった。あんなことを言っているものの、あいつらは何もやっていない。評論家の、限界、いや、無責任さに辟易してきてスイッチを切った。が、「もう破綻している」と言った評論家の言葉が気になった。
 いくら、年金を支給していると政府が胸を張っても、一人暮らしで月額六万円以下の生活を余儀なくされているお年寄りがいる。生活保護費よりも少ない額で。悲惨の一言に尽きるのではないだろうか。
 他にも、同じニュースを見ていた男がいた。その男は、健太とは別の理由からチャンネルを変えた。本来なら年金体験を行うはずだった健太の上司、二階守であった。二階は、俺のことをコケにしやがってとチャンネルを変えたが、健太が問題なく続けていることに少しほっとした。それでも、不安になった二階は、部下の古賀に電話を入れた。

(どうしました? こんなに遅く)
「何を言うか! まだ、十時過ぎだ」
(何かトラブルでも?)
 古賀は、二階の剣幕に押されて尋ねた。何かとんでもないことが起きたのだろうかと。
「トラブルは、これから起きるかもしれないんだぞ。君は、ニュースは見ないのかね?」
(もちろん、見ますよ。東日テレビのニュースは、まだ始まっていません。なんせ、スポンサーですから。いや、金のなる木)
「だからと言って、そこまで義理立てすることはないだろう」
(義理って訳じゃないんですが…)
 古賀は、そこまで言って、(局長。何の御用なんですか?)と尋ねた。
「アホの官僚が、年金体験プロジェクトをしくじった」
(やばいですよ。嵐と言うがきが…)
「そうじゃない。別な官僚だ」
(まさか、あいつよりアホがいたとは、驚きです)
 古賀は、本当に驚いた。
「そうだよ。あいつよりアホがいるなんて…」
 二階は、そこまで言って、「そうじゃない。あのアホがしくじらないように、いい知恵を出せと言いたかったんだ」と怒鳴った。
 古賀は、受話器から耳を少し離しながら、(解りました)と言った。もちろん、妙案があったわけではなく、うるさい二階の怒りをとりあえずかわそうと言う、官僚の知恵の一つから出ただけであった。
「よし、詳しいことは明日、レポートに纏めて提出しろ」
 二階は、そう言って受話器を置いた。

 もちろん筋川の直属の上司は、震え上がった。年金体験プロジェクトを、適当な理由を作って部下に押し付けてのうのうとしている直属の上司たちも、部下がしくじったときのことを慌てて考え出そうとした。筋川の失敗は、厚生労働省に意外な波紋を落としていった。

 厚生労働省医政局から、年金体験プロジェクトに選ばれた猫野手茂(ねこのて、しげる)は、上司から電話をもらって慌てだした。電話の内容は、内緒で援助するからと言うものだった。前日のニュースで他の年金体験プロジェクトのメンバーが脱落したことで、きっと危機感を募らせたのだろう。もちろん、「見つかったら、首になるんですよ」と、言ってみたものの上司は、(見つからなければ、いいんだ。俺に任せておけ)と、タンカをきった。その後に、(夜十二時に、公園のベンチで待て。俺は、酔っ払いの振りをしておまえにタバコの火を借りるから、返すときに金を十万円渡す。これは、裏金から捻出したから誰にも解らない。いいな)と言った。
「私は、タバコを吸いませんから」
 猫野手は、上司がそんなことも忘れたのかと溜息をついた。それに、公園のベンチで夜の十二時? まるで、麻薬の密売ではないか。
(百円ライターを、準備して置け)
 上司は、呆れた声を出してそのまま電話を切った。

 猫野手は、窓の外を見てから時計を見て、まだ指定された時間には時間があると思ったが、不安は募るばかりだった。空は厚い雲で覆われており、雨になるかもしれないと思った。まるで、俺の気持ちのように。

 奥多摩警察署組織犯罪対策課刑事主任の川端は、奥多摩公園のベンチにビニール傘を差して座っている不審な人物を見張っていた。もう十二時近くになる。不審な人物は、三十分以上雨が降るのにベンチに座ったままだ。情報の入った覚せい剤の密売人に違いないと川端は、部下たちに見張を指示したものの誰も現れなかった。
 ただの、ホームレスか? いや、ホームレスが雨の中で荷物も持たずにベンチに座っていることなどありえない。今の時間ならねぐらを捜して寝ているはずだ。それとも、ねぐらが見つからなくて途方にくれているのだろうか? 川端がそんなことを思いながら見張っていると、公園のベンチに、中年の男が千鳥足で近づいてきた。
 局長と声を出しそうになった猫野手は、まずいと思い黙って局長を見ないようにした。が、いつものスーツ姿ではなく、よれよれの作業服を着て作業ズボンを穿いて自分と同じビニール傘を持っている。猫野手は、こんな夜中にしかも雨の中誰もいないはずだとは思いながらも、辺りを見回してほっと胸を撫で下ろした。誰もいない。
 川端は、中年の男を見ながら、どこか不自然だと思った。「相当でかい取引かもしれないぞ。取り逃がすな」と、部下たちにマイクを通じて命令した。

「にいちゃん。わるいけど、火を貸してくれないか?」
 猫野手は、「何です? その格好は?」といつもと違う上司に小声で尋ねた。
「こんな格好をしていれば、目立たないだろう」
「十分、目立っていると思いますが」
 猫野手は、少し呆れた顔をした。が、上司が酒臭いのに気がつくと、「酒飲んでませんか? 私が飲みたくても飲めない酒を」と、嫌味を付け加えて尋ねた。
「この方が、リアルだと思ってな」
 上司は、身体を揺らしながら言った。猫野手は、ライターをポケットから取り出すと上司に手渡した。
 上司は、ライターを受け取ると傘を首に挟んで胸ポケットからタバコの箱を取り出し、箱の中から一本タバコを抜いてライターで火をつけた。

 上司は、タバコの煙を口と鼻から出しながら、少し大きめな声で、「ありがとう」と、わざとらしく言いながら、ライターを猫野手に返すときに一緒に現金の入った封筒を手渡そうとしたものの、手が滑ってベンチの下に落としてしまった。
「今だ!」
 川端が命令すると、木の陰や茂みの中から数人の刑事たちが、一斉にベンチの周りに飛び出した。
 慌てて封筒を拾おうとしていた上司と猫野手は、突然現れた男たちに驚いて動けなくなった。
「警察です。そのまま動かないで下さい」
 川端はそう言ってから、警察手帳を見せて、「組織犯罪対策課、川端です」と名乗った。
「組織犯罪?」
 上司は、その言葉を噛み締めるように呟いてから、「厚生労働省が、犯罪みたいなことをしたといってもあれは犯罪ではない。単なる事故だ」と、川端を睨みつけた。
 川端の部下たちは、よれよれの作業服姿の男の言葉に呆気に取られた顔をした。川端は、この男は何を言っているのか? と、訝りながらも必ず逮捕してやると部下たちに目配せした。部下たちは、猫野手たちの前に立ちはだかり、川端はベンチの下に落ちた封筒を拾った。
「これは、何です? 薬物の密売ではないですか?」
「違うぞ! 木っ端役人め。俺は、厚生労働省医政局の局長だ! おまえたちに捕まるいわれはない」
 猫野手の上司は、叫びだした。が、それで諦める川端たちではなかった。
「とにかく署までご同行願います」
 川端の一言で、有無を言わさず二人は連行されて行った。猫野手の上司が、警察署に連れて行かれるまで暴れていたのは、言うまでもない。

薬物密売の嫌疑は、呆気なく晴れたものの封筒に入っていた金が動かない証拠となり、猫野手茂(ねこのて、しげる)の年金体験プロジェクトはその時点で終了した。

「今度はルール違反です」
 次の日のニュースで、年金体験の話題が報道されたことは言うまでもない。
 二日続きの不祥事に、コメンテーターの原田は呆れた顔をして、「あほの官僚たちが、できもしないことをやろうとすると、こういう結果になることは、火を見るより明らかです」と言って眉をひそめた。
「しかしそのあほの官僚に、身をもって体験させることが大事なのでは?」
 青木は、そう言って原田に尋ねた。
「どうして、本来の局長や課長レベルから、ペーペーにこのプロジェクトが回ってきたか…。それは、結局あやふやにするためです。プロジェクトをやらされているペーペーも被害者の一人かもしれない」
 原田は、感慨深げな顔をした。

 厚生労働省雇用均等局・児童家庭局から、年金体験プロジェクトに選ばれた野川啓太は、ニュースを見ながら溜息をついた。これじゃあ、官僚だけが悪人にされている。野川は、残っている残金を見ながら、何とかこれで二ヶ月暮らせる算段がついたのにと、もう一度溜息をついた。
 しかし、大好きな酒やタバコ、それにスナック通いは一年間諦めなければならなかった。それだけの価値はあると上司から言い渡されていたものの、こう不祥事が続くと自分まで滅入ってしまう。まだ、八万円以上残っている年金の残高を見ながら、これでいいのだろうか? と考えた。家族で暮らす老人は、まだ恵まれているのだろう。問題は、一人暮らしの老人たちだ。年金額が月六万円以下の老人も存在すると聞かされてからは、自分は何をやっているのか解らなくなった。

 厚生労働省の立場では、年金額より、年金そのものがあるということで破綻していないと言いたいのであろうが、数字だけではなく実際にこの金額で生活してみると、これが人間の生活かと思えてきた。
 官僚や政治家は、本当に民意を反映しようと考えているのだろうか? 少しでも年金額が多い方が、お年寄りには安心だろう。が、それでは、年金が直ぐに破綻してしまう。野川は、仕方がないことだと諦めるしかないのか…。と、自分の手には負えないと、考えることを諦めた。
 野川は、自分が年金体験プロジェクトに失敗することで、官僚や政治家が少しは考えを直すのではないだろうか? と、思った。今日限りで、年金体験とはお別れだ。野川は、これで首になることは考えていなかった。もとより、無理なことを自分にやらせようとした政治家や、上司たちが悪いのだと。

 野川は、最後の年金生活をスナックで全部散財することに決めた。

 次の日、野川が今まで書きとめた家計簿とレポートを持って、東日テレビに現れた。自分の所属する雇用均等局に戻っても、相手にされない。こっそりと金を渡されて続けろと命令されるのが落ちだと思い、健太が密着取材を受けているテレビ局に足を運ぶことにした。
 改めて考えると、これで自分は本当におしまいになる。と、思えてきた。が、雇用均等局に帰ったところで、自分の居所はもう無いことだろう。そう思うと、怒りがこみ上げてきた。何のための、年金体験なんだ!?

「年金体験プロジェクト、三人目の落伍者が出ました」
 東日テレビキャスターの都築かおりは、嬉しそうな顔を隠そうともしないで、「これで、三日連続です」と話を続けた。
「本日は、本人に直接伺って問題点を浮き彫りにします。仮に、Aさんと呼ばせていただきます」
 コメンテーターたちが座っているいつもの席の隣に、衝立が見えた。衝立のすりガラスごしに、落伍者? の野川が座っていた。もちろん、一般の視聴者には誰か解らないものの、厚生労働省ではすでに特定していることだろう。野川は、これで解雇されるだろうと思ったが自分の考えを言う最後の機会だと捉えていた。もう、怖いものは何一つない。

「Aさん。あなたが自発的に年金体験プロジェクトを辞めた経緯を、話していただけないでしょうか」
 かおりは、野川に尋ねた。
「はい。私は、意味がないと思ったから辞める決心をしました」
「意味がない? それは、どういう事でしょうか」
 かおりの問いかけに野川は、話し始めた。
「つまり政治家は、ちゃんとやっている。官僚に体験させて、国民の目線に立っている事をアピールしたいのでしょう。しかし一人暮らしの老人には、死ねと言っているのと同じだと思ったからです。
 もし私が成功したら、どうでしょう。日本の年金はちゃんとしていると言うでしょう。
 失敗したら少しだけ見直すか、国民年金の徴収が減っているからこれ以上支給できない。と、別なところに責任を押し付けて、うやむやにする。それで終わりだと、思っただけです」

「つまり、財源がないと?」
「はい。私たちは、今まで財源と言う言葉に踊らされてきました。財源がなければ、何もできない。そうでしょうか?」
 野川は、そこで言葉を切ってかおりを見つめたようだった。すりガラスとはいえ、それぐらいの様子はテレビ画面から窺えた。
「国会議員の歳費は、財源がないからと言って削減されたでしょうか? 文書通信交通滞在費と、立法事務費と呼ばれる経費(注―巻末に簡単に説明)は、財源がないからと、削減されたでしょうか? 人の命に関することに財源がなくて、政治家や天下りのためだけにある法人に回す財源があるのはおかしいと思ったからです。
 この国は、必要なところにお金を回さないで、いらないところにお金を回している。だから、私は辞めることを決心しました」
 野川は、そう言って話を締めくくった。

「何故、我々のテレビ局に来たのですか? 自分の上司に告げれば、終わりじゃないですか」
 かおりは、視聴者の疑問を代弁するかのような質問をした。もちろん、理由は聞いている。が、本人の口から話したほうが、視聴者に実感してもらえると思った。
「私が、上司に言ったら、どうなると思います?
 私個人の失敗として処分されるか、それとも、金を内緒で握らせて続けろと命令されるのが落ちだと思ったからです」
「つまり、年金体験プロジェクトではなく、あなたがおかしなことをやったから続けられなくなったと、改ざんされるという事ですか?」
「はい。改ざんは、官僚の仕事の一部ですから」
 野川は、溜息をついた。
「ところで、あなたはこれからどうなるのでしょうか」
「首でしょ。国民の期待を裏切ったとか、何とか理由は付けるでしょうが」
 野川は、少し俯いた。衝立越しに細かい表情は見えなかったものの、苦汁に満ちた顔をしているに違いなかった。
「そんな…。今まで社会保険庁が行なった不正は、処分していなかったのに」
 コメンテーターの政治評論家の宅間が、始めて口を挟んだ。

「自分たちの都合のいい事は、大目に見るんですよ。都合の悪いことは、他人に責任を押し付けるんです。今、官僚が槍玉に挙げられているご時世ですから、首にすれば国民に納得してもらえると思っていることでしょう」
 野川は、他人事のような口ぶりになった。
「野川め! 余計なことを喋りやがって」
 番組が始まって、少し経ってから厚生労働省から連絡をもらった雇用均等局の局長、邦野三賢(みかた)は、憤りを覚えながら画面に釘付けになった。
 プロジェクトを、児童家庭局に押し付けられず仕方なしに自分のところから野川を出した。雇用均等局・児童家庭局合同という事にはなったものの、叱責は免れないと溜息をついた。
 自分ほどの地位になれば、天下りは保障されている。政府が、天下り禁止と国民に説明しようが、実際は我々の思うがまま。と、思い直したものの、対策は考えておいた方がいいと思いパソコンのスイッチを入れた。

 二階は同じテレビを見ながら、嵐健太でなくて良かったとほっと胸を撫で下ろした。が、立て続けに年金体験プロジェクトが、失敗したことで危機感を覚えた。あのばかに、やり通せることが出来るのだろうか?
 そうか。別に途中で辞めてもAいや、児童家庭局の野川が言ったように、嵐健太のせいにすれば事は収まるだろうと考え直した。
 テレビの密着取材で、野川以上のことを喋らないだろうなと少し心細くなってきた。

 健太は、Aと呼ばれた年金体験プロジェクトのメンバーの言葉を、他人事ではないと思った。最初の日よりも、少しはあけぼの荘の住人と打ち解けたとはいえ、自分は何のためにプロジェクトを続けているのか? 複雑な心境になってきた。自分なりに、結論を出すまで続けてみよう。そうしなければ、老人たちのほんとうの気持ちが解らないと思い直した。

 厚生労働省労働基準局から、年金体験プロジェクトに選ばれた黒田秀年は、冷ややかな眼で同じテレビを見ていた。所詮ノンキャリアの、遠吠だと決め付けていた。が、黒田の内情はもっと苦しかった。どうしても風呂がなければ嫌だという理由からだった。
 東京中を探し回って、やっと風呂付のアパートを見つけたものの、家賃は三万八千円だった。年金の半分以上が、家賃になった格好である。
 黒田は、自分の事は棚に上げてAと呼ばれたプロジェクトメンバーに冷ややかな視線を投げていた。俺なら、何とかできる。俺は、あいつらとは違うんだ。キャリアなんだ。


5.西条デビュー

 野川が出演した一週間後、同じスタジオで生放送の年金問題などの討論会が始まろうとしていた。放送開始は、ニュースを二時間前倒しして午後九時からとなった。
 放送前のスタジオは、騒然としていた。原因は、美咲が西条に言った討論会に出ませんかという言葉だった。美咲は、今回の討論会の一般者という形でねじ込んだ。
「こんなばあさんに何がわかるか?」と言った、厚生労働省年金局局長。つまり健太の直属の上司、二階の言葉が原因だった。
「あんたらのために、金に困ってるんや。金のためなら、何でもやるで」と、西条も負けてはいなかった。
 庶民派、と呼ばれている野党民民党の大林は、「とにかく、発言してもらいましょう。それからでも遅くはない」と、中に入った。
 自分の与えられた席で、他人事のように成り行きを見ていた川添京治は、西条と言う老婆を見ながら少し胸騒ぎを覚えた。今日の話題のひとつが、年金問題だということも関係のないことではなかった。

 大家の自宅には、あけぼの荘の住人たちがほとんど集まっていた。その中に、健太も入っていた。
「どうだ、このテレビ。六十インチでしかも地デジ対応だ」
 大家は、住人たちに自慢げに話した。二間続きの部屋の襖を取り払って、真ん中に大きな机を置いていた。机の周りに座っている住人たちは、様々な表情で大家を見ていた。
「西条ばあさんが、テレビにでるからって来たんだけど、テレビを自慢したいだけだったのか」
 住人の一人が呆れた顔をした。
「そんな。映りのいいテレビで、西条さんを見てもらおうと思っただけじゃ」
 大家は、不服そうな顔をした。
「あんな婆さん、映りが良くても悪くても関係ねえじゃねえか」
 中沢は、大家の言葉にけちをつけた。
「まあ、そう言わんでくれ。食いもんと酒は、用意してあるから」
 大家がそう言うと、住人たちから拍手が巻き起こった。
「現金なやつらだ」
「一食浮きますからね」
 さくらは、大家に言った。
「余ったら、お土産にしていいから」
 大家の言葉に、全員が喜んだのは言うまでもない。
「遅くなって御免なさい」
 美咲は、ごく自然にカメラマンの白石たちを連れて現れた。
「どうなってるんだ?」
 呆気に取られている健太に美咲は、「取材よ。取材」と笑顔で言うと、白石たちに指示を飛ばし始めた。
「何の取材でい」
 中沢は、少し棘のある顔を美咲に向けた。
「今日の討論会は、生放送でしょ。だから、視聴者の意見も聞きたくなったということ」
 美咲は、そう言って笑った。
「テレビに映る?」
 中沢の言葉で、住人たちはざわめきだした。
「だから、みんなに集まってもらった訳じゃ」
 大家は、機嫌のいい顔のまま、「最初から言ったら、おとなしく集まらないと思ってな」と、付け加えた。
「初めから、言ってくれないと困るでしょ」
 さくらは、ほんとうに困った顔になった。
「どうしてでい?」
中沢の問いに、「だって…。もう少し、おしゃれが出来たのに」と、少しはにかんで見せた。

「無駄でい」
 中沢は、言下に否定した。
「女は、幾つになっても女ですよ」
 一人の老婆は、さくらを庇うようなことを言って、「私だって…」と少しはにかんだ顔をした。
「すいません。しかし、皆さんにおめかしされては視聴者に、現実を解ってもらえないと思ったんです。大家さんに、秘密にしてもらったんです」
 美咲は、素直に謝った。
 中沢は、含み笑いをしながら、「違いねえ」と言ってから全員を見回して、「おめかししてテレビを見るなんざあ、おかしいじゃねえか」と言って、豪快に笑った。
 健太は、全員がおめかしをしてテレビを見ている光景を思い浮かべた。全員が、着飾ってテレビを見ている光景は、おかしいを通り越して異様になったことだろう。まるで、コントのように。
「しゃあねえじゃねえか」
 中沢の一言で全員は、渋々従うことにした。
 酒や、料理が運ばれてくると、場は何事も無かったように和やかになった。
「酒を出していいのか?」
 健太は、ビール瓶を持ってきて健太にお酌を始めた美咲に困惑した顔で尋ねた。
「いいの。もう夜だから」
 美咲は、そう言ったものの健太の耳元で、「少しぐらい酒が入ったほうが、ちゃんと喋ってくれるでしょ」と囁いて少し舌を出した。
 健太は、美咲の言葉にあきれ返った。
「遠慮しないで。ビールなんて、ここに来てから飲んでないでしょ」
「そんなことないさ。何回か試飲した」
 健太は、試食で一週間を過ごしたときに試飲したことを思い出して、「日本酒、ワイン、ビールに発泡酒。西條さんのおかげで、お代わりまでできるようになった」と言った。もちろんその後も、機会があれば試食や試飲をしていた。

 かおりは、チラッとスタジオの時計を眺めてもう一度原稿に眼を落とした。美咲の頼みとはいえ、最初に西条を視聴者代表で紹介しなければならない。西条の顔は、美咲のビデオをニュースで放送したり、年金体験の番組で多少は知られているといっていい。が、その発言内容が問題視されている。
 政治家や官僚の給与を、生活保護費と同じ額で支給しろ。当然政治家や官僚は、怒っているだろう。話にならないと、言っていた政治家の一人の大林が、西条と官僚の仲裁に入ったことも何か考えがあっての事だろうぐらいは分かった。はたして、まともな討論会になるのだろうか? いや、紛糾してもいい。それが、この国の現実なのだから。
 紛糾して政治家や官僚の本音が出せるなら、討論会を行う価値がある。そう思い直したかおりは、迷うことをやめた。

「こんばんは」
 かおりは、ADの合図でテレビカメラに向かって挨拶をして、「本日は、時間を二時間前倒して、今問題になっている年金問題と、少子化、それに経済問題に焦点をあてて討論会を行います」と言った。画面は、かおりからスタジオのゲストを映した画面に切り替わった。
「ゲストには、与党由由党から厚生労働大臣の川添京治さん」
 川添は、かおりの紹介がおわると少し頭を下げた。
 かおりは続けて、「野党民民党から、大林新太郎さん」と紹介した。大林は、愛想のいい顔でお辞儀をした。
「それから官僚の代表として、厚生労働省年金局局長二階守さん。同じく児童家庭局の局長上野溜也(うえのためなり)さん。財務省からは、主計局次長の金野成紀(かねのなるき)さんにお越しいただいております。」
 二階と上野、それに金野は、ぎこちなく頭を下げた。

「当番組で、コメンテーターを務めています詫間信一郎。同じく、河口のぼる。それから、経済学者で、東陶大学准教授の広野剛(たけし)さん」
 紹介された三人は、名前を呼ばれてから各々頭を下げた。
「最後に、視聴者の老人代表として、西条正子さんをはじめ、七十台の老人の方十人と、子育て世代の主婦十人の計二十名をお呼びしております」
 かおりの紹介に、名前を呼ばれたゲストがお辞儀をする中、西条は、二階を睨みつけた顔を動かそうとはしなかった。
「西条さん。あなたは、以前我々の取材で、様々な意見を言われていましたが、実際に政治家や官僚の方々に会われてどう思われましたか?」
 かおりは、西条に向かって尋ねた。かおりの言葉を聞いていた政治家や官僚たちは、戸惑った顔をしながら互いを見合わせた。

 その顔には、なんで俺たちをないがしろにするんだ? という想いがあからさまに現れていた。
 西条は、そんな政治家や官僚の態度を見逃さなかった。

「そやな。やっぱり、アホやと改めて感じました」
 西条は、物怖じせず政治家たちを睨みつけながら、「政治家や官僚は、自分達が偉いと、勘違いしてんのとちゃうか」と付け加えた。
「いきなり、無礼じゃないですか?」
 川添は、冷静な態度で発言したが怒りを抑えていることは誰の眼にも明らかだった。
「無礼? 何や、その言いぐさは?」
 西条は、川添を睨みつけたあとに、「誰のおかげで、おまんま食えてるんや」と言い放った。
「誰のおかげ?」
 川添は、呆気に取られた顔を隠そうともせず西条に向けた。
「そや。国民の大事な税金を、たんと貰っとるやろ。給料以外にも、文書なんとか費ちゅう経費をようけ貰っとるやろ」
 西条は、川添の顔を横目で見ながらわざと嫌味っぽい言い方をした。
「文書通信交通滞在費と、立法事務費です」
 川添は、憮然とした顔で答えた。が、「一般の方には大金かも知れませんが、政治には金が掛かるんです。殆んど、なくなってしまいます」と、答えた。

「へえ。何ぼや? 何ぼ貰っとるんや?」
「両方で百六十万ほどです」
「それが、殆んどなくなる?」
「はい」
 川添は、西条の言葉に胸を張って答えた。
「じゃあ、何ぼ返しとるんや?」
「え?」
 川添は、西条の質問に呆気に取られた。このばあさんは、何も知らない。なんで、こんなばあさんを呼んだんだ? それに、最初に発言させた。川添の身勝手な想いは、当然顔に表れた。

「なんや。分からんのか? しゃあないな。百六十万円もらって少しでも余ったら、政府に返さんのかと聞いとるんや」
 西条は、少し怒ったような顔をした。
「返しません」
 川添は、このばあさん。何も知らないんだ。と馬鹿にした。
「何でや?」
「そういう決まりですから」
「やっぱり、アホや」
 川添の言葉に、西条は馬鹿にした顔を川添に向けた。

「誰です? こんな無礼な人間を呼んだのは?」
 川添は、本当に怒り出した。かおりは、意外な展開に驚いた。が、このまま続けさせた方が面白いかもしれないと思い、もう少しだけ西条のやりたい放題にさせることにした。念のため宅間たちを見ると、宅間たちは頷いてくれた。
「大林さんといいはったな」
 西条は、川添の騒音に耳を貸すつもりは無く野党の大林に矛先を向けた。

「はい」
「あんたは、余った経費を何ぼ返してるんや?」
 西条は、川添と同じ質問を大林に向けた。
「いえ、返していません。それでも、足りないぐらいなんですよ」
 大林は、そう答えるしかなかった。
「ほな領収書は、ちゃんと貰ろてるのか?」
 西条は、大林に尋ねた。
「そこまでは、管理していません」
「代議士さんは、気楽でええな。そういうのを、どんぶり勘定ゆうねん。普通の会社なら潰れるのがおちや。そやから、日本の国も、あんじょうできんのやろ」
「何ですか? 人聞きの悪い。誰に、ものを言っているか解っているんですか!?」
 大林は、怒り出した。
「あほらし。あんたは、わての顔も覚えてないんや」
 西条は、呆れた顔を大林に向けた。
「そんな。いちいち有権者の顔なんか…」
 大林は、そう言ってから、「正子さん…ですよね。まさか…」と、戸惑った顔を西条に向けた。が、初めて西条の顔をまざまざと見て驚いた顔をした。

「西条正子。結婚していたときは、柳田正子。やっと分かったようやな」
 西条は、そう言うと、「知らんまに、偉くなったもんやな」と大林を蔑んだ眼で見た。
 隣に座っていた川添は、名前を聞いて驚いた顔をした。
 大林は、西条の顔を見て、「柳田代議士の、奥様でしたか。失礼しました」と、慌てて西条に頭を下げた。
 かおりは、事態が飲み込めなかったものの、このまま静観するしかないと思った。

「柳田代議士。野党の、大物政治家の?」
 宅間は、昔を思い出すかのように呟いた。
「あの人は、政治にはきれいやったが、女にはだらしないところがあったんや。こっちから三行半突きつけてやったら、年寄ってからこんな惨めな生活をせにゃなならんようになった」
 西条は、言ってから豪快に笑った。
 スタジオは、意外な展開に騒然となった。かおりは、凄いスクープだと喜んだ。が、どうしてこの場を収集しようかと考え始めた。

「あのばあさん。政治家の、女房だったのか」
 中沢は、信じられない顔でテレビ画面を見ていた。
「やはり、只者じゃなかったのね」
 美咲は、無理に出演させて良かったと思った。スタジオは、騒然としているが、凄いことになるだろう。視聴率は、うなぎ登り。政治家や官僚たちの失政も、暴くことが出来るのではないか、と。
「今度交渉してみようかな」
 美咲は、テレビを見ながら嬉しそうに呟いた。
「交渉って?」
「もちろん、西条さんにコメンテーターになってもらうための交渉に決まってるでしょ」
 美咲は、あっけらかんとした顔で答えた。

「静かにしてください」
 宅間は、騒然としているスタジオの出演者たちに向かって、大声を張り上げると、「私から、説明させてください」と言った。
「どういうことだ?」
「何を、説明するんだ?」
 どこからともなく、声が聞こえてきた。
「柳田代議士のことを、説明させてください」
 宅間はそのまま、「そもそも、柳田代議士は、」と勝手に話し始めた。スタジオは、興味があるのか、嘘のように静まり返って宅間に視線が集まった。
「民民党の前身である社明党の、大物代議士でした。元奥様の言われた通り、文書通信交通滞在費と、立法事務費にメスを入れられたのも柳田代議士が初めてでした。いや、空前絶後と言ったほうがいい。柳田代議士は、自分の使った経費の残額に領収書を付けて、国に返上した代議士でした。しかし、それを表立って言わなかった。政界の間では、伝説となっています」

 宅間は、昔聞いた話を披瀝して、「私が直接聞いたわけではありません。それに、もう三十年以上も前のことで、限られた人間しかこの話は知らないはずです」と付け加えた。
「だから、あんたらに聞いたんや。うちの亭主は、半分以上返してたと思うけど」
「昔とは、違うんです」
 大林は、態度を変えて静かな口調になった。
「そうです。今は、何でもお金が掛かる」
 川添も、態度を変えた。
「そやな。時代が違う」
 西条は、大林と川添を一瞥した後に、「昔と違って、金が掛からないように小選挙区になったんやな。それに、政党助成金もできたんやな。まだあるで、政治献金はまだ貰ろてるしな」と蔑んだ顔で、二人を睨みつけた。
「そんな…」
 大林は、困惑した顔になった。
「新ちゃん、河原乞食ちゅう言葉知ってるか?」
「今の芸能人のことですよね。それが?」
 大林は、自分が昔呼ばれていた名前とおかしな質問に困惑した顔になった。
「ええ言葉とちゃうな」
 西条は、少し後悔したような顔になって、「芸能人は、高い給料貰ろてると思わへんか?」と尋ねた。
「全員じゃないでしょうけど、人気のある芸能人は相当貰っているでしょう」
「普通のサラリーマンより多く貰ろてるけど、芸能人は我々に夢を与えてくれるやろ」
「そうですね」
 大林は、西条の真意が分からないものの同意した。
「あんたら政治家や偉い官僚たちは、税金でサラリーマンより多い金を貰ろてると思わんか?」
「事実であることは、認めます」
「そやったら、国民が夢を持てる国にしたらどうや?」
「何を、仰りたいのですか?」
 横から、川添が質問した。西条の正体を知っておかしな言葉を使えないから、当然丁寧な言葉となった。
「あんたら政治家は、国民に夢を与えるどころか夢を奪うことしかしとらん。恥を知れ!」
 西条は、川添に矛先を向けた。
 大林は、答えることが出来なかった。すべてお見通しだ。
 西条が川添と大林に怒りの矛先を向けたことにより、官僚代表の二階たちはほくそえんでいた。やはり、政治家は国民に信頼されていない。これぐらいの事で、うろたえている。

「木っ端役人! あんたらは、もっと悪い!」
 西条は、二階たちを睨みつけた。
「我々の、何処が悪いんです?」
 上野は、冗談じゃないという怒りをはらんだ眼で西条を睨みつけた。
「そうだ、政治家より悪いなんて心外ですよ」
 二階は、上野の言葉に乗って、「財源が、無いんですよ」と涼しい顔で答えた。
「そうですよ。財源が無いから、我々は苦労するんです」
 川添は、二階の尻馬に乗って、余計な事を言ってしまった。大林は、何を言っても無駄だと静観することにした。
「あんたらの給料全部合わせると、なんぼになるやろ」
 西条は、川添に向かって尋ねた。
「それは、分かりません」
「大体でええ。簡単な計算や。国会議員が、七百人として、給料が二千万。事務なんとかというけったいな名前の実入りが二千万。秘書が、三人合わせて千五百万。少なく見積もっても、合わせて五千五百万」
 西条はそこまで言うと川添を睨みつけて、「七百に、五千五百万掛けてみい」と川添に詰め寄った。
 川添は、思わず俯いて台本の空白に計算し始めた。
「三百八十五億や」
「何が、仰りたいのですか?」
 西条の言葉に、川添は、そう答えるしかなかった。給料を減らせ。そう言うのに決まっている。と思ったものの、さすがに自分から言うことはやめた。
「給料を減らすんや。一千万もあれば御の字やろ。それに、経費は、仮払いにするんや。
 何ぼ国会議員がいても、ちゃんと官僚を動かせないあほな議員は首や。それに、人数が多すぎる。半分でええ。百億ぐらいにして、残りは福祉や年金医療に回すぐらいの事を考えたらどうや?」
 川添は、やはりなと思いながらも、「政治家は、大変な仕事だと思いませんか?」と、反論を試みた。

「大変な仕事?」
 西条は、呆気に取られた顔になり、「大変やろ。自分の懐を肥やすために、いろんな理由を付けるのも。それだけやない。一部の大企業や、一部の圧力団体だけのためにする政策を、さも国民のためと帳尻を合わせるのも大変やな」と言って、川添を嫌味な顔で見つめた。
「そうよ!」
 西条と同じ一般視聴者席から野次が飛び、拍手が沸いた。
「そんな…。誤解ですよ」
 川添は、心外だという顔をした。
「そやろか?」
 西条は、一般視聴者を眺めながら、「税金で国民に養ってもろてる国会議員が、何で威張ってるんや。官僚かて、一緒や。それに、何で大金貰ろてる?」と川添に詰め寄った。
「私が決めたことじゃないですよ」
「そうか。あんたは、悪ないんやな」
 西条は、少し優しい顔になったが、「そやったら、あんたが、あんじょうしてくれるんやな」とすぐに厳しい顔に戻った。
「そんな…。そんなことをしたら、誰が国会議員になります? 大変な激務ですよ。それを…」
「あほ!」
 西条は、川添の言葉を一言で遮って、「もう、政治屋さんの時代は、終わったんや。政治を息子やなしに、国民に手渡してもええのとちゃうか?」とまた川添を睨みつけた。
「そんな…」
「日本のために一千万以下の給料でも、ちゃんとやる人間はぎょうさんおるで。ただ、ハードルが高過ぎる。供託金高いやろ。金を持ってないと、立候補できんやろ」
「それは、面白半分に立候補されたら困るからではないですか? 代議士の奥さんだった方のお言葉とは思えません」
 よしっ。これでは反論できないだろう。川添は、やっと一矢報えるとほっとした。
「ええやないか」
 西条は、あっさりと言った。
「何故です? もし、そんな輩が国会議員になったら…」
「あんたは、やっぱりあほや」
「あほ呼ばわりは、やめてくれませんか」
 川添は、不服そうな顔を隠そうとせずに西条に向けて抗議した。
「すんませんな。と言いたいけど、あんたは国民を馬鹿にするんか? あほと愚か者しか選択の余地が無い今の選挙を、代えようとせんのか。国民は、面白半分で立候補したかどうか。それぐらいの事は、判るはずや」
「どっちが、あほだと思う?」
 二階は、自分たちの出番がなくなって二人の会話を茶化し始めた。
「そうですね。さしずめ、由由党が、あほで、民民党が愚かでしょうか」
 上野も面白がって答えた。
「どうや? 詐欺師みたいな官僚のほうが、よう分かっとる」
 西条は、二階たちの会話を聞いていた。
「何で、我々が詐欺師なんですか?」
 二階は、このばあさんは地獄耳かと驚いたものの、大林や川添の態度の変化を敏感に感じ取ったのかやんわりとした言い方をした。

「詐欺師は、後回しや。黙っとり」
 西条は、二階たちを睨みつけると、「国民の命には、財源がないんか? ほな、天下りをしたり、無駄なことに税金を使っているのは財源があるからか?」と、川添を睨みつけた。
「我々だって、公務員改革に取り組んでますよ」
 相手が、悪い。こんな事なら、出演するんじゃなかった。と後悔しながらも、西条に少しでも分かってもらうしかないと川添は腹をくくった。
「だから、あほや言うねん」
 西条は、寂しい顔をして、「税金を預かった国民のことを第一に考えるのが、政治家やなかったんとちゃうか?」と少し優しい声で尋ねた。
 大林は、突然立ち上がると、「分かりました。申し訳ありませんでした」と、謝って頭を机に擦り付けるように下げた。

「何が分かったんや?」
 西条は、視線を川添から大林に移して少し優しい声で尋ねた。
「自分は、国民のためと言っていましたが、正子姉さんに言われて自分の非を悟りました」
「なつかしいなあ」
 西条は、昔そう呼ばれていたことを思い出した。
「ねえさんだって。どう見たって普通のばあさんだ」
「余計なことは、言わんでよろし」
 西条は、二階の不用意な発言を見逃さなかった。二階は、こいつはやっぱり地獄耳だと思いながらも、仕方なしに眼だけで謝った。
「新ちゃんだって、もう六十を過ぎてるやろ。わてがねえさんだっておかしくないやろ」
「すいません」
 二階は、とりあえず謝っておくことにした。
「そんな事より新ちゃん。具体的に、何をするんや」
 大林は、言葉に詰まった。本当に分かった積もりになったものの、「すいません。まだ考え付きません。時間をください」と西条を見つめた。

 西条は、大林を少し見ていたが、「嘘や、ないんやろな」と念を押した。
「はい。政策を見直します。与党が反対するからと、お茶を濁したりはしません。駄目だったら、署名活動をしてでも本当の民意を反映します」
 大林は、そう言って深々と頭を下げた。
「正直でよろし」
 西条は、少し安心した顔をしながら潮時だと思い、「川添さんゆうたな」と、さっきとはうって変わった優しい眼差しになった。
「はい」
 川添は、今度は何を言われるのかと、戦々恐々としながらも自分の立場を守ろうとした。
「老いぼれが、偉そうなこと言ってると思ってるやろ」
「いいえ」
「そうやな。他に答えられんやろ。あんたにも、立場があるやろうからな」
 川添は、思いがけない西条の言葉に驚いて頭を上げて西条を見た。
「今まで、言うたことはわての考えやない」
 川添は、西条の言葉に驚いた。いったい誰が?
「みんな、柳田の考えや。それを今風にアレンジしただけや」
 西条は、複雑な顔で自分を見ている川添や大林たちそれにスタジオを見回して、「どういう意味か、分かるか?」と尋ねた。
「分かりません」
 大林は、そう言ってうな垂れた。スタジオから囁き声が聞こえ始めた。
「根っこは、変わってないちゅうこっちゃ」
「つまり、政府のやっていることは、三十年前と変わらないということですか?」
 大林は、はっとして西条に尋ねた。
「そや。もしかすると、悪なってるのとちゃうか?」
 西条は、政治家や官僚たちを見回しながら言った。
 大林は、俯いてしまった。川添は、どうすればこの戦場のような場所から逃れられるのか? と考えていた。昔の代議士の妻かしれないが、これ以上このばあさんに言いたい放題言わせるわけにはいかない。何とかしなければ…。

「ねえちゃん。言い過ぎてすまなんだな」
 西条は、突然かおりに向かって素直に謝った。
「ねえちゃん?」
 かおりは、呆気に取られて鸚鵡返しに尋ねてしまった。
「そうや、あんたや」
 呆気に取られたかおりは、「いえ。そんなことはありません。貴重なご意見ありがとうございました」と、西条に礼を言った。
「ほんまか?」
「何が、ほんまですか?」
「お世辞やないやろな」
 西条は、疑り深い眼でかおりを見た。
「お世辞だったら、西条さんに最後まで話してもらいませんよ」
 かおりは、少し憮然とした。
「ほんまか?」
「ほんま…。いえ、本当です」
 かおりの言葉に納得したのか、「わての言いたかったことは、だいたい言うてしもた」と満足そうな顔をした。
「でも…。官僚にも、何か言いたかったのではないですか?」
 かおりは、ここまで来たら西条の官僚をやりこめるところを見てみたくなって、「さきほど、詐欺師と仰っていたでしょ」と西条に尋ねた。時間はまだ残っている。
「もう、ええ」
「何ですって?」
「あんなの相手にしてたら、何ぼ時間があっても足らん。時間の無駄や」
「そんな…」
 二階は、無視されたことに腹を立てた。官僚がいなくなったら日本はどうなる? と、自意識過剰が、当然のことだと思っていた。
「しゃあないな。最後に、一つだけ言うたる」
 西条は、うっとうしい顔をしながら、「あんたらは、国家のダニや。いや、ウイルスや」と言下に切って捨てた。
「すいません。もっと話していただけないでしょうか」
 かおりは、最後まで西条に話をさせろという上司の指示を受けて、「視聴者から電話やファックスが殺到しています」と西条に告げた。
「言い過ぎたかいな」
 西条は勘違いして、ばつの悪そうな顔をした。
「いえ。もっと話をさせろという電話が、殺到しているんです」
 西条は、「出演料上げてくれるやろな」と嬉しそうな顔でかおりに尋ねた。
「はい。五倍、いや十倍出すそうです」
 かおりは、場所柄もわきまえず大声を出した。
「もう一声」
 西条は、かおりに向かって言った。
「もう一声だそうです」
 かおりは、上司に尋ねた。
「え? はい」
 かおりは、「しかたが無い十五倍出す。そうです」と、言われたままの言葉で西条に告げた。
「しゃあないな」
 西条は、同意したが、「官僚のおっさんたちを、泣かしてもええか」とかおりに尋ねた。
「個人攻撃で無ければ、暴力を振るわなければいいそうです」
 かおりは、上司からの指示をそのまま西条に伝えた。
「さよか。ほんなら、遠慮なしにやらせてもらいます」
 西条は言いながら、官僚たちを睨みつけた。

「どういうばあさんだ?」
 中沢は、空いた口が塞がらないような顔でテレビを見ていた。
 健太は、最初に西条が語ったことを思い出していた。その時は、言いたい放題のような気がしたが、テレビを見ながらなるほどと感心していた。
「やってくれたわね」
 美咲は、溜息をついた。
「君が、コメンテーターにしたいと言い出したんだぞ」
 健太の言葉に美咲は、「私の出る幕がなくなったから、ちょっと残念なだけ」と言って笑った。
「出る幕?」
「だって、あそこのプロデューサーがほっとかないはずよ」
「単なる、ばあさんじゃねえのか?」
 中沢は、会話に割り込んできた。
「柳田代議士の元妻よ。肩書きだって、申し分が無いのよ」
 美咲は、中沢にそこまで言ってから、中沢が白々しい顔をしたのを見て、「でも、肩書きだけじゃない」と珍しく言い訳をした。
「どっちでい」
「ごめんなさい」
 美咲は、素直に謝った。
「君は、西条さんの素性も知らないで番組に出演させたんだ」
「そう。何とかねじ込んで」
 健太は、美咲の本音を聞いて中沢に向き直ると、「だから、中沢さん。責めないでやってくれませんか」と頭を下げた。

「みなまで言うな。こちとら、江戸っ子でい。おいらが大人気なかった。勘弁してくんねえ」
 中沢は、美咲に頭を下げた。
「そんな…。私が、調子に乗って」
 美咲は、恐縮した。
「そんなこと言ってないで、私たちは、どうなるの? この調子じゃ出番ないかも」
 さくらは、気になったのか美咲に尋ねた。
「良くあることですから」
 美咲は、簡単に答えたが、「せっかく来たんです。インタビューは、ちゃんとやりますから心配しないで下さい」と、さくらに言った。インタビューの前に、あけぼの荘の住人たちは酔いつぶれてしまいインタビューどころではなくなった。もちろん、その中に美咲が入っていたことはいうまでもない。

 一方討論会は、西条の独壇場だった。国民のための官僚だと建前だけ言っていた官僚たちの化けの皮は、あっさりと剥がされた。
 官僚たちは、西条の攻撃をのらりくらりとかわす戦術に出た。それを西条は、数種類の単語で攻撃した。単語とは、「財源」「後期高齢者医療制度」「社会保険庁」「年金改ざん」「天下り」「骨抜き」だった。結局結論は出ず、討論会はうやむやになってしまった。
 それは、西条の攻撃が甘かったからではない。西条の攻撃に官僚がのらりくらりと、言い訳や話のすり替えをして、何を突きつけられても認めなかっただけの話だった。
 官僚は、何とか乗り切ることが出来た。と、勝手に胸を撫で下ろす結果になった。が、視聴者には、官僚の正体をいやというほど思い知らされるだけだった。

「今何時?」
 知らない間に、健太にもたれかかってうたた寝をしていた美咲は健太に尋ねた。
「今?」
 健太は、うっとうしそうな声を出しながら時計を見て、「一時だ」と答えた。
「一時? もう遅いから寝るわ」
 美咲は、けだるそうな顔で健太にもたれかかった。
「そうだな。お休み」
 健太は、そう言って自分の肩にもたれかかっている美咲に気がついた。
「何で、君がここにいるんだ?」
 健太は、美咲の肩をゆすりながら尋ねたが、美咲が返事をしないので、「ちょっと俺の部屋にしては、広すぎるようだ」と辺りを見回した。
「何でって、自分の部屋…」
 美咲は、眼を開けていつもと様子が違うことに気がついたが、思考はそこで止まった。
「何で、こんなに広いんだ? それに、みんなが横になっている」
 健太は、やっとそこまで理解したものの、「お休みなさい」と老人たちに声を掛けて、美咲にもたれかかった。
 健太と美咲の酔いがさめたのは、朝になってからだった。それも、老人たちに起こされたからだ。老人たちは、二人が仲良く寝ていたと言ってはやし立てた。
 もちろん、白石たちの酔いつぶれた姿もあった。中沢は、白石がカメラを担いだまま酔いつぶれている姿を見て、「死んでも、ラッパは離しません。眠っても、カメラは離しません。か…」と呆れていた。


6.それからの健太

 健太は、大家での討論会観戦? から、少しずつ老人たちに認められ始めた。おかしなもので、一つ屋根で一夜を過ごす羽目になったことも原因の一つだった。
 老人たちは、何かに付けて健太の部屋に訪れる機会が増えた。テレビに出る可能性があったのも、理由の一つではあった。
 西条は、なぜか頻繁に健太の部屋を訪れるようになった。健太が、西条に日本の進むべき方向を教えてほしいと申し出たからであった。

 最初は、相手にしていなかった西条も、東日テレビから週一のコメンテーターの依頼を受けると、態度を変えた。「やりすぎかいな」と、討論会のことを健太に尋ねたのが発端だった。健太は、「そんなことは無いです」と、答えたが、「テレビだから、時間だけは気にしたほうがいいと思います」と付け加えた言葉が気に入ったようだった。

「ええか?」
「はい」
 健太は、西条の言葉に襟を正して正座をした。手にはメモを持っていた。
「わてが、怖いんか?」
「はい」
 健太は、思わず口に出してから慌てて、「いいえ」と、否定した。
「正直でよろし」
 西条は、満足そうな顔になって、「普段どおりでええ」と笑った。
「でも…。教えてもらう立場ですから」
「そうか。ほな基本から始めるで」
 西条は、そう言って話し始めた。
「まず。国家とは、なんやと思う?」
「国家ですか?」
 健太は、少し考えたが、「人の集まりのひとつの単位です。自分には、それぐらいしかわかりません」と少し恥じた顔をした。
「そんな顔せんでええ。あんたの、言う通りや」
「え? いいの? いや、いいんですか?」
 健太は、呆気に取られて尋ねてしまった。
「そや。でも、一つだけ大きな違いがあるんや。解るか?」
「それは…。権力ですか?」
 健太は、恐る恐る尋ねた。
「あんた。思ったほど、あほとちゃうようやな」
「それって、褒めてくれているんですか?」
「そうや」
 西条は、満足そうな顔で、「政治家や官僚それに学者は、ややこしいこと言うて難しくしたいやろが、基本は権力や」と決め付けていた。
「そんなに、簡単でいいんですか?」
 健太は、西条の言葉に戸惑ってしまった。
「簡単でええ。真実は、そういうもんや」
「はい」
「権力は、使い方によって国民のためにもなるし、一握りの人間のためだけにもなる。ちゃうか?」
「はい」
 健太は、西条の言葉を正面から受け止めた。
「日本は、さしずめ独裁国家といってもええ」
「その考えは、過激すぎませんか?」
 健太は、思わず西条の話を遮ってしまった。
「何が、過激やねん。官僚の官僚による官僚のための日本とちゃうか?」
「何か、私が怒られているような気になってきました」
「何で、あんたが…」
 西条は、健太を見て、「あんたも、官僚やったな」と、初めて健太の立場を理解したような顔をした。
「あんたの、せいやない。官僚といっても、偉い官僚たちや。少なくとも、天下りができる官僚たちのことや」
「それって、慰めてくれているつもりですか?」
「そや。しかし、ペーペーだって勘違いしとる輩が多いと思わんか?」
 西条の言葉に健太は、自分の同僚の顔を浮かべてみた。該当者は数人いた。
「どや? そんなペーペーは、独裁者の卵や」
「解った気がします」
「日本が、よそとちゃうのは、今の官僚は、藤原氏と同じような存在やからや」
「藤原氏って、昔の貴族の?」
「そや。簡単に言うと、今の国会議員は天皇や。高級官僚たちは、藤原氏や」
「何で、国会議員が天皇なんです?」
 健太は、西条の訳の分からない説明に戸惑った。
「理由は、二つや。一つは、一応主権在民やさかい、国民の代表者の国会議員が天皇や。もう一つは、官僚のいいなりや。つまり、官僚の傀儡とちゃうか? 官僚がいなければ日本は、大変になるという思い込んどるあほ供やからや」
「つまり、藤原氏のように官僚はやりたい放題。まずいことが起こったら、全部天皇、いや国会議員の責任にして自分たちは知らん振り。責任を取らなくても、いいということですか?」
「そや。にいちゃん。呑み込みが早いな」
「はあ…」
 健太は、嬉しそうな顔の西条に眼が点になった。
 この人は、何処まで本気なのだろうか?
「だから、あほな国会議員は首にするんや」
「そんなことはできません」
 健太は、咄嗟に言ってしまった。
「無理か…」
 西条は、あっさりと認めたが、「そや、アホと愚か者意外に候補者を立てて、日本を本当の民主主義国家に変えるんや」とまだ諦めていない顔になった。
「そんなこと、簡単にできませんよ」
 健太は、溜息をついた。
「何でや?」
 健太は、西条が子供のような顔で尋ねたことに驚き、「金が無ければ、立候補すらできないでしょ」と呆れた。何処まで本気なのか、それとも単に自分にこの国の不条理を教えたいだけなのか判らなくなった。
「供託金か?」
「そうですよ。三百万円ですよ」
「そうやったな…」
 西条は、初めて弱気な顔を見せた。
「考えれば、何とかなるかも知れません」
 健太は、西条が気の毒になった。西条の理想は高そうだ。「でも、ど素人が政治家なんか出来るでしょうか」と、溜息をついた。
「それは、違うで」
西条の力強い言葉に健太は、「え?」と、思わず尋ねてしまった。
「討論会でも言うたが、今まで、そのプロがちゃんと政治をやったか? ちゃんと、官僚に仕事をさせたか? ちゃうやろ。何故だか分かるか?」
「それは…」
「分からんのか? しゃあないな。教えたる。政治のプロだからや」
 西条は、そう言い切った。が、健太がまだ困惑した顔をしているのに気がつくと、「最大公約数ゆうんか? プロの政治家は、全体の事だけ考えるんや。例えば、年金や。なんぼ、同じ掛け金で月額六万円いうても、子供と同居してる老人や、持ち家で夫婦だけや一人暮らしの老人がおるやろ。それから、アパートで夫婦だけや一人暮らしの老人がいるということまでは考えへん。おまけに、痴呆症や寝たきりの老人がいる。なんせ、同じ掛け金で支給額が違うと不公平やからな。でも、同じ金もろても、家賃がいるのといらないのとは大違いやと思わんか? 丈夫と病弱と、違うと思わんか? そやから、わてらみたいな難儀する老人が多くなるんや。違うか?」
「つまり、他に方法を考えろと。例えば、アパート代は国である程度補填するとか、年金の底上げをするとか。医療費を考えるとか」
 健太は、また落第やと言われるのを覚悟で言ってみた。
「そや。そんなことも分からん政治家が、なんぼおっても日本は良うならへん」
「同感です」
 健太は、そう言いながら、「とにかく、一人でも国会に、そういう人物を送ってみてはどうでしょう」と逆に西条に提案した。もちろん、怒られるのを覚悟で。
「そや。そういう手が、あったんや」
 西条は、笑いながら、「あんたが、立候補すればええ」と、簡単に決めた。
「冗談でしょ」
 健太は、呆気に取られて西条を見た。また西条のいつもの冗談が始まったと思った。
「そや。冗談や…」
 西条は、そこで言葉を切って健太を見ながら、「そう言いたいところやが、本気やで。他に、誰がいてるんや?」と、逆に健太に尋ねた。
「そんな…。他に、いっぱいいるじゃないですか。大林さんだって、討論会でちゃんとやると言っているんですよ」
 健太は、西条が自分を見つめている眼を見て観念した。この人は本気だ。大林さんのいったことを信じていないのではなく、ほんとうに素人に政治をやらせたいのだろう。しかし、「何故? 私なんですか?」と、困惑した顔を西条に向けた。
「あんたは、うってつけやないか?」
「うってつけ? って、年金体験をしているからですか?」
「いいや」
 西条は首を横に振った。
「テレビで、少し有名になったからですか?」
「いいや」
 西条は、また首を横に振った。
「じゃあ。何故?」
 健太は、西条の真意を図りかねた。単に、あんたが知り合いの中で若いからと、単純な理由から決めたと言いかねない西条の答えを待った。
 西条は、咳払いをして、「それは、わてに、教えを請うたからや」と、健太が考えもしなかった答えが待っていた。
「何故? 今日始めたばかりなんですよ」
 健太は、困惑した。西条は、何を考えているのだろうか?
「こないな、老いぼれの話を聞こうやなんて、考えたからや」
「あなたの言っていたことが、正しいと思っただけです」
 健太は、まだ納得いかない顔をしていた。
「そやな。でも、少し考えてみい。あんたより、ちゃんと老人の事を考えている官僚がなんぼおるか?」
 西条は、健太の気持ちを考えて少し視線を健太から離して尋ねた。
「中には、いるでしょう。それに問題は、年金だけじゃないでしょ」
「そうや。あんた、益々気に入った」
 西条は、今まで見たこともない頼もしそうな顔で健太を見た。
「私は、二流いや、三流大学出身で成績も後ろから数えた方が…」
 健太は、西条が自分を買いかぶっているのだと思って、そこまで言って、「まさか? 問題は年金問題や少子化それに経済危機までも、別じゃなくて繋がっていると仰りたいのですか?」と西条の顔を窺った。
「そや。何で年金がおかしくなるか? つまり、子供が少なくなるからやろ。なんでや解るか? 子供を作りづらい世の中になった。子供ができても、保育所はない。教育費は高こつく。結婚すると大変になる。子供ができるともっと大変になる。
 それだけやないで。親を介護して結婚できない人もいるやろ」
 西条は、そこで話を切って健太の反応を見るように健太を見つめた。健太は、ハッとして西条の顔を見た。
「まだあるで。経済危機ゆうても、国民がちゃんと金を稼いでいれば何とかなるちゅうもんやで」
 西条は、健太を満足そうな顔で見た。
「つまり、根っこは一つなんですね。政府が、国民のことだけ考えれば、高齢化は少しでも防げる。経済問題も解決できると」
 健太は、もう西条の顔色を窺うことはしなかった。
「そや。そやさかい、あんたに、立候補してほしいねん」
 西条の期待は、膨らんだようだ。
「私に、国会議員が務まるでしょうか?」
 健太は、溜息をついた。
「あんな、気楽な家業はないで」
 西条は、そう言うと豪快に笑った。
「気楽?」
「そや。当選してしまえば、毎年、四千万円以上が懐に入るやろ。自分は、何もせんでも秘書にやらせればこんな楽な商売はないで。文書なんとか費ちゅう経費は、余っても返さんでええ」
 西条は、身を乗り出して、「どや。やらんか?」と言って笑った。
「本気ですか?」
「本気や」
「でも、私が西条さんの言った通りにやったら怒るでしょ」
「そりゃそうや。なんせわての一番弟子やさかいな」
 西条は、豪快に笑った。
「一番弟子?」
 健太は、呆気に取られた。
「不服かいな」
「いえ、とんでもない。でも、あなたの一番弟子と言われても…」
 健太は、答えに窮した。
「今日が初めてやからか? それとも、荷が重いからか?」
 西条は、ここぞと思い畳み掛けた。
「お金が無いからです」
 健太は、仕方なしに答えた。
「お金? なんぼ足らん?」
 西条は、呆れた顔になった。
「そんな顔しないで下さいよ。官僚だっていっても、まだ三年ですよ。それに、ペーペーだし、そんなお金があるはずないじゃないですか」
「そやな。無理なことやったな」
 西条は、溜息をついた。
「すいません」
 健太は、素直に謝った。
「ほな。お金があったとして、立候補して、当選したらどないする?」
 西条は、健太の答えが聞きたくなった。
「それは…」
 健太は、俯いてしまったが、膝をもじもじし始めた。
「そやから、言ったやろ。慣れないことせんでもええと」
 健太は、何も言わず膝の少し前に両手を付くとゆっくりと腰を上げた。が、「イタタタタ」と言いながらもなんとか胡坐をかいた。
「無理せんでええ」
「すいません」
 健太は、素直に謝ってから、「さすがに、国会議員や官僚の給与を生活保護レベルにまで下げることは無理だと思います」と西条の眼を見つめた。
「それで?」
 西条は、事務的に尋ねた。
「あなたの言われたとおり、上限を一千万にします。もちろん、政治家も高級官僚もです」
 健太は、思っていることを正直に話し始めた。
「理由は?」
「二つあります。一つは、国民が塗炭の苦しみをしているのに、政治家や官僚は給料を下げようともしない。率先垂範です。もう一つは、給料を下げれば本当に日本のためを思っている人材が集まると思ったからです」
「政治家や官僚は、そんな事思ってないで。そんな事したら、優秀な人材が集まらないと言うてるで」
 西条は、少し意地悪な質問をした。
「そうでしょうか?」
 健太は、西条の質問に異を唱えて、「政治家や官僚の言っている優秀な人材とは、一流大学を優秀な成績で卒業した人物と言うことになります」
「そやろな」
 西条は、相槌を打った。
「頭だけで、日本は良くなりましたか? 頭でっかちの官僚が、日本をここまで追い込んだといっていい…」
「あのなあ」
 西条は、健太の話を遮った。
「何です?」
「あんたは、その官僚の一員やろ。よくそこまでこき下ろせるな。それに、三流大学出身やそうやな」
 西条は、呆れた顔をした。
「私が、鬱憤を晴らすために言っていると思っているのですか!?」
 健太は、知らないうちに真剣な眼で西条を見つめていた。
「そやない」
 西条は、反対に健太に気圧された。
「やる気が無い。頭だけで考える。数字だけで判断する。優秀といわれる官僚よりも、馬鹿でも、本当に国民のためになることを考えられる人材が、本当に国民のための人材ではないでしょうか」
 健太は、話し終わると真剣な顔で西条を見つめた。

「あんた、変わったな」
 西条は、健太に向かってしみじみとした声をだした。
「え?」
 健太は、西条の態度に困惑した。少し、熱くなってしまった自分をその時に感じた。
「わての、一番弟子ちゅうことは、柳田の孫弟子ちゅうことや。分かるか?」
 西条は、いきなり話題を変えた。
「そういうことになるでしょうか?」
 健太は、困惑した。
「それから、言うとくが、柳田に弟子はない。つまりあんたは、柳田の直系ゆうわけや」
 西条は、嬉しそうな顔をして、「今日から、みっちり鍛えたる。そやから、日本をあんじょうしなさい」と厳しい顔で健太の眼を見つめた。
「でも…」
 健太は、意外な展開に戸惑ってしまった。それに、弟子と言う古風な言い方も少し気になった。
「もちろん、全部柳田と同じことをやれと言うとるんとちゃうで。あんたが、日本のためと思ったら、遠慮せんでええ。何ぼでも応援したるがな」
 西条の言葉に健太は、「供託金が払えないんですよ」と俯いてしまった。
「供託金ぐらい、払ったる。わてに、任せとき」
 西条は、事も無げに言った。
「三百万円ですよ。三百万」
 健太は、西条の言葉に不安を持った。
「一人分ぐらいの蓄えはあるで」
「まさか…?」
 健太は、驚いて、「だれかを立候補させるために?」と、確かめたくなって尋ねた。
「そうや。誰もおらなんだら、わてが立候補しようと思てたんや」
 西条は、健太が驚いた顔をしたのに気が付くと、「おかしいか?」と、尋ねた。
「いえ」
 健太は、西条ならやりかねないと思った。が、「そんな大切なお金を…」と、恐縮してしまった。
「わてより、あんたの方がええに決まってるやろ」
 西条は、健太を見ながら、「わてみたいな老いぼれより、若いあんたの方がええのに決まってる」と、一人で納得した顔になった。
「でも、選挙に落ちたら?」
 健太は、恐る恐る西条の顔を見た。
「わての眼力が無かったと諦める。あんたが一生懸命やっても落ちたら、選挙民があほやと諦めたらしまいや」
 西条は、それが当然のように笑った。が、「大学を出て三年やね? じゃあ、二十五は過ぎていることになる」と、ほっと胸を撫で下ろした。
「すいません。一浪したんで、二十六です」
 健太は、仕方なしに答えた。
「少しでも、歳をとってた方がええ」
 西条は、変なことで喜んでいた。が、「この事は、暫く内緒やで」と、健太に念を押した。

 健太は、西条からみっちり? と、教えられていても、年金体験に変わりはなかった。
 一週間に一回、美咲がビデオを替えに来るときにルーレットを回し、ルーレットの出た目の通りに生活するスタイルは、何一つ変わっていなかった。最初の日は、美咲や白石たちが密着するので、健太はただ普通に振舞っていれば良かった。
 残りの六日は、外出するときにビデオ片手に自分の買い物や外での行動を逐一ビデオに収めるしかなかった。そんな行動も自然となじんできたことが不思議だった。最初の頃は、迷惑そうに見ていた店員とも次第に親しくなり、冗談を交わせるまでになった。

 囚人? のような監視される生活姿も板につき、あまり気にならなくなった頃、ルーレットを殆んどやりつくした頃、永田町がやかましくなった。
 誰もが、選挙が近いと疑わなくなった頃、首相も肯定するような言葉が多くなった頃、健太は腹をくくった。

 この時点になっても、不正を働いた猫野手とその上司の処分が決まっていなかったのは言うまでも無い。見直すといった大臣も、年金に言及することは避けていた。
 処分が決まったのは、野川啓太だけだった。理由は、身内に甘い官僚が、官僚を批判した野川が身内ではないと判断したことと、誰かを処分しないと官僚の立場が危うくなると判断したからにすぎなかった。国民のことは当然考えていなかった。
 表向きは年金体験の途中、スナックで豪遊して年金体験を勝手に辞めたことで国民の信頼を失ったということであった。
 他に誰も処分しないやり方は、国民に受け入れられる訳は無かったが、官僚は、そのうち忘れるはずだと、自分に都合の良い考えでやり過ごそうとした。国民が怒っても、何もできないと高をくくっていた。


7.尾上美咲

「やだあ。そんなこと約束したの?」
 西条から猛特訓を受けて一ヶ月ほどたったある日、健太から立候補の話を聞いた美咲の第一声だった。
「何だか、難しい話を西条さんと始めたと思ったら、選挙に出るですって?」
 美咲は、呆れた顔で、「もう年金体験は、あなたしか残っていないのよ」と言いながら天井を見上げた。
 健太は、美咲の言葉に改めて最後に残った一人であると思い知らされた。
 キャリアは優秀だと思い込んでいた、自意識過剰の黒田秀年は、あっさりと落伍した。
 残された六人のうち健太を除いた五人は、半月もしないうちに続けて年金プロジェクトから消えていった。残されたのは、健太一人になっていた。健太が出ている番組は、相変わらず高視聴率を稼いでいた。
「いいじゃないですか」
 白石は、他人事のようにカメラを構えながら言った。
「白石ちゃん。どういうことか、分かってるの?」
 美咲は、白石に食って掛かった。
「選挙に立候補したら、テレビに出られなくなる。番組は、打ち切らなければならない」
 白石は、他人事のような口ぶりで、「そっちのほうも面白そうだ」と低く笑った。
「そんな…。選挙が始まったら、番組はどうなるの?」
「公示前なら、文句はないでしょう」
 白石は、美咲の怒った顔をファインダー越しに見ながらも他人事のような口ぶりで答えた。
「まだ、始まったわけじゃないですよ」
 川田が、口を挟むと、「立候補するなら、年金体験を辞めなければならないでしょ」と、川端まで口を挟んできた。
 美咲は、白石たちを睨みつけながら、少し考えていたが、「そうね」とあっさり同意した。が、健太に向き直ると、「当選したら、また出演お願いね」と、猫なで声を出した。

「出演? どういう事?」
 健太は、呆気に取られた。今度は、何をやらせるつもりだ?
「だから、あなたの選挙に密着するの」
「密着が好きだな」
 健太は、呆れた。
「だって、ど素人のあなたが当選したら、視聴者はあなたの事を知りたがると思わない? それに、政治に関心を持つ。いい事じゃない?」
「おい。待てよ。当選すると決まった訳じゃない」
 健太は、美咲が当選が決まっているような顔をしていることに驚いた。
「柳田代議士の直系でしょ」
 美咲は、呆れた顔になり、「何か凄く古めかしいけど」と付け加えた。
「見てたんだ…」
 健太は、美咲を複雑な顔で見ると、「やっぱり囚人だ」と、溜息をついた。
「当たり前でしょ。ビデオはずっと回っているのよ。全部見るわけにはいかないけど、大まかな内容は分かっているつもりよ」
 美咲は、してやったりという顔をして、「もちろんその場面は放送できないけど、あなたが当選したら改めて放送する。凄い視聴率になるわ」と、健太が当選したような顔で喜びだした。
「でも、そんなに古めかしい?」
「そうよ。吉田茂の吉田学校じゃないんですから」
 美咲は、呆れた顔をした。
「いつも、こんなの?」
 健太は、呆れながら白石に尋ねた。
「まあ、だいたい。でも、今回は特に力が入っているかも」
 白石は、少し呆れた声で答えた。
「いいじゃない。健太さんが当選したら、世の中変わるのよ」
 美咲は、健太が当選すると決め付けて喜んでいた。
「理由は、聞かないの?」
 健太は、美咲の態度に首をかしげたが、「ビデオを見れば、それぐらい分かるんだから」という美咲の言葉に改めて驚かされた。
「西条さんに、丸め込まれただけじゃない」
 美咲は、面白そうだからと思い少しいじめてやろうと思った。
「そうかも知れない。でも、誰かがやらなければ、日本は良くならないじゃないか」
 健太は、美咲の言葉に怒り出した。
「それが、あなた?」
 美咲は、疑った眼を健太に向けた。
「…」
 健太は、美咲の言葉に自信が揺らいだ。
「頑張りなさい」
 美咲は、健太を笑顔で見ながら、「一番弟子の、健太さん」と言って肩をぽんと叩いた。
「そんな…」
 健太は、困った顔をした。

 美咲は、健太の困った顔を見て、「冗談よ。冗談」と言ったものの、「あなたの決心は、良く分かった。だから、もう止めない」と今度は真剣な顔で健太を見つめた。

第二部 年金体験 「終」「THE END」「FIN」

目次

第一部 年金の星? 誕生

第二部 年金体験
 今ご覧になったところです

第三部 嵐健太の決意 続きを見る

あとがき
※近日公開予定

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