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ゴッホ・アライブを見に行った感想#439

兵庫県立美術館にいき、常設展と共に、今日からスタートの没入型展覧会「ゴッホ・アライブ」というのを見に行った。

私から見ればあれは非没入型「ゴッホ・デッド」という形容がふさわしいように思う。

あれを見て感動している人には大変申し訳ないが、愚の骨頂もいいところだ。

芸術作品というものは受動的ではなく能動的態度で向き合わねばならないが、あれは受動的にしかみれない。

本来5分、10分と眺めてみるものが、5秒、10秒で変わっていく。

美的直観もくそもない。

「星月夜」の空をCGで揺らし、
「花咲くアーモンドの枝」にCGで桜を飛ばし、
「麦畑」のカラスを飛ばし
それでどうやってゴッホが生きていると言えるのだろうか。

クラシックをかけて、豪華絢爛に映像を並べて、表面上動かしたら、それで生きたものになるのか。

この展示会は、人間を愚弄しているのか。

静なるものの奥に動なるものを観ることが、生きた絵画を見ることではなかったのか。

いや、そもそもこれは美術鑑賞ではない。
デジタルアート展。エンタメだ。
ああいう楽しみ方があっていいのだろう。

だが、あれはゴッホのReal Objectではない。
ゴッホという名を使わないでいただきたい。


小林秀雄さんがこれを見たら猛烈に批判しただろう。

いや、抑も小林秀雄さんはこんなところに来ないだろう。

私もこのような展開は端からわかっていた。

ではなぜ行ったのかといえば、弁証法を学び、否定性にこそ新たな道が開かれることを大事にしたいと思っていたからだろう。

だが、不在を汲み取ることと、否定性を汲み取ることは難易度が異なる。

そして、あらゆる否定性を組み込む必要もないことを学ばせていただいた。


いい修行になった。

ゴッホの絵がこのような使われ方をしていることに対する私の怒りは、私の内面が引き越していることにすぎない。

途中から、これは、ゴッホの絵とは全く違う新たな作品として向き合おうと、心を沈めて、美的直観を試みた。

だが、わたしには合わなかったに過ぎない。


それにしても、常設展はよかった。

実によかった。

ただ、わたしには、ある種の悲しさがあった。


まるで大事な叡智が詰まった本が、難しいからといって読まれなくなっていき、わかりやすい本ばかりを手にとるようになってきたのと同じように、

常設展にある大事な芸術作品が見られずして、

ゴッホの絵とは到底言えないわかりやすいデジタルアートに引き寄せられて、

それが悲しくて仕方がない。


相対主義では限界がある。

いろんな楽しみ方があっていいが、真に忘れてはならないものが確実にある。それを受け継がずしてどうする。


小林秀雄が、「近代絵画」で、このような言葉を引用していた。

「批評家が詩人になるという事は、驚くべき事かも知れないが、詩人が、自分の裡に、批評家を蔵しないという事は不可能だ。私は、詩人を、あらゆる批評家中の最大の批評家とみなす」

批評家になれるわけがないと思っていた私に、詩人には内なる批評家がいることを、教えてくれた言葉だった。

私は詩人、批評家の道をもって、ある叡智や作品たちを受け継ぎたい。

批評的精神をもって、現代に埋もれてしまった真に価値あるものを拾って、現代に差し出したいと思う。

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