3.正当な理由で家を出たい(高校時代) 都会に生まれたかった
偏差値で決めることは出来ないとはいうけど
地元の誰でも受かるとバカにされるその高校は荒れていた。『お金かして』とカツアゲは日常茶飯事。問題になっても『お金貸してもらおうと思っただけ』と逃げる。慣れたもんです。咥えタバコで通学する風景も見慣れていきました。ヤンキー多かったです。バイクが校内を走る。ちょっとしたイベントです。喧嘩やゴタゴタに授業が止まったり、テストが返ってきたタイミングでいちゃもんをつけて、先生に点数をあげさせるなんてこともありました。卒業式や文化祭には警察が来ました。
ただ時間が過ぎるのを待つ
楽しいことはなかったと思う。変な事件やゴタゴタに巻き込まれないように過ごした。なるべく人と関わりたくないと思った。1人でお弁当を食べていたら『一緒に食べようよ』とか言ってくれる普通の人もいた。だけどもう誰が安全か分からないから、めんどくさくなっていた。ヤンキーとも関わりたくないけど、群れる女子はもっと苦手だった。早く卒業したい。毎日思った。
進路を決める
看護師になることは決めていたので進路を決めることについては悩まなかった。父は、私の進路について『短大にでも行って、保母さんか銀行員になって車で自宅から通勤すればいい』と言っていた。『車はこうてやるけい』と。私は勇気を出して父に言ってみた。『私看護師になりたいんじゃ』反対はされなかった。母は喜んでいた。高校を卒業したら、母が勤めている病院の医院長先生の息子が開業するからそこでお世話になってはどうだろうという話も出た。看護師になることを反対されなかったこと、いずれにせよ看護学校にいきながら、働くので家を出ることは確定していたから、地元でもいいかなと考えたりもしていた。
知らないところで1からやりたい
進路指導の先生と話す機会があった。教師は嫌い。大人も苦手な私だったけど、その日は本当の気持ちを冷静に話すことができた。地元を一度離れてみたいことや実家を出たいことを話した。先生は理由は聞かなかった。『自分がどこまでやれるか試したいと思うことは素晴らしいことだからぜひ挑戦してください』と言ってくれた。高校が紹介してくれる病院や学校、1人で頑張りたいといった私の言葉。両親も納得してくれた。卒業したら家を出ることができる!ワクワクが止まらなかった。進路が決まって父は怒ることが少なくなった。安心しているように感じた。
前から準備してたこと
高校2の夏休みにアルバイトをすることにした。学校も禁止していなかったし、父も母も働くのは良い事として応援してくれた。一般的に怒られるかなっていうことは、何も言わなくてそれ怒る?ってことで怒られていなようなイメージが残っている。アルバイトをして、欲しいものがあった。それはコンタクトレンズ。遊園地で働いた。朝からか晩までアイスクリームを作ったり、お好み焼きを焼いた。時給640円だった。楽しかった。色んな高校からアルバイトに来てて、他の学校のこともたくさん聞いた。『みんな青春しとるなぁ』と羨ましくなった。もっと頑張って違う高校に行けばよかった。努力をしないとこんな目に遭うのかと思った。次は失敗しない。強い決意が湧いてきた。夏休みが終わったら『脱メガネデビュー』をして、勉強を頑張って、次は失敗しない。
振り返ればわかること
高校生活は私の人生の中でしょうもない時間だったと思っていたけど、色んなタイプの人にあったことはよかったと今思える。一括りに素行の悪い子と言っても、見た目だけで、考え方で言ったら私の方がずっと逸れている感覚がした。素直な子、話すと可愛い子、無邪気な子、夢を持っている子、自分を表現する方法が世の中で認められていないだけの普通の高校生もいた。髪が金髪なだけ、制服姿がどうかしちゃってるだけ、ちょっと反抗したいだけ、遊びたいだけ、だるいだけ。まぁ、あかんとこもあったと思うけど、正直に生きているような気が今はしている。私が大人になったからだろう。この経験は大阪に行ってから役に立った。奇抜なファッションや大声もこの高校生活で慣れていたからだ。危ない人や気を許してはいけない人の特徴もよくわかっていた。なんでも経験だ。悪いことばかりは起きない。
春休み中に大阪に引っ越し
悲しくも寂しくもなく、ただただ自由になれると思った。結局大人になった今、振り返ってもホームシックになった時はなかった。家族は大切だけど、私は自由が好きだ。誰にも支持されたくない。自分の思うままに、自分の責任で全て決める!と考えるとすごくワクワクした。この世の中で一番大切なものは自分のことが自分の意思で決められるということなんじゃないかって思う。
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