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セロ弾きのゴーシュのように

気が付いたら、2月になっていた。
1月はとりあえず流れは速いものの、無事に過ぎた感がある。
自分の内面をふくめ、外側の環境(身近な人間関係、家族など)はいろいろ変化はげしいなあ~と見守っている感じ。
その余波が、私に波となって押し寄せている。
その中で、
自分は自分の軸を冷静に守って整えてる感じ。

そんな中、いままで関わりなかった意外な人が、
ひゅんと自分の圏内に入ってきて、
え?え?みたいな出来事もちらほら。

でも振り返れば、
自分の人生ではそういうことも多々あったから、
対応はある程度わかる。
ああ、そうそう、こうすればいいとわかる。
で、そんな自分を観察している。

宮沢賢治の「セロ弾きゴーシュ」の物語が好きなので、時折思い出していた。

ゴーシュは、町の楽団のセロ弾きなんだけど、
セロが下手だった。

どこで噂を聞き付けたか、
毎晩動物たちがゴーシュの家にやってきて、
セロを弾くようにねだる。

全然そんな気はないゴーシュは、ぶっきらぼうに、毎度下手な演奏をする。

すると、動物とゴーシュと、
お互い不思議にイイ感じになって、帰っていく。

最後は病気の野ねずみの親子がやってきて、
子ねずみの病気を治してほしいという。
ゴーシュは、セロの孔の中にいれてあげる。
そして、不思議に子ねずみは治ってしまう。

そんなこんなで、
いつのまにかゴーシュはセロが上達していて、
演奏会は成功する。

その時、アンコールで「印度の虎狩」を思いっきり演奏する。
みんなは拍手喝采。

大体のあらすじだけど、
子どものころ、アニメ映画でみたのか本で読んだのか、
とても印象が深くてよく覚えている。

ゴーシュのぶっきらぼうな感じと、
動物たちのマイペースな感じと。
なぜか、治ったり、
なぜか、セロが上手くなっていたり。

荒唐無稽っちゃ荒唐無稽な話なのだけど、
この微妙なズレがありつつ心の交流があるところが好きだった。

そのくらいでいいんじゃないか、と。
人との関わり方。

誰かを助けよう、誰かの力になろうというのは、
どこか仰々しい。

調子は変で滑稽だけど、
自分がやることやっていれば、ふしぎに、誰かの役に立つかもしれない。
知らぬ間に、物事が収まるところに収まっている、的な。

セロ引きゴーシュは、
私の場合、
そんな理想的な話だなと。


振り返れば、
メサイアコンプレックスなのか、
苦しんだり、困ってる人をみるといてもたってもいられず、
余計なお世話、お節介をしてた。
で、同情しすぎて自分まで重くなったり、
頼られて負担が重くなったり、
いろいろ重なってストレスで病気になったり。
そういう自分を責めてた。
いわゆる自己犠牲的な。

で、人と関わらない方がお互いのため、
と思って、
ここ数年はこれでも距離を置いてきた気がする。

その練習の甲斐あってか、
この頃はだいぶん客観的に観察でき、
自制心を働かせて、
ほどよい距離で人と関われるようになった気がする。

なにが正解かは難しいけど、
自分なりのスタイルを模索していきたい。

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