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(本)チッソは私であった

という本を読んでいます(文庫版)。
前半の緒方さんの講演部分までしか読めていませんが、非常に示唆に富むというか、考えさせられる内容です。

タイトルの通り、筆者の緒方さんは父親を水俣病で亡くしています。本書内にも病状が述べられていますが、目を覆いたくなるような状況です。体への激痛、震えどころでは済まないような、体の”揺れ”。そんな父親の姿を見て、被害者側のチッソを相手取って戦っていく緒方さん。しかし、その最中に衝撃的な事実に至ってしまうというのが主な内容。

詳しくは本書に譲りますが、現代社会は多くのことが制度化・仕組み化されており、実態が見えづらく、というか見えなくなっています。
AさんがBさんを殴りました、となれば、Aさんが悪いという責任の所在は明確ですし、仮に賠償を求めるにしても、ターゲットは明白。

一方で、自分の父親の敵討ちのような形で戦う緒方さんは、そもそも相手は誰なんだ?というところから立ち止まって考えています。
社長なのか、実際に薬品を垂れ流した工場の長なのか、それとも垂れ流しの作業に関わった人?支店?本店?
さらに、現代の会社では時間を経るとポジションは維持されてつつも、中身の人間は流動的に入れ替わりが生じますよね。となると、余計にだれが責任を取るべきかは1つの会社をターゲットにしてもわからなくなってくる。
さらに、チッソには熊本県なり国による援助もなされているし、賠償のために税金まで使われてしまっている。
となると、もはや振り上げた拳を下ろすべき先には何もない、という状況になっている。そんなことに、気づくわけですね。
さらにいうと、自分自身もその加害者側の制度の一端をになっている。便利な暮らしを享受し続けているのも自分、仮に当時のチッソの中にいたら、同じような行為をしてしまっていたかもしれない弱い自分。そういったあらゆることを考え、運動から降りたというわけですね。

自分もこれまで、企業の不祥事の報道を見ていてモヤモヤとした違和感を覚えていました。
ある企業が不正をして、それにより人的な被害が出た。
すると、”その時点”での会社の代表者が出てきて、謝罪し、場合により補償を行う。
会社というシステム上、数年、場合によっては数十年という単位で人の入れ替わりがありますから、不正をした時点での関係者が責任をとる形にはそもそもなっておらず、言い方が悪いかもですが、不祥事が発覚した時点での代表者が、いわばはずれくじ的に謝る責任を背負うわけです。
会社の代表者というポジションは給与と引き換えにそういう責任を負っているのだ、といってしまえばそれまでかもしれませんが、何か釈然としない。そんな感じです。

著者の緒方さんがすごいのは、自分が加害者側の立場だったら?というところまで思考を深めてる点。仮に水銀を垂れ流していたタイミングで、自分がチッソの社員だったら、加担していたのではないだろうか?さらにアウシュビッツも訪問しているのですが、その時代に加害者側のポジションに仮にいたら、自分は虐殺行為を制止してたのか?もしかしたら、加担していたのではないか?
そんな自分の弱さまでを含めて考えた末の、訴訟から降りるという選択だったんですね。

昔の環境問題の話、というわけではなく現在の福島第一の訴訟にも通じるところがあるかと思います。当時の東京電力の代表者を引っ張り出してきて裁判を起こし、補償してもらうところは補償してもらう。
確かに、それでしか救われない思いもあるでしょう。
ただ、東電裁判に出廷した3名だけが悪者なのか?自分が当時の東電社員だとしたらどんな振る舞いをしていただろうか?
もしかしたら、そんなことに思いを巡らせてみるのも大事なことなのかもしれません。

名著と言われるのも納得な1冊でした。


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