目の前にある一粒のお米の中に、私をみること#417
数日前、石垣島で食事をしているとき、忘れられないことがあった。
今になっても、私の頭の中にその時のことが頭に漂い続けている。
それほど、重大なことであった。
たった1つの些細な言動にすぎないわけだが、そこに私の生き方のすべてがつまっているようなものに感じているからだ。
とんでもないことをしているということを、時が経つにつれて感じ始めている。
食事の偈
私は、食べる前に、お祈りをしている。
五観の偈というものだ。
あるいは、食事五観、食事の偈とも言われる。
道元が書物にて引用していることから、主に禅宗で用いられ、僧侶たちが食事の前に唱えるお祈りである。
内容は、
(1)この食べ物は全宇宙からの賜物。大地や空やさまざまな人の働きの賜物。
(2)この食物をいただくにふさわしい暮らしができますように。
(3)未熟な心、特に貪りの心を変えられますように。
(4)この食べ物が心身を育て、病から守ってくれますように。
(5)理解と愛の道を歩むために、この食物を受け入れられますように。
といった内容だ。
このお祈りを唱える時間をとるとき、それだけで小さな変化がある。
私の場合は、大抵、食事の前にはお腹が空いており、早く食べたくて仕方なくなる。
間違いなく、そのままだと貪るように食べるだろう。
そのとき、このお祈り1ついれるだけで、「食べたい食べたい、早く食べたい」という気持ちがおさまっていく。
「それ反しないかな?」
そんな中、先日、石垣島にいた際、私は大好きな岡田斗司夫の映画解説のyoutubeを見ていた。
何を思ったか、あまりにも面白いがゆえに、食事のときにも、見ようとしてしまった。
そのとき、一緒にお祈りをして、ご飯と食べているお宿のまいちゃんが、「それ、食事の偈に反しないかな?」と問いかけてくれた。
穴があったら入りたいくらい恥しかった。
ああ、私はなんてことをしようとしているのだろう・・・
お祈りなんてものも、形骸化もいいところ。
お祈りを深く理解しておらず、体現にはほど遠い。
この自分の至らなさに呆れてしまうほど。
この言葉は、今でも私の中で繰り返されている。
一粒のお米に私をみる
このお祈りを何のためにしているのか、このジャーナリングを通じて、改めて偈の内容とともに立ちかえりたい。
私にとって、この偈の内容で、真に重要なのは、最初の一文に詰まっているように思っているのではないかと思う。
私の目の前にあるお米は、お米でないすべての要素で成り立っている。
雲がなければ、雨は降らず、
雨が降らなければ、お米はできず。
大地がなければ、根をはることもできない。
お米を深く見つめれば、そのお米には宇宙にあるすべてから成り立っていることを感じ取れる。
これを仏教では縁起と呼ぶのだろう。
キリスト教でいえば、聖体拝領が思い出される。
イエスは、弟子たちに、パンををちぎって渡し、「これを私の体だと思って食べなさい」、ぶどう酒を、「私の血だと思って食べなさい」という。
当たり前のように食事をとっている私たちを目覚めさせるためにそう言ってくれたわけである。
事実、パンは、いのちそのものに他ならない。
そのパンの中に、小麦を通じて、太陽や雲や大地、宇宙のすべてのものに触れることができる。
一口のパンを食べる時、その一口が、宇宙からの賜物と感じられる時、真にこの生を生きているのだろう。
私はそれを感得するために、目の前の食べ物を、このお米を、自分だと思って食べようと思う。
そこに、私を含めたすべてが詰まっているのだから。
そう思うと、食事というのは、本来、とても敬虔な態度で迎えなければならない。
もっといえば、この世界に存在するすべてを敬虔な態度で迎えなければならない。
そういう生き方ができるように、1つの食事から始めてみるわけである。
そのために、このお祈りをやっておろう。
この一文に、今回の無様な経験と想いをすべて込めて、私は唱えていきたいと思う。
2022年7月1日の日記
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