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自転車に乗れるようになった時の話

2020年5月5日に我が家の長男坊が自転車に乗れるようになった。父として息子の自転車練習に付き合う中で、いろんな葛藤があった話。

さかのぼる事5日前。公園で偶然、保育園の友達に会った。緊急事態宣言下で保育園に通えない長男坊は、久しぶりに会った友人と元気に遊び始めた。はじめは微笑ましく眺めていたが、鬼ごっこしている様子を観察していると、「〇〇君に追いつける訳ないよ」とすぐにあきらめている様子が気になった。何とか努力しようという様子が見えない。ドラえもん好きの長男坊が、のび太君みたいに練習しないですぐにやめてしまう事は前から気になっていた。

ちょうど同じ頃に長男坊は、自転車の補助輪を取りたいと申し出てきた。仲の良い子が補助輪を外した自転車で遊びに来たからだ。これは良いチャンスだと思った。今まで何かを息子に強制するという事はやってこなかった。特に習い事もしていないし、小さいうちは好きな事を好きなようにやればいいという方針のもと、あまり口を出さずに来た。でも、今回はちょっと父である自分が引っ張って、練習を強制させてみようと思った。練習すれば必ずできるようになるという事を体感して欲しかったから。

そうして始まった自転車の練習。ゴールデンウィーク中に乗れるようになるという目標も立てた。ただ、当然すぐに乗れるようにはならない。はじめは乗り気だった息子も案の定、「もうやめたい」「自転車は嫌い」と言い出す。でも、今回はゆずらないと決めている。「ダメ、やりなさい」と強い態度でどれだけ練習するのかを約束して、その約束は絶対に守るように厳しく接した。

しかし、それでも乗れるようにはならない。というか乗れる気配がない。小さい時から乗り物で遊んでこなかった長男坊。ストライダーで遊んでいた子はすぐに自転車に乗れると聞くが、長男坊はストライダーにも全く興味を示さなかった。乗り物の上でバランスをとるという感覚が育っていないようだ。

練習を嫌がる長男坊。成果が見えない状況。だんだんとこちらがめげてくる。子どもがやる気ないのに、親が一生懸命になるってどうなん?本人のやる気ないのに強制させているのは自分の理想を子どもに押し付けているからではないか?などという考えが頭をよぎる。一方、ここで練習をやめるのは子どものやる気を言い訳に親である自分が諦めているという事ではないか?とも思う。そんな諦めた自分の姿を子どもは見ている。子どもが練習せずに、すぐにできないという事と自分の態度は決して無関係ではない。

やはり、今回は踏ん張ろうと決める。やり方を変えて、いったん自転車から離れてストライダーに戻る事にした。友人からもらったサイズの大きなストライダーが家にある。長男坊が興味を示さなかったので、片隅に追いやられていたがそれを引っ張り出してきた。すると、2日間の特訓が効いたのか、ストライダーのサイズが身体に合ったのかわからないがすぐに上手に乗りこなしたではないか。

そこからは早かった。「できる」感覚をつかんだ長男坊は何かスイッチが入ったようで、黙々とストライダーをやりはじめた。それから自転車に乗ってみると、うまく一人で乗れた。長男坊は、とても嬉しそうな表情をしていた。小さな事だけど、妻も自分も一安心。

今回の件は親としても学びがあった。何よりも自分が持っていた無意識の前提を見直す機会になった。私は、子育てについては強制するよりも自発性に任せようと思ってきた。無理に何かを「させる」のではなく、息子の中にある自発性に委ねようと思ってきた。ここに自分が意識していなかった前提がある。それは、「する」か「させる」か、言い換えると能動か受動かという視点で子育てを考えてきたことだ。そもそも、自発性って何だろうか?子どもは様々な相互作用の中で生きている。もちろん親である私とも。他者から何の影響も受けずに、純粋に生まれる自発性って存在するのだろうか?自分は息子を創っている一部だし、息子も自分を創っている一部だ。今、感じているのは「する」とか「させる」にこだわらず、息子と一緒につくる事の大切さ。できるようになるプロセスを一緒に創る。それが大事だと思っている。

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