ボクや

201X年10月22日月曜日の夜、いつものように寝る前の読書をしていた順子に電話が掛かってきた。

「ボクや」

聞き覚えのない声だったが、話す調子が東京に住んでいる次男の真琴のようだったので、「真琴か?声がおかしいね。どうしたん?」

「うん、そうや。実はな扁桃腺が腫れてて膿が溜まってるみたいやねん。何科の医者に診てもらったら、いいのかなぁ。」

「ええっ、ちょっと待ってよ、お父さんに聞いてみるわ。」

離れた部屋で寝転んでテレビを見ている夫にコードレス受話器を持ったまま、「真琴が扁桃腺腫れてて、医者に掛かりたいって。耳鼻咽喉科でいいのかな?」と訊いた。

  周作は起き上がって、「そうや、よっぽど悪いのか?それやったら、救急外来に行くほうが処置は早いぞ」と応じた。日頃、日付が変わっても会社で頑張っている次男の健康が気になっていたので、「やっぱり」という思いがしていた。替わって受話器をとって「救急やったら夜でも診てくれるよ。朝、病院に行ったら、初診やから待つ時間が長いぞ」とアドバイスした。

  近所の木下さんが正月の夜に熱が出て、正月のことで救急車を呼ぶことを控えて、一晩我慢して翌朝自分の車で病院に行った。そこで、正月のことで大勢患者が詰めかけていて、長時間待合室の冷たいベンチで待たされてしまった。やっと診察してもらったときには手遅れだったのだ。そのまま入院したが、結局亡くなってしまったことが頭をよぎり、思わず、勢い込んで言ったが、「うん、うん」と返事するだけだった。

順子が電話を替わって、と手を出したので、受話器を渡した。

  電話が終わって、順子は「真琴に何かあったんかなあ。明日の午前中に書留が届くから、それを受け取ったら、すぐに連絡してほしい、会社の携帯に電話するように、と電話番号を教えてきたけど、会社にも家にも知られたくないような感じだった」と告げた。真琴は心配そうに「近くに母さんの携帯ある?あったら、この番号に電話してみて!」と云うのですぐ応じると携帯が鳴っているのが聞こえたので安心した順子だった。


 関西の大都市のベッドタウンで山際に近いので、都心より3、4度気温は低い。特に秋が深まると朝晩の冷え込みは一層強く感じる。

 40年前に近くの公団住宅に引っ越してきて、そこで夫婦共働きで3人の子どもを育てながら、暮らしていた。当時は隣町に順子の両親が住んでいて、毎朝子どもを預けて仕事に出ていた。

 周作の両親は、車で2時間くらいのところに住んでいたが、二女(つまり周作の妹)を急な病で亡くして意気消沈していたので、実家を引き払って、一緒に住むためにこのベッドタウンに土地を求め、無理して一戸建ての家を建てたのだった。

 そして、その両親もそれぞれ、重度の介護状態を経て、3年前に父、今年になって母が亡くなった。その数年は、年老いた親を持つ同年代の人々と同様、介護保険制度の世界にどっぷり浸かり、訪問介護の受け入れ、介護施設巡りなど悪戦苦闘していた。特に父は大きな男で、彼の身の回りの世話をしていて、周作は腰を痛め、順子は腕の筋肉を傷めてしまった。

  その役割を何とか果たし終えて、少し心と時間の余裕ができ、今年は3回も海外旅行に出かけ、子どもに呆れられていた。

子どもたちは、それぞれ結婚し、忙しく働いている。

 

  その夜、いつも寝つきの良い順子は真琴のことが気になり、なかなか眠りにつくことができなかった。

真琴は近くの街の公立大学を卒業した。そして、就職氷河期だったが、何とか一部上場企業に勤めることができた。それも勤め先は近くの街に所在する支店だった。

  根がまじめな人間で、与えられた仕事を卒なくこなしていた。大学では落研に所属していたので、人当たりは抜群だった。それが吉と出たか、東京本店勤務になったのだ。

それまでは関西弁だったが、東京に行きだして、数か月後出張の途中に家に寄った時には立派な東京弁になっていた。自ら、関西弁と東京弁のバイリンガルや、と威張っていた。

巧く東京の職場になじんでいるようだった。


  数年後、真琴は、東京で社内同期の女性と結婚した。

  その会社は、有名私学の閥があり、会社上部はその出身者で占められている。真琴の彼女は、その有名私学出身で、しかも会社の企画部門に所属する。話もそつなく頭の良さを感じるものがある。なによりも育ちの良さが全身に出ていて、しかも控えめな性格のようだ。藤木夫婦が真琴に紹介されたとき、これはお似合いだと心から思ったものだった。

ただ、少し事情があり彼女の母と同居する必要があったのだ。真琴は年上に取り入るのが上手いので、それは問題ないようだった。賃貸マンションで新婚家庭をスタートした。


ハネムーン期間が1年経たない頃に、難題が持ち上がった。

  それは、公務員の義妹が結婚することになった。しかし、同じ公務員の夫と所帯を持つための公務員住宅に空きがないため、その狭いマンションに同居するということになったという。人一倍気を遣う真琴のことだから、ますます居場所がないのでは、とヤキモキしていた。彼は大学を出るまでは外で大便ができなかった。2,3泊の旅行の際は、ずっと我慢をしていて、家に着くなりトイレに籠ることが常だった。そんな人間が他人夫婦を狭いマンションでトイレを共用できるのか他人事ながら心配したものだ。  

  それが昨年暮れ、東京郊外に高額な住宅ローンを組み、建て売りの一戸建てを買って、やっと義母と三人の生活を始めることになったのだ。

仕事も忙しそうだし、新しい生活が始まり、それなりの心労もあるのだろうな、家に内緒の話なのかな、と考えればきりなく頭の中でストーリーが広がっていく順子だった。

翌 朝

  まんじりとしないうちに朝を迎えた。夜半から降り出した雨が一層ひどくなっている。午前中、テニスをする予定だったが、これでは無理。真琴への書留が届くのを待つのにちょうどよかった。

10時過ぎに順子の携帯が鳴った。急いで出ると真琴からだった。

「かあさん、今朝、病院に入ったら、扁桃腺がかなりひどく腫れていて、原因はストレスと睡眠不足と言われた。それでぇ、まだ書留は着いてへん?」

「まだやけど、どうしたの?」

「実は・・・・・・・・・・」と長い無言が続いたが、受話器の向こうで俯いている真琴の顔が浮かび、順子は思わず「どうしたの?離婚でもするというの!」と気になっていることを口走った。

「違う、実は・・・・。不倫して妊娠させてしまってん。会社の女の子や。堕胎したんやけど、相手のだんなにバレて、示談になったけど、治療費として100万円を請求されている。金曜日がその期限やったけど、払えてないねん。それで、裁判所から書留で書類が来たら、もうおしまいや。サラ金から借りる準備もしたんやけど・・・・・。それで、かあさん、すぐに用立てできるお金ある?」

「100万円で足りるの?この前、定期が満期になって、自由になるお金が普通貯金があるからいくらでも言ったらいいよ!」

「今、先輩のお父さんが弁護士で、その人に相談しているんやけど、その弁護士が裁判所の手続きを止めてくれるてるから、届いてないのかなあ。できるだけ早く100万円振り込まないと、裁判所の手続きが終わってしまったら、それで終わりやから、それまでに欲しいねん」

「そんな重大なこと、お父さんに相談してからにしたらどう?」

「いや、恥ずかしいから、改めて僕の口から直接言うから、今はお母さんのところで留めておいて」

「そしたら、通帳を見て、どれから出すか決めておくからね。」

「振込みはATMで頼むわ。そのATMに着いたら、電話して。そのときに振込先を言うから。銀行なんかで係員のいるところやったら、振り込め詐欺と間違われるから、外の無人のところで言うたようにメモしてほしいねんけど、そんな場所ある?頼むわ、できるだけ早く」

「うん、ちょうどK駅の銀行の外にお茶を飲むところがあるから、そこで書くわ」


順子は、心臓がバクバクしたまま、周作のところに来て、

「真琴は黙っとけ、言っていたけど、こんな重大なこと、言わないわけにはいかないわ。あのねぇ、真琴が不倫して、その主人から慰謝料100万円要求されてるそうよ。しかも、もう期限が過ぎてて、裁判所の書類が届いてしまったら、すべてばれてしまう見たいなの。100万円をどの通帳から出したらいいの?」

「そうか、真琴がなぁ。あいつもマスオさん状態でストレスが溜まってたんかなぁ。ほんとに信じられんなぁ。ネットバンキングの残高は60万ほどしかなかったから、「ゆうちょ」とS銀行から50万ずつ下ろして振り込んだろか。そんな急いでるんやったら、K駅前のATMを使おうか。あそこは郵便局やS銀行が揃ってるから、便利や」

K駅へ

急ぐらしいということで、ジャージーと古ぼけたジーパン姿という家着のまま、ローレルに二人乗り、信号無視気味に駅に急いだ。ここは大都市の中心から郊外に延びている私鉄沿線のターミナル駅だ。

少し紅葉が始まった駅まで一直線の道路を走りながら、駅の建物が目の前に見える交差点で信号が赤になった。そのとき、周作は独りごちた。

「それにしても、真琴も大変やなぁ。しかし、6000万のローンを組んで、新築の家を買うたとこやのに、100万の金も用意でけへんのか。それにしてもおかしいな。ほんとに真琴かぁ?」

夫のいつもの独り言に順子は気になってきた。昨夜から、あのゆっくりした話し方は真琴に間違いないと思い、電話の向こうに真琴の項垂れた姿が見えていたのだが。

胸騒ぎがしてきた。

「一度、真琴の携帯に掛けてみようか。」

「うん、そうやなぁ」

順子は、すぐ目の前にK駅が見える信号が青に変わりそうなタイミングで真琴の携帯に電話した。

呼び出し音が2回ですぐに返事が返ってきた。

「かあさん、何?」

「もしもし、真琴か?」

順子の声が上ずって、思わず大声になっていた。周作は信号が青に変わって、アクセルを踏みながらも、電話の会話に一心に耳を傾けていた。

「かあさん、いまごろ何?なんかあったん?」と再び明るい声が返ってきた。彼は私たちと話すときは瞬時に関西弁に切り替えることができる。

「ほんとに真琴?不倫したんと違うの? 扁桃腺腫らしてるんと違うの? ええぇ~。これって振り込め詐欺に引っ掛かりそうになったわ。今からお父さんと真琴に100万円振り込みに行くところだったわ。」

「それはアカンわ。今から警察に行きぃ。ほんとに二人してなにやってんの」

息子はいつもと違う緊張した声で忠告してくれた。

「もうちょっとのとこでひっかかるとこだったわ。これから警察へ電話する?」

「真琴の言うように警察に行こう。この近くの警察といえば、駅前の交番所や。」

周作はそういって、駅ビルにあるスーパーの駐車場に車を入れた。

交番所

駅ビルのはずれに派出所がある。人が居るかどうかわからないようなガラス張りの施設だ。ドアを開けて、カウンターの端に座っていた年配の警察官らしき人に、周作は勢い込んで告げた。

「今、振り込め詐欺に引っかかりそうになってもうすぐ犯人から電話が掛かってくるのですが・・・」

「ワシ、警察官やなくって、アルバイトですわ。ちょっと奥にいって、警官呼んできますわ。」

出てきた警官は若い今年、警官に成り立てのような青年だった。

「いつごろ電話掛かってきました?どんなことをいっていました?」

「それどころやないんや。今、まさに犯人から電話が掛かってくるのに、いったいどうしたらええの?」と周作は、声を荒げて叱りつけるように云った。

「本署の振り込め詐欺担当に電話をしますので、少しお待ちください」

「担当が出ましたので、お話願えますか?」

正雄は受話器を受け取って担当の話を聞いた。

「昨夜のいつごろ電話がありましたか?それでどんなことを言っていたのですか?」

これが警察のマニュアルなのか同じことを聞きかえす。

「それどころやないんですよ。今、振り込め詐欺の犯人からの電話が掛かってくるから、逆探知などの対処をすれば、犯人逮捕のきっかけになるかもしれんと思って、ここへ来たのに、何を悠長なことを言ってるの」と周作は憤慨して言った。

そうすると詐欺担当は憮然とした様子で「電話を替わってください」としか言わなかった。周作はあきれて、受話器を若い巡査に返し、これではどうしようもない。こんな状態では、犯人は捕まりそうにないから帰ろうと思ったら、奥から中年の警官が出てきた。

周作が「これが相手の携帯の番号です。」と犯人の携帯番号を書いたメモを見せた。

すると、中年警官は

「彼らは盗んだ携帯などから電話するから、そこからはアシは付かないんですわ」

と言い放った。

順子の携帯が鳴った。犯人からだ。

派出所内の空気がピンと張った。

順子は派出所の隅に行き、ほかの音が入りにくいところで、電話に出た。

「ボクやけど、用意できた?」

「うん、できたよ。今ATMの前」

「誰も人いてない?」

「うん」

「振込先の口座番号いうからメモしてくれる」

「うん、用意できてるよ」

「ゆうちょ銀行 048 な 13××××やで。振込先の弁護士の名前が「たなか やすひこ」や。いっぺん、復唱して」

「郵貯銀行 048 13・・・・」 「048 「な」が入るでぇ。なにぬねのの「な」や」 

「判った。そしたら、振り込むわ」

「振込みが終わったら、もう一度電話してな」

「うん、わかった。」

順子は受話器を置いて、周りを見た。みんなが固唾を飲んで、電話のやり取りを聞いていた。

年配の警官が、口座番号を交番備え付けのパソコンに入力した。

「これは福岡の口座ですわ」

「へぇ~。えらい遠いところへ振りこむんやな。息子は東京に居るのに、弁護士は九州かいな。」

「さあ、後は警察の仕事やな。頑張ってもらわんといかんわ」周作は皮肉っぽく言った。

若い警官が、「住所と連絡先を聞かせてください」と順子に訊いた。

「M市W町 5丁目13番地 藤木順子です。」

「年齢は?」

「何でそんなこと聞くの?65やけど」

「息子さんの名前は?」「真琴」

「お歳は?」

「なんで息子の歳まで要るの。」若い巡査はばつ悪そうに黙っている。

仕方がないので「33」と応えて、派出所を出た。

「あれでは捕まらんな。口座の閉鎖や、こちらが話しているときに逆探知掛けるとかするのが普通や。しかし、彼らは全くそんなそぶりも見せんかった。本気で捕まえる気ないんや。アホらし。買い物でもして帰ろ」と周作はごちた。


そのとき、順子の携帯がなった。ドキッとして、画面を見たら、真琴からだった。

「あれから、どうなった?気になるから電話してるんやけど」

「今、交番所に言って、一部始終を話し終わったところよ」

「とにかく、息子を信用してぇや。もう歳なんやから二人で気をしっかり持ってや。年末にまた帰るけど。職場でこの話をしたら、みんなで大爆笑やったで。さすが関西の親。面白いネタを提供してくれたと絶賛してたわ」


買い物しているときに、再度電話が鳴った。

「もう振り込んでくれた?まだ入金されてないけど」


順子は何も言わずに周作に携帯電話を渡した。

「もうええ加減にせえや!若いのにあこぎなことはやめとけ!」


帰り道、先ほどと同じ信号で止まった。

「ここで停まらんかったら、そのままATMに行ってたかもしれんなぁ。危なかったよ!ネットバンクに100万円の残高があったら、昨日のうちに振り込んでたかもしれん。本当にぞっとするわ。」周作が深い安どの気持ちを込めて呟いた。

「私も昨日から何か引っ掛かってたんよ。でも、早くしないといけないという勢いで来てしまったから立ち止まることができなかったわ。

考えてみれば、扁桃腺が腫れて膿が溜まってる、と言っていたが、見えるわけないのに、その時に気が付かないものね」

「真琴がすぐに電話に出てくれたからよかったんや。これで、会議中とかで電話に出なかったら、そのままATMやった。ある意味、運がよかったんや。

これで振り込んでいたら、かっこ悪うて誰にも言うてないやろうな。警察にも。こんな人は多いのと違うか」

「これからはお互いに気を付けないと」



 201X年3月9日午後8時過ぎ。家の電話が鳴った。最近は携帯電話でやり取りをしているので、家の電話が鳴る頻度は少なくなっている。テニス仲間か順子の姉の孝子さんからかなと思っていた。隣の部屋で順子が受話器を取り、すこし話をして、夫のところに怪訝な顔をして受話器を持ってきた。そして、受話器を遠ざけて、周作に小声で「また、あの電話だわ」と言った。そして受話器を渡す。

「もしもし」と周作は応答した。

「あの~。」ガチャッと切れてしまった。

「また架かってきた。今度は「真琴や」と云ったわ。「耳の下にグリグリができて痛いんや」と。あの時と一緒よ。それに、最初から、真琴と云っていた。ちゃんとあの時のことが記録に残されているんやね。もう何年になるかな?向こうのリストに、もう少しで成功しそうな家となっているんかなぁ」

周作は

「惜しかったなぁ。もう少し話を延ばして、こちらに繋いでくれたら、いろいろと訊きだせたのにぃ」と応えたが、犯罪者にすれば、3年経ったらカモの相手はもう以前のことは忘れていると思っているのかもしれない。

 

202X年12月12日の昼下がり、

電話が鳴り、順子が取った。「市役所ですが、累積医療費の払い戻しについてお伝えします。もう11月半ばの支払期限が過ぎていますが、まだご請求がなかったので、電話させてもらいました。藤木さんは平成25年から30年までの5年間で2万3千3百68円の払い戻しを受けることができます。銀行の口座番号を教えていただくとそこに振り込ませてもらいます。藤木さんのところはどこの銀行ですか?」

「私のですか、主人のですか?」

「藤木周作さんのです」

「ではS銀行です」

「そこの口座番号を教えていただくと銀行の掛から連絡があり、振り込まれる手続きが開始されます」

「今、主人がいないので、こちらから電話かけなおします。そちらの番号は何番でしょうか」

「そちらの電話代が勿体ないので、こちらから昼頃にまた電話させてもらいます。」

「市役所のどなたでしょうか?」

「健康保険課の前田です」


その後、電話はなかった。

「天災と振り込め詐欺は忘れたころにやってくる、ということか」

周作はため息交じりに独りごちた。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

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