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花ざかりの校庭 第八巻 親愛なるものに

 ★

夜半、福山の家に辿り着く。

二人は互いににがい思いを噛み締めていた。

雨から解放されると、二人は福山の家の居間に入った。

グルマンの香水の匂いがかすかにする。

ふいに麻里は浅子のことを思い出した。

妙な違和感が彼女を包み込んでいた。

「浅子さんとどういう関係?」

麻里は邪険な顔つきになっている。

「きみとは関係ない」

彼はキッパリ割りきった返事をした。

麻里は窓の外を見る。

「たしかにそうね」

雨はまだ降り続いている。

ふと、自分は福山の愛情を利用していたのではないかという、苦い意識に苛まれる。

あたかも、躾のいいペットをあしらうように。

はねつけても当たり前のことと考えて、飼い犬に手を噛まれた……そんな気分。

麻里はさらに不機嫌になる。

福山は麻里の機嫌をとることはなかった。

……図々しい男……。

麻里はそう思うことが出来た。

錯覚…?

福山はいくら邪険に扱っても、彼女は許される……という感情から抜け出せない。

それがさらに麻里を苦い思いにさせた。

「何も関係はないからさ、俺たち」

「それはそうだけど、いい気しない」

また言ってしまった。

でも、私が愛しているのは高志だけなんだ。

二人を同時に愛するなんて考えられない。

麻里はアンビバレンツな感情の壁の前で右往左往していた。

「俺と浅子さんは関係ないし」

「ホンとかな」

麻里は心の中で、泣いていた。

福山はとてもいい友達だったじゃない?

「ホントさ、彼女、酔っぱらってうちに居候始めたんだ」

「居候?」

麻里は目を細くした。

「嘘つかないでね」

「何の嘘?」

麻里は顔を赤くした。

一瞬、福山と浅子が愛し合っている光景が頭に浮かぶ。

グルマン特有の甘い香りが彼の部屋に流れている。

それは甘ったるくもなくて、優しくて。

麻里がもし、男だったらやっぱり浅子と夜を過ごしたいと思うのだ。

だが、浅子に憧れれば憧れるほど、その感情は嫉妬に転じてしまう。

「いやらしい……」

麻里は軽蔑した顔で福山を笑った。

たが、この時負けたのかもしれない。

浅子に。

麻里はこの時、福山司郎のことが大好きだったことに初めて気がついたのだ。

福山の優しさが……、

あまりにも空気のように当たり前になりすぎて。

気がつかなかった。

だが、

浅子とは麻里にとって最大のジョーカーだった。

一瞬にして感性や価値観を逆転させてしまう。

「浅子さんとしたんでしょ?」

福山はこういった邪推を嫌う。

「変なかんぐりするなよ」

「事実でしょうが」

「してない」

ふと、福山のにおいを感じた。

男の子の匂い。

二人で部屋にいると漂う。

経験をかさねるにつれて、好きな男のその匂いが時々いとおしくなってくる。

彼女にとって、その感覚はまだ鮮明だった。

そして不潔でもあったのだ。

うっすらとしたバニラに混じった福山の汗の匂いに麻里は苛立つ。

「してるでしょうがっ!」

「だから小寺には関係ねぇツーの」

麻里は浅子の香りの中で憤激していた。

……いっ、いかん!

麻里は襖悩おうのうした。

それを通して男に対する価値観が変わっていく自分を発見する。

麻里は奇妙な妄想を打ち消す。

何度も何度も。

妄想の先で、麻里は福山に抱きしめられていた。

雨のなか。

いつも福山はそうだ。雨のなかだ。

あり得ない。

神様っ!

福山は怪訝な顔をしている。

「あのさ」

と、福山。

「えっ?」

麻里は何故か挑戦的な顔をしていた。

「一言だけ言っとくけど、俺は浅子さんにてを出してないし」

麻里は残酷になれた。

何故か福山には。

大好きな犬が甘噛みするような感覚。

「出せないくせに」

「きみとは関係ないことだろう?俺がきみと高志とのことに横やり入れたこと、あるか?」

「私のこと、好きだったんだ」

「ヤボなこというなよ」

福山はケッと笑う。

もしかしたら、福山は経験を何回もしているのかも知れない。

麻里は思った。

自分を子供扱いしていたのか?

「明日の撮影、あなた一人で行きなさいよ」

麻里は鞄の中にあるルーズリーフを福山の足元に叩きつけた。

「また、癇癪か」

福山はため息をついて、ルーズリーフを拾った。

「じゃ、俺一人でいくわ」

福山は麻里の心の中で吹き荒れる嵐をよそに、福山はジュラルミンのケースのなかのバッテリーを整理していた。

「私。探検部やめるから」

「えっ?ウソ……」

「ざまみろ、あんたなんか大嫌いっ!」

何故だ?

それとも……。

浅子とのことに嫉妬してるのか、私……。

帰途、アレックスサンジェを漕ぎながら、麻里の煩悩はピークに達していた。

あのまま、福山と一緒にいたら、「抱いて」とか言い出しそうだったのだ……。

福山に抱きしめられる妄想が何度も何度も去来する。

……どうかしてる。どうかしてるよ、私!

       ★

小雨のなかクルマの音が聞こえた。

福山はそれまで読んでいた本を開いたまんま、テーブルにおいて、玄関に顔を出す。

浅子が帰ってきた。

「小寺、さっきまでいたんだ」

「うん」

彼女はどうでもいいような返事をした。

浅子はワインのグラスを両手で持って、ふくれていた。

「智恵ちゃんとデートしたんでしょう?」

浅子は姉ような顔つきで福山を見ている。

「してない……」

「それはウソでしょう」

浅子にも女性の初体験のそれはおおよそ察しがついた。

「貴方だって、やるでしょう?男の子なんだから」

「え?何……?」と福山。

浅子も浅子で赤くなる。

「別れるって」

「伝言?」

「彼女のお母様が石川県に引っ越すって。だからもう会えないと……」

行方不明ではなかったらしい。

やはり智恵の従兄弟の病状は深刻で、予断を許さない。

「謄本はホントに必要だったみたいで、療養費に充てるって」

「なんか、二人でこんな話していいのかな?」

「智恵ちゃんから仰せつかった大切な言伝てよ」

「あ、ご苦労様でした」

「どういたしまして」

浅子はキッチンを見回す。

「先の見通しがきかないから大変だと思う」

浅子は言った。

遠距離恋愛はリーチに比例する。

智恵はかなりクールに割りきっていたみたいだ。

さらに転校、進学と雑多なことが控えている。

「かくして福山くんは思い出になるわけね」

彼女はあははっと笑った。

でも、初めてが、あなただったのね……。

浅子はコーヒーミルを牽きながら呟く。

少し赤くなっている。

女性の恋愛は音楽のように構成されていなければならない……。

浅子は呟く。

1つの作品になってなきゃダメ。

ブラームスのシンフォニーみたいに。

私はそこで、完璧なヒロインを演じる。

「わかるかな?」

彼女はコーヒーを2つ用意した。

「2階に親父が使ってた部屋があるから、そこに寝ればいい」

「いいの?」

「うん」

少し寂しそうに浅子は頷く。

「誰も来ないから」

「あなたも?」

ふいに福山は赤くなる。

浅子の細い手をとる。

彼女は黙って握り返した。

福山は彼女の首筋にキスをした。

微かに息が荒くなっている。

しかし、彼女は拒まなかった。

そして頬、唇に。

「……だって、高志が終わって俺って、そんなのヤバイでしょ?」

「いや、そっちもそうじゃないの?」

ふいに、彼女の胸のスワロフスキがロザリオに思えた。

福山の目にうつる浅子は、高志が見ていた浅子とは違っていた。

「フランス映画、好きなんだ?」

「うん」

片隅にゴダールの『勝手にしやがれ』の映画のポスターが貼ってある。

ショートボブのジーン・セバーグとジャン=ポール・ヴェルモンドの写真。

浅子はコーヒーを口にしながら眺めていた。

「明日、早いの?」

浅子は言った。

「ピアノコンクールの前日だから、明日は一人で撮影みたい」

「アシスタントは」

「さっき、辞めてやるって」

福山は苦笑した。

浅子の瞳が一瞬、宙を舞ったようになる。

「ああ、言わないほうがよかった?」

「辛いし」

「そうだね」

と福山。

「私、彼女が考えてるほど図太くないし」

少し顔が赤くなっている。

浅子はチラッと彼に目をやると、髪を整えていた。

「私は明日の午後から仕事」

辞令が出るらしい。

「へえ?」

大阪の施設に移ることになってて。

検体検査の技師長。

病院の近くにマンション探して、来月のあたまに引っ越す。そういうこと。

「クリスマスは?」

福山は、ふと口にした。

「今年は大阪で一人ね、仕事もあるし」

浅子は微笑んだ。

「夜食しようか……」

浅子は言った。

もう、深夜である。

ふと、福山は断ろうとしたが浅子がひもじそうな顔をしているのがわかった。

「冷蔵庫にピザがある」

「ホント?」

浅子は目を輝かせた。

私……。

あなたの前でいっつもカッコ悪いとこみせちゃって。

どこが?

酔いつぶれてたり……。

彼女は笑った。

「あのゲロは驚いたし」

「やめてよ、バカ」

「期待してないから」

「意地悪ね」

福山は彼女の胸元を見ていた。

スワロスキのネックレスがキラリと輝く。

福山司郎は指先を彼女の肩にかけた。

浅子の艶のある眉が少し動く。

福山は体を止めた。

「女だから生意気なこと言うかもしれないけど、あなたは二股かけられるほど器用じゃないわ」

福山は憤然としていた。

「どうして?そんなことわかる?」

「わかるわよ、私」

「だから何で?」

ふいに浅子は泣きそうになる。

「……浮気しかしたことないから」

福山はまっすぐ彼女を見ていた。

レンジの音がした。

浅子はスワロフスキのネックレスを外し、財布のなかにしまった。

本当に好きな男性がいるの?

福山は言った。

彼女は頷く。

「でも彼って、もういないから。だから、だから、私はいつだって浮気かな?」

浅子は空虚な瞳をしている。

猥雑で生命力に満ちたいつもの彼女はそこにいなかった。

福山はジット彼女を見ていた。

本当の彼女は、皆が知るそのもっとむこうにいるのだ。

福山はそう思った。

「……はやく忘れなきゃって、必死に思っていてもまだできない」

「……俺、悪いことしたかな?」

浅子はかぶりをふった。

「ううん。……喪失感って考えてるより厄介なもんで……もう、五年になるけど。うまくできなくって」

「え?何が?」

「独りで寝ること」

「俺様だって独り寝だけど」

彼女は目を閉じる。

「福山くんって、結構意地悪ね」

浅子はツンとする。

まるで子供みたいだ。

福山司郎は浅子を抱き寄せた。

彼女は少し震え、そしてゆっくりと彼に体を委ねた。

福山は頬にキスをする。

彼女の手をとる。

浅子は福山の手を握りかえす。

貝殻みたいなピンクの爪が冷たい感触だった。

福山司郎は唇を奪うと、浅子の可愛らしい耳もとに囁きかける……キミが好きだ……。

そして、浅子の髪をかきあげていく。

耳たぶに唇を這わせる。

浅子はいつの間にか福山司郎の抱擁を受け入れていた。

彼女はグラスを置くと、両手で赤くなった目をおおう。

「……嫌だな、雨……」

「俺は好きだ……」

「男の子って意地悪なんだから……」

浅子は深いため息をつく。

そして、福山の胸に額をあてる。

福山司郎のシャツのボタンの間に指を滑り込ませる。

浅子は彼を求めていた。

福山は彼女のパーカーのジッパーを下ろした。

浅子は福山に体を委ねた。

胸をはだけ指を這わせる。

浅子は息を止めた。

「あっ」

浅子は恥ずかしげに声をあげた。

福山は彼女のスカートのホックを外し、レギンスの下に手をいれる。

浅子がしているグルマンの香りが霞のように漂う。

交わりは果てしなく甘いが、恋は苦い。

浅子はそのことを知り尽くしていた。

ふいに福山と目が合う。

彼はそのことを知ってか、そうでないのか?

やがて、頷くと口づけをした。

福山は彼女の湿り気をおびた肌を求める。

男のあの匂いが、クっと鼻をつく。

浅子は声が震えていた。

浅子の蕾の部分は硬くなり濡れはじめる。

福山は中指でゆっくりと撫でる。

蕾の両脇の丘陵に手を添えた。

浅子は、小さな声をあげた。

やがて、福山の指が彼女のなかに入っていく。

つづら織りの坂に彼の指がとどくと、彼女はさらに欲しがった。

福山は指を2つでその坂道を愛撫する。

浅子の肌がそまる。

夕日の中で、あざやかに咲き誇る花たちは淡いグルマンに香りと汗の匂いにむせかえった。

浅子の両手が司郎の背中にまわる。

愛らしい貝殻が、司郎の背中に食い込んでははなれ、食い込んでははなれ……。

しょっぱくて悲しい感触が、二人の下半身を満たしていく。

浅子はつづら織りの花壇のなかで、欲情がむせかえっていた。

何度か、福山のそれを欲しがる。

痴態じみた、猥褻な行為そのものが、かぐわしい真実となる。

福山は浅子を、まだじらしている。

……嫌っ!

彼女は泣いた。

恥ずかしい……。

やがて、むせかえる汗の中で彼の硬くなったそれが、つつら織りの坂に入ってくる。

浅子は唇に手をやって、泣きはじめた。

「悲しいの?」

「ちがう……」

福山との行為はまるで凌辱されているような恥ずかしさがあった。体はピンク色にそまり、腰を痙攣させた。

浅子は泣きながら、クビをふる。欲しいの。あなたがほしいの。

司郎の雁だかのその部分が、つづら織りの中をゆっくりと愛撫する。

浅子の体のなかで、花たちは咲き誇り、次々に花びらを散らしていく。歓喜していた。中で花たちは蜜を放つ。彼女はその中を走っている。

司郎の手が浅子の背中にまわった。

彼は彼の一部を入れたまんま、彼女の胸に顔を埋めた。

硬直してピンとなった先端を司郎は貪った。

また、浅子は声をあげた。

足の指を曲げて、快楽を受け入れる。

また、潮の音が耳の奥から聞こえてくる。

浅子は司郎を抱きしめた。

より深く。

じっとりと濡れた蜜が彼女のなかから溢れはじめる。

彼女の胎内で、司郎のシンボルは硬く、潤沢に濡れた中でその形が見てとれるくらい、大きくなっていた。

初めての頃は小さかった彼女の胎内も、それを受け入れられる。

中で司郎のそれはゆっくりと動いていた。

彼のそれはさらに入ってくる。

壊れちゃう!

浅子は叫びそうになるが、やがて彼女自身がそれを受け入れはじめる。

何度も司郎のそれはピクンピクンと動く。

浅子は男を壊れるくらいに抱きしめていた。

爪をたてて、悶える。

ふいに硬い男性のあの部分が、彼女の胎内でとまっている。

彼女のからだの中でわかるくらいの勢いで、彼の体液がほとばしった。

浅子の胸のなかで、福山は果てていた。

浅子は胸のなかの彼をいとおしく思う。

抱きしめてやった。

「ごめん、出しちゃった」

福山は息を荒げたまんま、浅子の、胸のなかで呟く。

浅子は彼を抱きしめながら、ふてぶてしい男だ、と思った。

……出すなよ、バカ。

好きな男にむちゃくちゃにされたい。

倒錯した願望。

二人の繋がったその部分は熱い。

浅子の太股にそって、精液がこぼれ落ちる。

彼女は果てた司郎の性器を愛撫し、キスをする。

その部分は哀れなくらい無防備だった。

釣り人の手に落ちた、ニジマスのよう。

男が彼女を支配したと思いきや、彼のその部分は浅子にとらえられていた。

二人は今度はシーツにくるまって、互いを求め始めた。

その晩、数回二人は交わり、ベッドの中で朝を迎えた。

浅子はハンドバックからマールボロを出そうとした。

「タバコわすれてきちゃった」

「喪失感って、どんなの?」

福山はハンドバッグをがさつかせている浅子を見ながら言った。

「胸の中がポッカリ空洞になってる感じ」

彼女は手にジッポーだけ持っていた。

「あとはすべて、変わんないの。すべてがとおりすぎていく。世の中はそんなものあるの?みたいに。うわの空で。私は喪失感の中に取り残されたまんま」

彼女は呟いた。

「煙草、ない?」

福山は聞いた。

浅子は恨めしそうな顔で福山を見ていた。

「それ、俺にくれない?」

福山は浅子のジッポーを見て言った。

二人は服を着はじめる。

途中、キッチンに福山は立つ。

裏口に目をやる。

雨に濡れた煙草の箱が見えた。

福山はビニール傘につっかけを履いて、それを回収した。

「これ、もういらないだろ?」

浅子は黙って頷いた。

彼はマールボロを手にすると勝手口のダストシューターに入れる。

「これ、もらってくれる?」

彼女はさっきまで手にしていたジッポーを福山に渡した。

福山は頷くと、それをポケットに入れた。

「けっこう重いんだな、これ」

「うん」

福山は浅子の頬に手をやる。

浅子は眼を閉じた。

キスだろうか?

ふと、悲しくなる。

福山くん、あなたまで私にキスしたら本当に泣いてしまう。

「やめて」

「泣いてる?」

「自分に泣いてるの」

暗闇の中で泣いている幼い自分を思い出していた。

私、私のことをいっつも傷つけてるから。

福山は目を閉じた。

俺もそうだ。

いや、高志も。

憤慨してた麻里も。

福山司郎は浅子に頬に唇を寄せてささやく……、

「親愛なるものに」

ただ一つ確かなことは、みなそれぞれが、孤独を認めあっていることだけだ。

福山は朝日を眩しげにみて、そう呟いた。

浅子は心の中で呟く。

こんな優しいヤツだから、私はまた恋に落ちるのだ。

彼女は頬を染めた。

……だから厄介なんだ。生きてるってことはさ。

居間にある置き時計が時間を刻む音が聞こえ始めた。

浅子は頬を染めながら、キッチンに立つ。

彼女は冷蔵庫を開けた。

「浅子さん。俺がやるから」

大きな皿と、カップを用意する。

「コーヒーは?」

浅子は言った。

「欲しい、あったかいやつ」

「ピザは太るよね」

福山は彼女をからかった。

浅子は黙って笑っていた。

しばらくして、彼女は言った。

「いつか私のこと、浅子ってよんでほしいの」

福山は眩しそうな顔で彼女を見ていた。

「うん」

浅子は無垢なものが苦手だった。

それはとても愛すべきものなのに。

胸が痛い。

無垢な瞳、無垢な信頼。

そんなものが、世の中の風雪のなかで、惨めにのたうちながら泥にまみれていくか。

いつもだ。

彼女はマーラーの大地の歌の一説を思い出した。

美しきものたちよ……。

そなたらが輝けるのは、無知な故。

生は暗く、死もまた暗し。

ふと彼女のまえで、福山が唇を噛み締めていた。

「……どうしたの?」

浅子はコーヒーカップを手にしたまま、目をむいた。

「ヤバイ……」

彼はルーズリーフを手にしていた。

「ゲッ!」

浅子はルーズリーフにべったり張りついた二人の体液に仰天した。一晩中、夢中だったからわからなかった。

3年A組小寺麻里と書いたケロッピのネームプレートがついている。

「ヤバイよ、小寺に殺される」

福山は震えていた。

「無くしたことにしておきましょう」

浅子は言った。

彼女は心の中で麻里に詫びながら、それを燃えるごみの袋にねじ込んだ。

「無垢って苦手だな」

以来、浅子はケロッピが嫌いになった。

彼女は昼前にクルマで出勤した。

サウンド・オブ・ミュージックの特集がFMで流れていた。

『私の大好きなもの』……マイ・フェヴァリッド・シングズがながれ始める。

立体道路から切り取った空を眺める。

……私の嫌いなもの。

浅子は呟く、

喪失感、五年前の思い出。

恋人との別れ。

青空が苦しくのしかかってくる。

小寺麻里、ケロッピのキャラグッズ……。

給料日前の残業、フィアットの車検、保険の更新……。

浅子は、フィアットのステアリングを握りしめる。

「ちんこ」

ふと彼女は呟いた。

私の好きなもの。

福山司郎のちんこが硬かったことを思い出す。

イヤだ、恥ずかしい。

浅子は一人で赤くなった。

彼女はサウンド・オブ・ミュージックを聴きながら、頬を染めていた。

途中、高速のチケット販売機の前でクルマを止め、バーキンからカードを出す。

    


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