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自分に正直に生きるとは

1.幼少期から成人まで

 幼少期の頃から成人しても、しばらく虚勢を張る自分がいた。今思えば、肩の力が入り、背伸びして生きていたのが恥ずかしくして仕方がない。同時に情けない気持ちもある。何でもうまくいくような錯覚に陥り、誇大妄想を抱いていた。当時を振り返ると穴があったら入りたい気持ちだ。

2.理想と現実のギャップ

 自分の理想が高く、競争社会の中で、成績がいいことに価値があると想い込み、数字の評価だけが全てだと思っていた。高校生くらいになると、その価値が正しいことだという伝説は崩壊する。自分の実力をよく知ることができたからだ。挫折の始まりだとも言える。「数字」の価値は卒業した。

3.社会人になって

 社会人になってからだが、今度は他の分野で何か自分に適した価値あるものがないかを探り始めた。数字のような客観的な目標ではなく、充足度は対ヒトが判断し、決める…という「眼に見えないもの」いわゆるソフトな指標の追及が自分には合っていると想い始めた。それはサービスの質であったり、クライアントさんの生の声、そして信頼関係(ラポール)が何より大切なこと(どの業界でも言える)に気づいた。

4.考え方のクセ

 どんなに自分が理解をしようと努力してもダメな場合は必ず発生する。それはそれぞれが育った環境が違うのと同じような感覚に似ていて、「考え方のクセ」というのは中々変えることはできない。嚙み合わない会話や机上の空論などの場面を論理的に示そうと思っても相互理解には、ほど遠い。

5.Twitter上での学習

 Twitterでのつぶやきにはいろんな考え方の人がいて、言葉の選び方の勉強になっている。例えば、険悪な雰囲気やクレーマー、常に怒っている人に対しては、そこから「逃亡」して、人としての距離感を保つことが大事だと…また、人が幸福に感じる時は「暇な時間」と表現されている方がいて、深いなぁと純粋に感じたり…よい言葉選びや表現を学ばせてもらってるのも、この瞬間が自分の人生のデザイン設計をしているように感じることがある。

6.最後に

 このように自分なりの「気づき」を大事にしながら、自分の興味ある視点がブレないように吸収するものが多かった分、いつの間にか虚勢を張り、背伸びして生きていたことを忘れていた。時折、過去の嫌な記憶が脳内再生されることがある。こんな時は数字から卒業した自分を思い出して…全てチャラに…という感じに自分に都合よく考えるようにしている。自分の気持ちに正直に生きるとは過去の自分を清算して「忘れる」ことなのだと…         こころの中を内観し、最近は過去の自分を受け入れられる、振り返りの余裕が出てきたことに喜びを感じる。

 最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

 


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