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新作歴史小説『茶聖』|第一章(八)

真の芸術家か、
戦国最大のフィクサーか――


安土桃山時代に「茶の湯」という一大文化を完成させ、
天下人・豊臣秀吉の側近くに仕えるも、
非業の最期を遂げた千利休の生涯を、歴史作家・伊東潤が描く!
新作歴史小説『茶聖』。

戦場はたった二畳の茶室――。
そこで繰り広げられる秀吉との緊迫の心理戦。
門弟となった武将たちとの熱き人間ドラマ。
愛妻、二人の息子たちとの胸に迫る家族愛。

発売直後から話題を集め、早くも二度の重版がかかるヒットとなっている本作の試し読みを、noteにて集中連載いたします。


第一章(八)

空は晴れわたり、琵琶湖には涼風が吹いていた。白い帆を上げた船が列を成し、西岸から東岸を目指していく。その数は百を下らず、秀吉の勢威を象徴しているかのように思える。
 その中で最も豪奢な一艘から、秀吉の高笑いが聞こえていた。
「船の上での茶会か。さすが宗易。風情がある」
 秀吉の御座船に風炉や茶道具を持ち込んだ宗易は、琵琶湖上で茶事を開くという趣向を考えた。
「この季節には、窓の少ない茶室での茶会は向きません。それゆえ船上がよろしいかと──」
「船で安土城に出向き、天下平定の報告を総見院様にするつもりでおったので、ちょうどよい」
 坂本を漕ぎ出した船は、前方左手に伊吹山を望みながら、東岸へと進んでいく。
「改めまして、天下平定の大業を成されたこと、祝着に存じます」
 揺れる船の上で注意深く点前を行いながら、宗易が祝辞を述べる。
「わしは取るに足らない農民に生まれ、この世の底を見てきた。どれだけ辛酸を舐めてきたか、そなたには分かるまい。これまでこの額を──」
 秀吉が芝居じみた仕草で、己の額を示す。
「どれだけ擦り付けてきたか分かるか。だがな、その時、いつも『今に見ていろ』と思ってきた」
「羽柴様は若い頃、随分と苦労なさったと聞いております」
「苦労どころではないわ。わしなどは、人として生きる値打ちもない男だった。それでも苦しい日々から、少しでも這はい上がりたかった。まさに手掛かりのない岩肌に張り付きながら、頂上を目指したようなものだ」
「ご心痛、お察しします」
 宗易が濃茶を秀吉の前に置く。
「そなたのように何不自由なく暮らしてきた者に、わしの気持ちは分からぬ」
 秀吉が喉を鳴らして茶を喫する。
「仰せの通りかもしれませんが、人の苦しみは身分や貧富から来るものだけではありません」
「ははは、よく言うわ。この世で最も切実なものは、今日の糧が得られるかどうか分からぬことだ。食べるに困らぬ者に、その気持ちは分からぬ」
 秀吉が遠い目をする。よほど辛い日々を送ったのだろう。
「だが、これで安心というわけではない。わしの足をすくわんとする者が、まだおるからな」
「三河殿ですな」
「ああ、かの御仁は邪魔だ」
「しかし羽柴様、三河殿と戦いに及べば、毛利がその間隙を縫ってくることも考えられます」
「その通りだ。畿内を制する者は、常に周囲を敵に囲まれておるからな」
「では、戦わずしてひれ伏させることができれば、それに越したことはありませんね」
「ははは、そなたには武士が分かっておらん」
 秀吉が乱杭歯をせり出すようにして笑う。
「武士の欲は際限がない。その欲を茶の湯によって抑えねばならん」
「仰せの通り。茶の湯こそ、武士たちの荒ぶる心と際限のない欲を抑える唯一の道具です」
 琵琶湖の風が、秀吉の鬢を撫でていく。
「わしも、すでに齢四十七だ。頼りになる息子もおらん。天下を平定できても、それを次代に伝えていくことができるか、はなはだ心許ない。ただ──」
 秀吉の三白眼が宗易を射るように見つめる。
「茶の湯だけが武士たちの荒ぶる心を鎮め、謀反を抑えられるような気がする」
 いよいよ東岸が近づいてきた。かつて信長が造った豪壮華麗な天守はなくなったものの、残った建築物や石垣は創建当時の威容を誇っている。
「実はな、わしは城を造ろうと思うておる」
「安土の城を修復なされるのですか」
「いいや。別の場所に、誰も見たことのないような巨城を築く」
 秀吉の目は中空を見据えていたが、その金壺眼が見ているのは、未曽有の規模の城に違いない。
「して、その城をどこに築かれるのですか」
「大坂の地よ」
「ということは、本願寺の跡地に」
「うむ。これからは商いがすべてを支配する。大坂の地には国中の富が集まってくる。そこを押さえる者が天下を制するのだ」
「総見院様がお考えになったことと同じですね」
「そうだ。総見院様は安土にずっといるつもりはなかった。安土では琵琶湖の交易網を制したにすぎず、次は大海を制する地に城を築かねばならぬと思われていた」
 信長は清須、小牧山、岐阜、そして安土と本拠を移した。むろん安土にも腰を落ち着けるつもりはなかった。
「次は大坂に城を築くと、総見院様は仰せでしたな」
「ああ。しかし、それも本能寺の変によって夢と消えた」
 秀吉は信長の後継者として、その構想を引き継ごうというのだ。
「わしは、天下に二つとない巨大で堅固な城を大坂に築き、諸大名やその使者を招く。その時、城の搦手に造られた茶室で客人を接待する。つまりわが権勢の大きさを見せつけると同時に、茶事によって心を支配するのだ」
「つまり天下を治めるのは武力だけではなく、茶の湯だと──」
 視界が晴れるかのように、秀吉の考えが分かってきた。
「そうだ。わが城の表は厳めしい武の象徴だが、裏に回れば典雅で風情ある空間が広がっている。そこに鄙びた草庵を造り、武将たちの荒ぶる心を鎮めるのだ」
「なるほど。つまり二つの顔を持つ城を造ると仰せなのですね」
「うむ」と答えつつ、秀吉の干からびた手が宗易の肩に置かれた。
「その城の表の顔はわしで、裏の顔はそなたになる」
「あっ」
 ──わしにも天下を担わせるつもりか。
 宗易は愕然とした。
 つまり秀吉は、かつて信長が言っていた「表の顔」と「裏の顔」を具現化しようというのだ。
「わしとそなたの関係を城として実現する。これほど分かりやすい構図はなかろう」
「恐れ入りました」
 秀吉が高笑いする。
「裏の空間は、茶室だけでなく、すべてそなたの好みにせい」
「承知しました」
 気づくと船は安土城の舟入に着こうとしていた。すでに対岸には、立錐の余地もないほどの武士たちがひしめいている。
 船が着くと、秀吉は笑顔を振りまきながら、待っていた者たちの輪の中に入っていった。
 ──裏の顔か。
 宗易の胸底から、得体の知れない焔がわき上がってきた。

(続く)

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