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あじわい

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あじわいは、「今を味わう」ための取り組みです。 すべてのことには肯定的な側面が眠っていて、味わい深いもの。 私が、何気ない日常の中から、大切な「何か」に気付くことで、 今を味わっ… もっと読む
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#日記

「許し」という名の「愛」と「救済」#434

悔い改めるから許されるのではない。 許されるから悔い改めるのである。 このことを深く考え…

いのちの両睨み#433

今上映されている中村哲さんのドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯りを照らす」。 ここで、…

中村哲さんの映画「荒野に希望の灯りをともす」を観て#432

尊敬してやまない中村哲さんの映画「荒野に希望の灯りをともす」を観てきた。 だめだ。 言葉…

なぜここまで遠藤周作に惹かれるのか#431

気づけば少しずつ遠藤さんの著作が増えたきた。 しかし、自分が今なぜここまで遠藤周作に惹か…

地球を感じるということ#430

人類が初めて宇宙にいったことは、ディープエコロジーの文脈においても革命的だったようなニュ…

コロナを患っていただいたもの#429

ほとんど人と会わない生活を暮らしをしている私でも、家族を通じてコロナをいただき患ってしま…

フランクフルト学派の代表作「啓蒙の弁証法」を読んで(概要・要約・感想)#427

「啓蒙の弁証法」がようやく読み終わった。 あまりの難解さ加減に読むことを辞めようと何度も思ったが、徳永恂先生の訳者あとがきを見る度に、この難解さは私だけのものではないと、少しばかり支えになってきた。 そして、何よりも、フランクフルト学派の警鐘と、今の世界の実情とつながると、辞めることはできなかった。 彼らの問題提起は、年々重くなってきており、今のほうがより大きな問題になってきていると思うからだ。 とはいえ、私が汲み取れた部分はごくわずかであろう。 それでも、自身の体

地獄は随所にある。ダンテ「神曲」地獄篇を読み終えて#426

今道友信先生のダンテ神曲の連続講座を聴きながら、「神曲」を読み直している。 リストの「ダ…

がんを通じて、死を感じる友といて#425

グロービスで一緒に学んでいた友人が月1回、セッションを受けに、わざわざ、我が家に来てくだ…

久石譲コンサート。交響曲に包まれて#424

7月29日、人生に一度は久石譲のコンサートに行きたいと思っていた小さな夢がかなった。 家で…

井筒俊彦と今道友信の対談を聴いて#423

今しがた、巨匠、井筒先生と今道先生の対談を「叡智の台座」を通じて聴いた。 普通の著書でも…

今道友信先生のダンテ『神曲』連続講義を聴いて湧きあがったこと#422

すごいのを見つけてしまった。。。 あの、今道先生が、ダンテの神曲の講座をやっている。 全…

ナラティブセラピーと井筒俊彦を巡って。井筒哲学出会ってからのセッションへの変化#4…

今年になってNPACCさんを通じてナラティブセラピーを学ばせていただいている。非常に奥深い。 …

哲学と文学と神学の邂逅#420

この言葉にみたとき、ものすごい深いうなづきとともに、いの一番に浮かんだのは、詩人ハリール・ジブラーンである。 彼の著書は、「預言者」、そのままである。 もちろん彼だけではない。ルーミーやリルケもそうであろう。 その意味で、真に深い文学者は神学者であるし、真に深い神学者は文学者でもある。表面的な活動が異なるだけであろう。 ドストエフスキーは世の人は文学者というが、吉満は、本質においては神学者だとみていた。 神が失われた近代になってからは、文学者が神学者の代わりをつとめ