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『囚われの山』|プロローグ(一)


それは、軍の人体実験だったのかー。

世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した

八甲田雪中行軍遭難事件

百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。

すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。

男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。


歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。

プロローグ


 横殴りの風が稲田を押し倒そうとする。三十年式歩兵銃で体を支え、何とか堪えた稲田は次の一歩を踏み出した。雪は腹から胸の深さまであり、踏み出すというより雪をかき分ける、ないしは雪の中を泳ぐといった方がふさわしい。
 すでに手足の感覚はなく、肘や膝から先は何も感じない。それでも稲田は、棒のようになった腕を左右に振り回すようにして雪をかき分け、にじるように進んでいった。

 ──ここでおっける(倒れる)わげにゃいがね。
 厳しい寒気は体を動かしていれば何とかなる。だが風の強さはいかんともし難い。幾度となく倒されそうになったが、何とか踏みとどまった。一度くらい倒されても立てるとは思うが、その時に失う体力は大きい。
 防寒用の外套は凍りつき、板のようになっている。肌衣も汗が凍って皮膚に付着しており、体温が急速に下がってきているのが分かる。

 それだけならまだしも、風に叩きつけられた雪片が目を傷つけているらしく、目尻から出血している。顔も痛いので、皮膚も相当傷ついているのだろう。

 目を開けていられないので、左手から聞こえる川音を確かめつつ、半ば手探りで進むしかない。
 それでも襦袢を三枚重ね着し、袴下を二枚穿き、下帯を二重に締めてきたのが功を奏したのか、ほかの者が倒れても、稲田だけは歩き続けることができた。

 そうした防寒対策の中でも、靴下の中につぶした唐辛子を入れ、外を新聞紙と油紙で包んでから軍靴を履いたのはよかった。
 行軍隊の兵卒の多くは、防水性のない足袋や靴下の上に直接ツマゴ、すなわち藁沓を履いていた。これでは、編目に入った雪が体温で解けて藁が濡れたままになり、すぐに凍傷になってしまう。だが稲田は、短靴の上に白麻布の甲がけ脚絆を着けて藁沓を履いていたので、凍傷にならずに済んだ。しかし足の先の感覚がないことから、それも限界に達しつつある。
 ここまで一緒だった者たちと別れてから、どれほど経っただろう。それでも田代にさえ着けば、村人に手を貸してもらい、道々倒れている仲間を助けに来られる。

 ──皆のため、けっぱらねばなんね。
 この三日、食事らしい食事を取っていないので、体力もすでに限界を超えていた。少し休もうかと思うが、休んだら最後、動けなくなるのは分かっていた。
 ──おらは、どうでもいいじゃ。皆ば助けねばなんね。

 後方に置き去りにしてきた仲間を助けるという一事だけが、今の稲田を支えていた。
 ──けっぱれ、庸三! 
 己を叱咤しつつ、無限とも思えるほど降り積もった雪を、稲田はひたすらかき分けた。
 だが白一色の世界に幻惑されたのか、次第に意識がもうろうとしてきた。距離感が掴めず、雪をかき分ける腕が空振りに終わることもあった。
 距離感を取り戻そうと空を仰ぐが、空も同じ色なので役に立たない。それでも樹木らしきものを彼方に見つけたので、何とか距離感を掴み、感覚を正常に戻せた。

 しかし夜が来れば、目印となる樹木も見えなくなる。灯りなど持っていないので、川音だけを頼りに、雪をかいて進まねばならない。
 死の恐怖が込み上げてきた。誰しも自分だけは死なないと思っている。だが仲間たちは次々と倒れて死を迎えているのだ。稲田だけが特別のはずはない。
 ──死ぬごどばかり考えていではだめだ。
 稲田は楽しいことを思い出そうと思った。

 一番の楽しみは故郷法量の秋祭りだ。皆で大行灯を作り、山車の上に載せて太鼓を叩きながら、二里ほど南の十和田湖畔まで練り歩いたものだ。大行灯が湖畔に映り、夜でも昼のように明るかったのを覚えている。
 ──ありゃ、楽すがっだ。
 耳朶(じだ)を震わせるような吹雪の音の合間に、子どもたちの歓声や笛太鼓の音が聞こえてくるような気がする。
 ──ああ、帰りてえな。
 だが思い出を追っていると、次第に現実と想像の境目がつかなくなってくる。意識はもうろうとし、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなってきた。それゆえ稲田は「すっかりすろ!」と声に出してみた。

 すると懐かしい故郷は消え去り、眼前の雪地獄が見えてきた。
 ──これでええ。おらには大事な使命があるすけ、しゃんとすねばな。
 そう自分に言い聞かせたが、この地獄が一時間も続けば、気持ちはしっかりしていても、体が言うことを聞かなくなる。

 ──何が、「手拭い一本用意して、田代の湯で酒杯を傾ける」だ。
 仲間の中にはそんなことを言い、いつもより肌衣を少なくする者もいた。兵営から目的地の田代温泉までは直線距離で五里半(約二十二キロメートル)なので無理もない話だが、やはり冬の八甲田は甘くはなかった。

(明日に続く)

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