大山巌(西郷隆盛の従兄弟である薩摩藩士、明治政府での元帥)
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)からの引用(一部修正)
大山が留学でスイスに住んでいた際にロシア人にフランス語を習っていた。スイス政府筋から知らせがきて、「この個人教師はロシア政府のおたずねものである、あなたは日本政府の高官ときくが、あなたの不利益とはならないか」。
大山は答えた。自分はかつて日本政府のおたずねものだった。
自分たちの仲間が政権をとったので、自分は今の政府の高官である。外国語教師として頼んだこのロシア人の仲間が、やがて政権の座につかないと誰が言えよう。
沼津の裏山で小学生のぼくがひとりで遊んでいると、向こうからふとった人が歩いてきた。写真で見たことがある大山元帥だと思って、おじぎをした。すると大山さんも立ち止まって、きちんとお辞儀を返した。他に見ている人が誰もいないのに。
・大山巌の息子
「総司令官てなにをするんですか」
大山巌
「知っていることでも、知らんようにきくことよ」
児玉源太郎は、同時代の世界史でくらべようのないすぐれた軍人だった。
十九世紀のナポレオン、二十世紀のヒットラーが負けたロシアを相手に、児玉の指揮した日本は負けなかった。それは児玉が、どういう世界状況の中で日本がロシアと戦うかについての見通しをもっていたからだ。
ヨーロッパ留学の経験もなく、幕末からの変転する状況の中で、状況を読みつづけた児玉には、後代の軍人、そして官僚の、学習による知識とは違う知恵があった。
その時の頂点にある先進国の知識を最短期間に学習するという日露戦争終結後の日本の学校教育とは、一味ちがう判断力が児玉源太郎にはあった。
それを受け入れた大山も、世界の状況から汲みとる力をそなえる同時代人だった。
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