映画「杜人(もりびと)〜環境再生医 矢野智徳の挑戦」を観て#412
昨晩、友人のすすめで、ドキュメンタリー映画「杜人」を観た。
本当に素晴らしいドキュメンタリーだった。
何かこの映画をみて感じたことを、忘れぬうちに残しておきたい。
静かなる再生
なんか、この映画をみて、私はものすごく嬉しかった。色んな意味で。
全然涙する映画ではないと思うんだけど、なぜか涙が出て、心が震えたところがあった。
具体的にはどんな文脈かわからないのだけど、普段とても穏やかで優しい矢野さんが、ものすごく怒るシーンがあった。
「いのちの責務」をないがしろにするシーンだったと思う。
そして、とてつもなく響く言葉があった。
なにか、この言葉に勇気づけられたように思う。
自分もそうでありたいと強く思う。
私は、今になって、ようやく、この地球を癒したいと心の底から思うようになった。
それは今起きている悲痛を、少しずつ、我がごとのように感じるような感覚が涵養されてきたからに思う。
この世の歪さを感じることが増えて、生きにくさを感じることも多い。
だが、一方で、少しでも地球のためにと思って、そう思って、この世界をみると、矢野さんのように、もう何十年もそのために活動している人がたくさんいることにも気づいていく。
静かに、ゆっくりと、あきらめずに。
それを感じると、パワーがみなぎってくる。
環境再生医
今回、密かに驚いたことは、矢野さんが造園家だということ。
造園家にこんなイメージは全くもってなかった。
そうかと。
地球を癒すことを目的にした途端、すべての仕事が、環境再生医になる可能性があるのかもしれない。
そんなことを思った。
いや、今書きながら、冷静に考えると、今ある多くのブルシットジョブだと思うし、なくなるべき仕事や業界はめちゃくちゃある。
それでも、なんだろう。その人の培ってきたリソースを健全な形に発揮できることは間違いなくて、誰もが環境再生医になれるはず。
そうなるべきはず。
なんか、そんなことまで含めて、この映画が嬉しかったんだと思う。
人災と天災
それから、この言葉も、ものすごいパワーワードで残っている。
2019年の西日本集中豪雨で起きた土砂崩れは、天災だと思っていたら、人間がコンクリートだらけにしていたある種の人災なんだと、衝撃だった。
それをいうと、すべてのことは、システム、縁起ゆえに、人災も天災も巡り巡ってそうなっているわけではあるのだが、どこかあえて区切るならば、天災と思っていたことが、人のコンクリートの影響かと、1つのシステムをみせていただいた。
呼吸とは比喩のように使っているわけだが、それは普通にシステムとしてそうなっているんだと。
正直、矢野さんが言っていること、行っていることが正しいのかどうかわからない。けれども、相当勉強しているんだと思った。
こういうシステムを捉えていくことは、私たちの責務だよなと、心底思った。
この映画をきっかけに、少しずつ、無限に広がる複雑なシステムを複雑なままに捉えていきたいと思った。
そして、私も今住んでいるこの大地の、呼吸と水に意識を向けてみたい。
2022年5月31日の日記より