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第六十一号 水戸藩の幕末

こんばんは。伊東潤です。


第六十一号歴史奉行通信を
お届けいたします。


今回は「幕末の水戸藩について」です。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめにーー春の雪から連想される文芸作品は?

2. 水戸藩とは何かー概要・歴史

3. 名君・徳川斉昭とはどんな人物だったか

4. 将軍継嗣問題から安政の大獄ーー
維新の捨て石になった水戸藩

5. おわりに&感想のお願い / お知らせ奉行通信
新刊情報 / 講演情報 / その他


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1. はじめにーー春の雪から連想される文芸作品は?

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伊豆半島南部では梅も満開になり、
いよいよ春の到来です。
そうは言っても、
まだまだ肌寒い日々は続きますので、
冬物を片付けるには早い気がします。


私が子供の頃は、
南関東でも三月で雪が降ったものですが、
最近は暖冬化が進んでいるのか、
東京でも雪が降らない年がありますね。
今年などはその典型です。


さて、春の雪から連想される文芸作品といえば、
私の場合、三島由紀夫の『豊饒の海』の
第一巻の『春の雪』と
吉村昭の『桜田門外ノ変』ですね。


桜田門外の変といえば水戸藩ですが、
私には天狗党の騒乱を描いた
『義烈千秋 天狗党西へ』という長編があり、
それが戦国時代以外の作品に挑戦した
初めての作品だったこともあり、
とても思い入れがあります。


桜田門外の変は
安政七年(1860)の旧暦三月三日に起こったので、
新暦で言えば三月二十四日です。
雪というイメージにはほど遠い季節ですが、
なぜかこの日は、
深々と雪が降り積もっていたのです。


むろんそれが
水戸藩脱藩浪士たちに幸いしたわけですが、
歴史は「天意によって動かされる」ことを
実感できる天候でした。


さて今回は、
知ってるつもりで実は知らない
「水戸藩の幕末」について
書きたいと思います。

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2. 水戸藩とは何かー概要・歴史

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2012年に、私は
『城を攻める 城を守る』(講談社現代新書)という
城郭攻防戦を描いた
ノンフィクションを出しました。
そこで面白かったのは、この本のレビューで
「水戸城をめぐる攻防戦があったとは知らなかった」
というコメントが複数あったことです。


実は私も、吉村昭さんの『桜田門外ノ変』や
『天狗争乱』を読んでいなければ、
それを知らなかったかもしれません。
というか水戸藩のこと自体、
ほとんど知ることはなかったはずです。


水戸藩の知名度が低い理由としては、
司馬さんが諸作品で冷淡な評価を
下したこともあります。
ちなみに司馬さんは小田原北条氏にも冷たく、
また土方歳三の故郷の多摩地方についても
極端な後進地帯のような書き方をしており、
概して東国に好意を持っていないことは
明らかです。


しかし水戸藩の知名度の低さや
人気のなさは、別にあります。
実は明治維新の時、
人材らしい人材が枯渇してしまい、
新政府に大臣クラスの逸材を
送り込めなかったのです。
これは後々まで響き、
旧水戸藩出身の有為の材が
世に出る機会は失われていきました。


明治初期は藩閥政治の時代ですから、
薩長土肥の若者たちばかりに
出世の門戸が開かれていたのです。
私も『西郷の首』で旧加賀藩士たちが
置かれていた閉塞状況を描きましたが、
それと同じことが
水戸藩でも起こっていました。
しかも水戸藩は他藩に先駆けて
尊皇攘夷の旗を掲げたのですから、
後進たちの無念の思いは
強かったでしょうね。


そんな水戸藩ですが、
実は徳川御三家にも列せられるほどの
名門だったのです。
まずは水戸藩の概要や歴史を
振り返っていきましょう。


戦国時代の常陸国には、
豊臣秀吉に気に入られた佐竹氏が
最盛期で八十万石もの大領を
有していましたが、
関ケ原合戦で明確な姿勢を示さなかったことで、
江戸幕府によって
出羽二十一万石へと移封されます。


慶長八年(1608)には家康の五男で、
穴山氏系武田氏を相続した信吉が
二十五万石で入部しますが、
二十一歳で病死し、
ここに甲州武田氏は廃絶となります。


続いて家康十男の頼宣が
二十万石で入部しますが、
紀州藩が立藩されて栄転したので、
十一男の頼房が二十一万石で入部し、
ようやく徳川御三家の一角を担う
水戸藩が発足します。


しかし御三家といっても
尾張藩は六十二万石、
紀州藩は五十五万石なので、
水戸藩の二十八万石は見劣りします。
そのため表高三十五万石と公称します。
石高が高くなれば軍役や普請役も
それだけ増やされるのですが、
水戸藩は実益よりも見栄を張る方を
選びました (笑)。


実は、水戸藩は茨城県(常陸国)全土を
領国としていたように思われがちですが、
中央部から北部にかけての
半分ほどが領国で、南部には
土浦藩・牛久藩・石岡藩などがありました。


二代藩主には有名な
水戸黄門こと光圀が就き、
学問を奨励して善政を布きます。
『大日本史』の修史事業も始まり、
勤皇思想を基にした水戸学の種が
蒔かれます。


その後、相次ぐ藩政改革の失敗によって
財政的に苦境に立たされますが、
文政十二年(1829)、
九代藩主の座に就いた斉昭によって、
財政基盤が徐々に整えられていきます。


拙著の『義烈千秋 天狗党西へ』で、
タイトルの「義烈千秋」とは、
「義公光圀と烈公斉昭の思いは千秋に続く」
という「水戸烈士弔魂碑」に刻まれた
言葉から取られています。
この思いとは尊皇思想のことですが、
実は水戸藩の歴代藩主の中でも、
この二人が名君として突出していたのです。


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3. 名君・徳川斉昭とはどんな人物だったか

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それでは、幕末の歴史を語る上で
欠くことのできない名君の一人・
斉昭について語っていきましよう。


寛政十二年(1800)、
江戸の小石川藩邸で生まれた斉昭は、
水戸学の泰斗(たいと)・
会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)の
薫陶を受けて水戸学を学び、
尊皇思想を叩き込まれます。
その基盤があったからこそ、
藩主となってから藩学として弘道館を創設し、
郷士や農民にも文武教育を施すべく、
領内各地に十五カ所もの郷校を
開けたわけです。
こうした文教政策を整えた後、
斉昭は門閥派を抑えて
下士層からの登用を行っていきます。


領内総検地や財政再建策といった
藩政改革に積極的に取り組んだ斉昭ですが、
とくにその文教政策は徹底しており、
教育の機会を均等にし、
上下を問わぬ登用を行います。
これにより、後に尊皇攘夷活動に身を投じる
下級藩士たちの基盤ができ上がるのです。

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