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花ざかりの校庭 第七巻 バカなあいつ

       ★

推薦試験は10月の終わり、名古屋の私立大学で行われた。

英語と数学、化学がメインの試験で、終了の翌日、面接が行われた。

午前中は二科目。

英語のテストは自信があった。

試験が終わったあと、彼女はトイレに行った。

試験会場の中日大学のキャンパスは静かだった。

経営学部の校舎の2階で彼女は試験を受けていた。

トイレから帰る途中、同学年の紀和山太きわやまふとしの後ろ姿が見えた。

「……紀和山くん?」 

「あれ、小寺?」

「きみもここ受けてるんだ?」

彼は恥ずかしそうに笑った。

「俺さ、のんびりしたくて……」

麻里はクスッと笑った。

「そうね。浪人はイヤだし、かといって一流めざしてるわけじゃないし……」

紀和山はハンカチで眼鏡をふきながら、

「三科目だからね」

二人は小声で笑った。

「……じゃ」

紀和山は手を上げて、教室の中に消えた。

       ★

午後から降りだした雨を眺めながら、麻里は試験を終えた。

午後の科目は午前中の数学より上手くいったと麻里は思った。

試験が終わったのは午後4時のこと。

麻里は、終わり次第、江坂にいる父の新一に電話した、

「……あ、父さん?私」

『試験、だな?』

「……手応えあったし」

『そうか。安心した』

「……嬉しい?」

『……なんか麻里とどうでもいいこと、話したいな……』

「……やだ、何の話よ」

『ホント、どうでもいい話』

「……明日は午後から面接なんだ」

『……面接は大丈夫だろう』

電話の向こうでのんびりとした声が聞こえる。

「そう願いたいわ」

麻里は笑った。

『冬休みはこっちに来るだろう?』

新一は言った。

少し、麻里は口ごもった。

「……うーん、高校最後の冬休みだから……」

麻里のアタマの中は高志とのことでイッパイだった。

ややあって新一は『そうだな……』と言う。

何か察したようである。

麻里は黙りこんだ。

ふと、見ると午前中に会った、紀和山が大学の正門から出てきた。

彼は麻里を見つけると、傘ごしににっこり笑って手をあげた。

「……試験、どうだった?」

彼は屈託ない表情で彼女に言った。

「……うん」

麻里は頷く。

二人は駅まで歩く。 

途中、紀和山は福山司郎の話をした。

興味があるのか?

なんとなく不吉な感じがする。

「今週末にコンクールがあるの知ってるよね?」

……高志が出る高校最後のコンクールだ。

麻里は少しドキッとした。

「……うん。福山くん今年も会場にいくみたいで、水曜日にミーティングかな?」

「あっ、そういえば小寺さん彼の部に……?」

「知らない」

麻里は陰で舌打ちした。

今年でやめておいた方がよかった。

水曜日に断ろう。

来年は女子大生デビューである。

彼女は思った。

「……福山ってユニークでサ」

紀和山太は言った。

きわものだ……だから紀和山?

彼はクラスではそれほど目立たないのはウソ、

それはかなり違う。

異質だった。

一年生の頃は陸上部にいたが、二年になってやめたらしい。

担任の岡倉先生によると、紀和山は相当個性がある少年で「あいつなんか、探検部にもってこいなんだが」と言っていたことがある。

ただ、放課後、彼は典型的な『帰宅部』となり夕刻は消息がわからない。

母子家庭で母親は公務員であることだけ岡倉は話していた。

「……俺さ、取り柄ってなくて」

「ははは、ありますよ」

麻里は吹き出した。

「え」

そして紀和山の横顔を見る。

「あるでしょう?」

彼の本性を麻里は知っていた。

「いやいや、そんなことは」

麻里は改札口を眺めながら、首をふる。

紀和山くんのほうがよっぽどユニークだと思うけどな?

麻里は心のなかでまゆをひそめていた。

私だけかしら。

忘れがたい彼の逸話があった。

一年生の時、夏季学習で八ヶ岳に行った。

その時、ペンションで彼とアヒルに餌をやる当番になった。

麻里は清里高原の朝日を浴びつつ、外に出た。

紀和山とおぼしき少年が朝日を浴びて立っている。

逆光になって見えづらかった。

なにやら、顎がモゴモゴ動いている。

「おはよう、紀和山くん……ゲッ!」

麻里が近寄ると彼はビニール袋に手を突っ込んでいた。

彼はアヒルの餌を食っていたのだ。

「う、うま……」

マヨネーズを手にしている。

麻里はポカンとしたまま、後ずさる。

こいつはアホだ。

「ビニールのそれは?」

……ペンションの経営者の人がくれた。きみも食ってみろよ。

食わねえよ、バカ。

アヒルの餌だろうが。

高原のそよ風がとても生暖かくて不気味だった、夏の日のおもいで。

いや、青春のトラウマ。

「……ま、マヨネーズ、どこから持ってきたの?」

「実家から」

おやつがわりにコンビニで買ってきたんだ。

アホを通り越してシュールだった。

麻里は彼にホウキとちり取りを持たせて玄関の掃除を命じた。悪い夢を見た気分だった。

       ★

彼は……、紀和山太は

福山や智恵のような存在ではなかった。

どこか、人類から外れている。

もし、岡倉先生から「じつは、彼は未来からきたんだ」とか聞いても、麻里は素直に受け止められるだろう。

ふいに彼女は鞄を落とした。

中から高志の受験雑誌が出ていた。

「……これ、きみの?」

「はっ、はい」

彼はマナブくんを手にしていた。

あー、マイッタナ、間違えて智恵の持ってきてシマッタ。

あれっ!

「どうしたの?」

紀和山は首をかしげている。

彼は受験雑誌をパラパラと見ている。

「付箋……」

「違うって、智恵のした付箋だって」

「智恵って?」

「妹」

「ふーん」

紀和山のヤツ、何でそれ見つけるかな!

麻里の顔がひきつった。

「な、ナンバニンゲンダイガク……な、なんだこりゃ?」

あんたに言われたくないが……。

「ち、智恵の志望校」

「し、志望校?」

「あの子、変わってるから」

「福山より?」

「もっと変わってる」

嘘である。

麻里は総長、間違えて高志の雑誌を鞄にいれてきてしまった。

二人の関係など紀和山知られたくない。

「は、はい」

田畑が大学受験にまったく疎かったことは隠さねばならない。

紀和山はアタマをかきながら、ああっと……!

「ここって、たしか学費免除で月々手当てがつくって聞いたことがあるけど……」

「て、手当て?」

紀和山は広告欄を眺めている。

「ああ、忘れてた」

「何?」

「倉木、実家どこだっけ?」

紀和山は言った。

滋賀県ね。

和邇よ。

紀和山は言った。

「どうして、しおんのこと聞くの?」

「来年、あいつんちのお爺さんに弟子入りするから」

麻里は首をかしげた。

「弟子?」

「倉木んとこのじいちゃんは、日本でも有数の漢方の研究家なんだ」

「紀和山くん、その勉強するわけ?」

彼は頷いた。

和邇のじいさまから、倉木のこと手紙で送ってきてサ。

「なんのこと?」

紀和山は笑っていた。

「ねぇ、何?」

「うん、まあ、色々と頼まれているわけで」

「しおんのこと?」

「まあね」

麻里はふと、高倉先生のことを思い出していた。

しおんは自分より12年上の彼といい仲なのだ。

そこに紀和山が入っていけるかどうか?

       ★★★

翌日の面接は午後から行われた。

三十分ほど志望理由とか卒業したらどう言った方面に就職したいか、さらに大学の教育理念の話を聞かされ、面接は滞りなく終わった。

彼女は途中、喫茶店に入り、サンドイッチを注文した。

試験がすべて終了した後、やることはなかった。

他の学校への受験は極力控えている。

岡倉先生には内申書を三通ほど書いてもらっていたが、あくまでも不合格の時だけ。

他の大学の願書提出よりも早く結果は彼女に伝えられることになっている。

麻里はあまり人気のないこの喫茶店で時間を過ごした。

ふと難波人間大学のことを思い出す。

少しアホすぎるだろう。

ふいに携帯が鳴る。

「あっ、福山……っ!」

ふと、今日は火曜日だったことを思い出す。

彼女は今、試験が終ったところだと彼に告げた。

彼は機材のことを彼女に言った。

雨が降り始めていた。

麻里は眠くなっていた。

彼女はしばらく雨がやむのを待つ。

       ★

夕刻、雨が降りやんだ路地を通り抜けて麻里はマンションに帰る。

ふと、駐車場に目をやる。

浅子のフィアットはなかった。 

階段を上がって、なにげに浅子の部屋の前を通りすぎる。

表札はなくなっていた。

ポストの底に郵便物が入っている。

……引っ越し?

麻里は内心、ほっとした。

と同時に、浅子の後ろ姿を思い浮かべる。

浅子は麻里の恋敵になっても、憧れてしまう。

でも、彼女から高志を奪ったのは麻里自身だ。

普通なら彼女は悪びれると思う。

でも、浅子に対してそんな気は起こらなかった。

高志とベッドの中で戯れる。

彼は真理をとても大切に扱ってくれる。

時折、麻里は彼と浅子が関係を持っていたときのクセに気づくようになっていた。

顎に手をやって口づけをする仕草。

毛並みのいい猫をもらったような気がした。

こんな比喩は高志に言うわけにはいかない。

ふいに電話が鳴った。

麻里は着信を見る。

「……智恵だ」

妙な胸騒ぎがした。 

試験が終わったあと、伯父の動きがおかしいと父の新一が言っていたことを思い浮かべる。

麻里はわざと電話をとらずに、冷蔵庫をチェックした。

中にはスーパーで買ってきた食パンとインスタント食品、ブロッコリー、たまご、ありきたりのものが入っている。

何日か田畑高志の家に通って、古くなっているものもあった。

彼女はそれを処分して、ごみ袋に入れる。FMラジオを流す。

そして、智恵に電話をした。

「私、さっき電話した?」

『……お姉ちゃん、うちの謄本がなくなっていて……!』

「伯父さんね」

「お義母さんは?」

ふいに電話口の向こうで智恵が嗚咽するのがわかった。

『……いっ、いない!』

一瞬、頭の中が真っ白になる。

麻里は唇を噛んだ。

「今、何処にいるの!」

『マンションから逃げてきた……』

息が荒い。

「今から行くわ!」

何処にいる?

コンビニの向かい側の公園。

智恵はそこから、息が詰まったのか、黙り混んでしまった。

「待ってて!」

麻里はマンションを飛び出した。

重い湿り気が夕闇に漂う。

彼女はタクシー会社に電話して、急いで実家のある方面に向かった。

        ★

麻里は智恵と義母の住んでいるマンションの下にあるコンビニまで来たとき、また、智恵に電話した。

ふと、駐車場をみると浅子のフィアットがヘッドライトを光らせた。

……合図だ!

麻里は走る。

「……浅子さんっ!」

浅子はドアを開く。

彼女は「また、会ったね」とひとこと。

「智恵……」

麻里は口走った。

「福山くんのところ」

「何があったんですかっ!」

「聞きたいのはこっちよ、福山くんが迎えに行くってきかなかったから」

貴女を迎えに私、わざわざ来たのよ?

「ごめんなさい」

麻里は詫びた。

「福山くんの頼みだから」

浅子は言った。

麻里は横顔を見る。

暗闇をバックに、彼女の輪郭はくっきりと浮き上がっている。

常夜灯の光の粒を吸った水滴がガラス窓に散乱している。

浅子の唇が少し緩んでいる。

泣きたいのか、悔しいのか……。

麻里はばつが悪かった。

「高志のこと?」

浅子は不機嫌に眉をひそめる。

……は、はい。

「もともと、私が彼を利用してたんだから……あのままじゃ、彼に溺れそうで」

二人は福山の家に向かった。

       ★

路上に独りで立ち尽くす陰が見える。

麻里はすぐさま福山司郎だとわかった。

彼はフィアットに歩み寄る。

黒い傘から、水滴がサァーッこぼれ落ちた。

福山は黒いウィンドウブレーカーを着ている。

「智恵の話だと彼女のお母さんの姿がなくなっているらしいんだ」

浅子は唇を噛んだ。

「家出?拉致?」

浅子は麻里と義母の複雑な関係を知らなかった。

彼は家のなかに二人を招き入れた。

玄関にホンダの普通二輪エクスポートが雨に濡れていた。

麻里は福山をじっと見た。

福山は浅子に言った「警察に被害届は出したけど」。

浅子は醒めた顔で言った。

「……それしかないもんね」

浅子はウィンドウブレーカーを着ていた。

浅子は麻里の視線に神経質に反応した。

福山は気づいているのかいないのか、地図でマンションの場所をチェックしていた。

「智恵、お母さんは帰ってきたときはマンションにいた?」

智恵は頷いた。

彼女は浅子の存在に明らかに戸惑っていた。

麻里は彼女にいうなれば、

「しばらくうちに来る?」

智恵は頷いた。

福山は事件の状況をたずねた。

智恵によると、彼女がスーパーに買い物を頼まれて外出して戻った。

この時間は六時過ぎ。

この時、部屋のロックが開いていたと言う。

麻里は時計を見た。

七時五十分。

福山は麻里に留守番を頼んだ。

「もしものことがあったら、きみの番号にかける」

そして、フルフェイスのヘルメットを手にしていた。

「犯人を探すの?」

福山は黙っていた。

彼は外に出て、バイクのエンジンを吹かした。

「謄本、もし誰かの名義に書き換えられたら、智恵の居場所がなくなるだろ?」

彼は簡単に一言。

「私も行くわ」

麻里は言った。

福山は頷いた。

移動手段だ。

智恵は奥で簡易式の黄色いカッパとヘルメットを用意していた。

「悪いけど浅子さんと一緒にいてくれないかな?」

福山は千恵に言った。

「うん」

智恵は頷き、ドッとソファーに腰をおろした。

       ★

雨は激しく降っていた。

福山と麻里は一旦、小寺家のマンションの前の雑木林に身を潜めた。

「灯り、消えてるな……」

福山は雨に打たれなから声を張り上げた。

福山はカッパを着たままマンションの一階に進んでいった。

麻里が後に続く。

二人は階段から上がっていく。

「たぶん……」

福山は言った。

警察に連絡しても意味がないだろう?

まあ、小寺家の誰かが亡くなるか、福山が死ぬかしたら動き始めるだろう。

「じゃ、福山が死ぬの?」

「勘弁してくれよ」

冗談を言ったつもりだ。

しかし、福山は妙に神経質になっていた。

「つまらない冗談、やめろよ」

麻里は以前の福山と今の彼が微妙にずれているのを直感した。

久しぶりに見る我が家だった。

雨は少し小降りになっていた。

途中、麻里はべそをかきだした。この部屋には彼女にとってあまりに悲しいことばかりがつまりすぎていた。

その終わりがこんな後味の悪いことになるなんて。

福山は彼女の肩に手をやった。

「泣くなよ」

「うん」

彼は彼女が悲しむ度に、黙って受け止めてくれた。

ふいに麻里は彼が自分のことを好きだったことを思い出した。

部室で黙って彼女に付き添ってくれた、あの彼。

麻里はふと、さっき感じた『ずれ』の意味を悟った。

彼は麻里から離れていくのではないか?

二人は部屋の前に立った。

ドアは開いたままだ。

福山は先に中に入る。

「誰もいない」

麻里は黙って彼の脇をすり抜けていった。

福山が彼女の後ろに続こうとした。

「いい、入り口見張ってて」

麻里は言う。

重い何かを開ける音がした。

すると「えっ!」と麻里は我が眼を疑った。

「やっぱり、持っていかれた?」

福山は言った。

奥から麻里が封筒を手にして出てきた。

司法書士事務所の名前がプリントされた封筒。

「あった」

福山は麻里の肩を叩いた。

「よかったじゃん」

彼は笑っていた。

麻里はふと、悲しくなった。

もし、以前の彼ならば彼女を抱きしめて一緒に喜んでくれただろう。

そうだ。

抱きしめてくれる。

「とにかく帰ろう」

福山は言った。

彼は麻里に一線を引いているのがわかった。

何故なら、彼は自分のことをほんとうに好きだったから。

智恵に手を出したのは、彼のある種の…欺瞞…なのはとんとお見通しだった。

しかし、すでに麻里は高志を選んだのだ。

「これで肩の荷がおりたね」

福山は言った。

それはかつての彼の微妙に濁った口調はなかった。

乾いていた。

福山はほんの手の届くところにいつもいた。

しかし、この雨の中で彼は果てしなく遠ざかっていく。

男はこうも傷つきやすいものか?

彼女に対する愛情とか男の欲望の対象から自分が外されたことを微妙に悟った。

やれやれ……。

麻里は思った。

「肩の荷がおりたって、何?」

麻里は福山に冷たい口調でいい放つ。

福山は首をふった、

「別に意味はないよ」

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