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新作歴史小説『茶聖』|第一章(十)

真の芸術家か、
戦国最大のフィクサーか――


安土桃山時代に「茶の湯」という一大文化を完成させ、
天下人・豊臣秀吉の側近くに仕えるも、
非業の最期を遂げた千利休の生涯を、歴史作家・伊東潤が描く!
新作歴史小説『茶聖』。

戦場はたった二畳の茶室――。
そこで繰り広げられる秀吉との緊迫の心理戦。
門弟となった武将たちとの熱き人間ドラマ。
愛妻、二人の息子たちとの胸に迫る家族愛。

発売直後から話題を集め、早くも二度の重版がかかるヒットとなっている本作の試し読みを、noteにて集中連載いたします。


第一章(十)

城を造るには、労働力の確保とその住環境の整備から始めねばならない。
 大坂築城では、秀吉支配下および傘下大名三十カ国から六万人の夫丸が駆り出され、彼らの小屋掛け(仮住居)は天王寺付近にまで及んだ。しかも小屋掛けは、約四十日で二千五百四棟という速さで進められ、その食料の確保と配給も、秀吉奉行衆によって手際よくなされていった。
 普請惣奉行の黒田孝高の配慮により、宗易の担当する山里曲輪用の建築資材は優先的に回されることになったが、その前に、夫丸たちとその食料の手配がある。
 宗易は孝高に山里曲輪の普請差図(工事計画案)を提出し、九月十五日に普請を開始する承認を得たが、孝高によると、自分は計画案の承認と必要資材を申請することが仕事で、夫丸とその食料の手配は、羽柴家の奉行衆に委ねられているという。それでも孝高から奉行衆に通達してくれることになったので、宗易は安堵していた。
 ところが十五日の朝になっても、夫丸は一人も来ない。そのため宗易は確かめに行くことにした。
 大坂城の表の顔、すなわち城の中核部分の普請はすでに始まっていた。おびただしい数の夫丸たちが城内を行き交い、切り出された大小の石を、修羅などの運搬具に載せて運んでいる。
 修羅とは巨石運搬用の橇のことで、コロと呼ばれる転がし丸太を軌道のように敷き詰め、その上に橇を載せて引いていく。
 その人ごみを縫うようにして、宗易は奉行のいる仮小屋を探した。
「義父上、あれでは」
 少庵の指差す方には、仮とはいえ檜皮葺きの本格的な屋敷があった。
 対面の間らしき場所で待っていると、足音も高らかに一人の奉行がやってきた。
 宗易は秀吉の茶頭とはいえ商人なので、少庵と共に丁重に平伏した。
「初めてお目にかかります。堺の千宗易です。こちらは息子の少庵になります」
「此度の普請作事の勘定奉行を仰せつかっております石田治部少輔に候」
 ──此奴が石田三成か。
 秀吉の帷幕に石田三成という有能な若者がいるとは聞いていたが、これまで面識はなかった。
「宗易殿のお顔は、これまで何度か拝見しております」
 三成が先手を打つように言う。
「それは恐れ入りました。ご無礼をお許し下さい」
「いやいや、それがしは若輩者。目の端にも留まらぬは当然のこと」
 ──此奴は賢そうだが敵を作る。
 その皮肉一つで、宗易はそれを見抜いた。
「して、今朝は何用ですかな」
 ──用件を急げというわけか。
 宗易は鼻白んだが、丁重な姿勢を崩さず言った。
「本日から山里曲輪の普請が始まります。しかし、どうしたことか夫丸が来ないのです」
「ああ、そのことで──」
 三成は大福帳のようなものを懐から取り出すと、しばし黙ってそれを見つめてから言った。
「山里曲輪への夫丸の派遣は、十八日になります」
「それはまた、いかなる理由で──」
「石の切り出しと運搬が予定より二日も遅れているので、諸方面に皺寄せが及んでいます」
 三成が他人事のように言う。
「そうでしたか。それは存じ上げませんでした」
 三成の声音が変わる。
「われらは一昨日、そのことを黒田殿の下役に伝えました。ここに確認の書付もあります」
 三成は別の書状を取り出すと言った。
「それが伝わっていなかったのは、黒田殿の落ち度」
「いや、お待ち下さい。落ち度とは大げさな──」
「いいえ、こうした些事を放っておけば、いつか取り返しのつかない大事が起こります。黒田家中の誰が、いかなる理由から宗易殿への伝達を怠ったのかを明らかにせねばなりません」
 責任者を追及するということは、誰かが罰せられることにつながる。羽柴側は叱責で済ませても、黒田家としては普請奉行の解任や、下手をすると切腹を申し付けるという事態を招きかねない。
 ──そうなった時、恨まれるのはわしだ。
 三成が険しい顔で言う。
「これは由々しき事態です。それがしにお任せ下さい」
「待たれよ。先走られても困ります」
「先走るとは、いかなる謂で」
「よろしいか」
 宗易は悠揚迫らざる口調に改めた。
「この世は、すべてが思い通りに行くわけではありません。何事も人のやることには抜けが出ます。それをいちいちあげつらっていては、きりがありません。互いに折れるところは折れることで、助け合いの気持ちが生まれ、仕事がはかどるのです」
「ははあ、そういうものですか」
 三成が田舎田楽のように、大げさに驚いてみせる。
「私はそう思います」
「ご高説を賜り、恐悦至極。では、夫丸を十八日に回すということで、山里曲輪の遅れはないと思ってよろしいですな」
 ──何だと。
 さすがの宗易にも怒りの感情が込み上げてきたが、それを抑えるくらいはできる。
「それで結構です」
 会談はそれで終わった。
 帰途、無言で山里曲輪に戻る道すがら、少庵が言った。
「義父上、他人を困らせることに喜びを見出す輩は、どこにでもいるのですね」
「そなたはそう見たか」
「では、義父上はどう見ましたか」
「彼奴は、わしを恫喝したのだ。つまり羽柴家中において、『茶人にでかい面はさせない』と言いたかったのだろう」
「なるほど。自分たちを甘く見るなということですね」
「そうだ。向後、彼奴が絡むことについては、慎重に考えてから対処せねばならん」
 宗易は気を引き締めた。
 十八日には夫丸も集まり、いよいよ山里曲輪の普請が始まった。
 一方、秀吉は十六日、鍬入れ(着工)の祝賀にやってきた人々を饗応することを宗易に命じ、大坂城内本丸に造らせた仮設御殿で、「道具揃え」を催した。この席で秀吉は、「四十石」「松花」「捨子」といった本能寺の変を生き抜いた名物を披露し、その案内役兼説明役を宗易と宗及に命じた。
 中でも「松花」は、「唐物茶壺の三大名物の一つ」と言われるほどの逸品で、かつて村田珠光が所有していたものを、名物狩りで信長が入手し、本能寺の変の直前にも披露されていた。
 宗易は名物重視から侘数寄への過渡期として、こうした名物を秀吉が自慢げに披露することを否定はしなかった。まずは茶の湯が、新たな庇護者の秀吉の下で健在であることを示し、徐々に新たな概念を植え付けていけばよいと思っていたからだ。

(続く)

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