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どのようにしたら難聴の人に補聴器で貢献できるのか

どのようにしたら難聴の人に補聴器で貢献できるのか。ここは、今なお続く私の中にある問いかけの一つだ。

今現在、難聴は残念ながら治療する術がなく、その状態を良くしていくのであれば、補聴器をつけてよくしていくしかない。

しかし、補聴器も完全ではない。補聴器をつけても聞こえにくさは残るし、人によっては、ほとんど効果がない場合もある。

耳という器官は非常に複雑で、音を感じ取る神経が悪化している以上、それを補聴器で物理的に良くすることは可能なのか?と、生まれつきの難聴者でかつ補聴器を使っている身としては、疑ってしまう。

難聴の改善は、今なお難題が続く要素の一つだろう。

自分自身が難聴者で、かつ、このような現状がある中で、私は同じように聞こえにくさを抱えている方に対し何ができるのか。そのことに悩み続けてきた。

技術、スキル、知識の先

20代の頃は特にそうだったが、技術やスキル、知識を身につければ、よくなるものだと思っていた。

耳を治すことは無理でも、現状を良くすることはできる。さらにそれを提供できれば、少なくとも良い状態にはなるはずだ。そんな思いがあった。

だから補聴器のことや耳のことも学んだし、自分自身でなるべく結果が出るようにも努力するようにした。

しかし、それらを重ねるうちにある疑問を抱くようになった。私は、本当に難聴の人に貢献できているのか、と。

私自身もそうだが、補聴器を求めている人は、補聴器を求めているわけではない。聞こえにくいことによって起こる不便さ、不自由さを解消したいと思っている。

私も聞こえにくさを無くして、耳のことを気にせず、人とお話しできるようになりたいし、聞こえにくいので、人の輪に入りづらいということを無くしたい、さらに仕事で聞こえにくいことで不当に何か言われるのも無くしたい。

自分自身もそうだったので、言わないにしても難聴の人は、多かれ少なかれ、そんな感情を抱いているのではないかと思っていた。

だから、改善について、なるべく良くできるところはしてあげたいし、そういった気持ちになるべくならないようにできるのがいいと思っていた。

しかし、補聴器による聞こえの改善には、限度がある。仮に業界の基準的にこのぐらい数値が出ていればOKというラインがあったとして、果たして、それを達成すればそれで良いのか。そこに疑問を感じるようになった。

確かに業界的にはいいかもしれない。どんなものにもある程度の基準や考え、方向性は必要だ。しかし、それを達成することが、そのまま難聴の方が求めているものなのか。ここがわからなかった。

難聴の人が求めているのは補聴器ではなく、聞こえにくさがなくなった生活であり、そのように考えて対応しても、それは手に入らないからだ。

そのことを考えるようになった後、私は答えのない迷宮に迷い込んだ。何を基準に補聴器で改善していけば良いのか、どのようにしたら、本当の意味で難聴の人に貢献できたと言えるのか、それが全くわからなくなってしまったのである。

そしてこれは、知識、スキル、技術を得れば解決できるという類のものではなかった。

最善を尽くす、という考え

上記のような考えは、20代の頃からあったが、30代に入ってより明確になってきた。どのようなことができれば、難聴の方に貢献できたと言えるのか、補聴器で聞こえを改善するという行為を見た時、どのような貢献ができると良いのか。それを自問自答することになる。

自分なりに本を読んで勉強したり、いろいろな本を読んだつもりだったが、自分としては、明確な答えは得られないままだった。

そんな時、Netflixで、あるドラマがヒットしていた。賢い医師生活というドラマである。

何気なくこのドラマを見ていたのだが、そこには、自分が求めていた答えがあった。それは、最善を尽くす、という考えだ。

このドラマは、救急病棟で、救急車などの緊急な病気、事故、そういった患者が運ばれてくる病院で働く40代の仲良し男女5人組の日々の日常を描いた物語だ。

救急病棟で働いていることもあり、職場からの呼び出しはしょっちゅうだし、40代になってくると部下もできてくるし、家庭もできてくる。仕事から家庭まで、目まぐるしく忙しい40代に焦点を当てたドラマになる。

私が注目したのは、仕事に関する姿勢だった。救急病棟ということもあり、救える命もあるが、残念ながら救えない命もある。手術やコトの大きさから考えると補聴器よりもとても重いものが多い。

その中で、難しい手術や難しい局面に立たされた各キャラクター達は、一様にこういう「最善を尽くします」と。

あるキャラクターは、いう「患者さんに対して、絶対にできると言ってはいけない。私たちができることは、最善を尽くすことだけであり、手術を成功させるとか、必ず良くなりますとか、そういった希望的観測は言ってはいけない」(確かこんなニュアンスだった気がする)

ここに私は、自分自身が抱えていた悩みの解を得た。

できることを真面目に行う

命がかかっている局面に立たされたら、どのような人も「できます」とか、「必ず成功させます」とか、そのような希望の言葉をかけてくれる人がいいように思う。いう側はともかく、言われる側は、その方が嬉しいかもしれない。

しかし、そのような状況の場合、大抵は、難しい手術だったり、状況としては、かなり悪いことが多い。

救急病棟なんて、その代表格だ。むしろ難しい事例しかなく、簡易的なものは、他の病院で治療してしまっているだろう。

では、そのような場合、対応する側としては、どのようなことができるだろうか。どのような貢献、支援がそのような方々にできるのか。それは、最善を尽くすこと、ここしかできない。

手術がうまくいくように最善を尽くす、手術の予後が良くなるように最善を尽くす。このぐらいしかできない。

これを聞いた時に私は一つの解を得た。自分の中で、お客さんに対し最善を尽くせたか、それだけを考えれば良いということに気がついた。

補聴器においても同じである。補聴器では、耳を治すことはできない。だから、どんなに数値が良くなろうと、どんなに業界の基準を満たしても、どこかしらで聞きにくさや不便なところは出てきてしまう。

補聴器では耳を治すことはできない。そのような状況を受け入れつつ、では自分は、その中でお客さんに最善を尽くせたかどうか。他にできることはないだろうか。そもそもどのような状態になれば、お客さんに対し、最善を尽くせたと言えるのか、そこを考えるようになった。

そして、そのようなことを自分の頭で考えることの大切さを知った。なぜなら、このようなことは、知識、スキル、技術とは、また違った要素だったからだ。

結局は、できることをするしかない。それも真面目に。

キリスト教の教えの中にニーバーの祈りというものがある。その内容は、

神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

になる。

補聴器で耳は治せない。は、残念ながら変えることができない事実だ。しかし、補聴器による聞こえの改善や難聴の方に最善を尽くすというスタンス、仕事の在り方は、変えられる。

そして、知識やスキル、技術というものはそのためにあるのだということも気づいた。

最善を尽くすこと。そのために知識やスキル、技術がある。知識やスキル、技術は、主人公ではなく脇役なのだ。

そのことに気がついた時、ようやく私は前を向いて歩いていけるようになった。

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