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「君たちはどう生きるか」を難解な映画だと感じたとしても、それはあなたのせいじゃない。

 事前に宣伝を全く行なわない、という宣伝手法を用いることで、狙い通りにSNSで大きく盛り上がり、先週ついに公開日を迎えた映画「君たちはどう生きるか」。
 私も映画を観るためだけに会社を休んで、金曜の朝イチの回で映画館に行ってきました。そして打ちのめされました。

※以降の文章は、映画の完全なネタバレを含みます。映画を観ていることを前提としたテキストとしていますので、映画を観ずに読んでも意味が分からないレビューとなっています。観るつもりがあるのにまだ観ていない方、観ようかどうしようか悩んでいてその判断のためにこの文章を読んでいる方は、今すぐ読むのをやめて映画館の予約を入れましょう。事前の情報無しで映画を観れる、この機会を無駄にするともったいないですよ。
※有料設定をつけていますが、本文1万字は無料で読めます。有料ゾーン以降の4000字はオマケです。

 前置きしましたので、ネタバレはもう大丈夫でしょうか。それでは本論に入ります。

 映画館から外に出て、二つの感想が胸の中で渦巻いていました。ひとつは「なんだよ大傑作じゃねぇか。これはとんでもないものを観た。あのジジイ最後にやりやがった。今すぐ家に帰って創作活動をしなければ」という興奮。もうひとつは「あんまり面白くない話だったな。期待を超える映像体験はほとんど何もなかったな。まるで未来のAIに作らせた、劣化版の宮崎風映画みたいだな」という退屈さ。きっとネット世論もこの2軸だろうなと。

 ところがネットを眺めると「意味は分からなかったけれど、」という言葉をたくさん目にすることになります。分からなかったけれど面白かった。分からないのでつまらない。
 意味がわからない?意味が分からないという感覚が分からない。挙句の果てには「この映画を理解するには教養が必要だから、わからない奴は教養がないのだ」なんて意見まで出て物議をかもす始末。そんな阿保な。

 こりゃ何か書いておいたほうが良さそうだなと思い、だから書いてます。
 わからないという感想を持つ人がいる理由。それはこの映画の構成が大変奇妙で、はっきり言えば、狂っているからです。
 あなたの理解力が低いわけでも、教養が足りないわけでも、ありません。

映画を見て混乱した人、たとえるならこんな感じじゃないでしょうか?

 シェフの晩餐会に招待されたので会場に向かう。一切の情報はないけれど、豪華なフルコースに違いないと思い込んで、期待しながら席に着く。
 最初にスープが運ばれてくる。「なるほど、今日はフランス料理が食べられるのか」と背筋を伸ばして口をつける。次に刺身が出てくる。「あれ?フランス料理じゃない?懐石料理?」と気持ちを懐石料理モードに切り替える。さらに次に出てきたのは北京ダック。いやいやこれ変でしょ?どういう趣向なの?と困惑してたら、三段重ねのハンバーガーと山盛りフライドポテトが運ばれてきて、ドスンとテーブルに置かれる。
 おいおい、いったい何なんだ!こんな晩餐会があるかよ!俺は何を食わされているんだ?これが由緒正しいレストランがやることか!
と、混乱したり怒ったりしている。それぞれの味なんてもう意識してない。

 混乱の理由としては多分…事前にコース料理だと思ってしまっていた(思わされていた)のがそもそもの間違いで。もし、コース料理だなんて思ってなくて、お爺ちゃんと一緒にバイキングに行くんだと思えていたなら。

 ホテルに着いたらお爺ちゃんが「俺が全部とってきてやるから、お前はそこで座っとけ」と、料理を取りに行く。自分が食べたいものと孫に食べさせたいものだけを、ワンプレートに山盛り乗せてテーブルに持ってくる。料理のジャンルはバラバラ、盛り付けも映えなくて、栄養バランスも食べ合わせも考慮されてない。
 そんな風に山盛りの料理を、皿の端から1つづつ「これ美味しいね」「これ変わった味だね」「これ昔から好きだったけど、今日のは少し味が違うね」。そんな風に爺さんと一緒に食べていく。そういう時間だったなら。

 この映画、ひとつひとつの料理を(つまり場面を)丁寧に味わっていくだけなら、そんなに変なところも難しいところもないんです。だけど、一つ前の料理と、次に出てきた料理、シーンやカットの繋がりや流れに過剰な意味を見出そうとすると、そして自分が見出した意味合いを物語全体にフィードバックさせようとすると、途端に訳が分からなくなるんですね。
 なぜなら、この映画はそういう風には、つまり一般的な映画の文法に沿っては、作られていないから。そんなことよりも、いま孫に食べさせたいものを全部一皿に盛って出すことのほうが重要だったから。だって今回が孫たちとの最後の食事会で、もう次の機会は無いのだから。


 映画やアニメーションは、時間を操る芸術です。複数枚の写真をどの順番で並べていくか、複数枚の絵をどう並べてどういうタイミングでパラパラっとめくっていくか。カットとカットを繋ぐ意味、観客によるカットの隙間の想像と補完、それが映画とアニメーションの根本であり、全てです。
 だから映画作りにおける最大の権力は、どんな話をどう撮るかではありません。最後にフィルムをどう切ってどう繋ぐか、です。

 そうやって作られた映画を観ることにすっかり慣れた我々は、カットとカットの関係性に、場面転換によって起こる時間と空間の移動距離に、細心の注意を払いながら観るクセがついています。常にカットとカットの繋がりを推測し、不足を補い、隙間を想像して、演出意図と物語を汲みとります。
 そして…今回の映画で同じことをやると、考えるほどに意味が分からなくなって、物語の迷子になって、なんだかよくわからないうちにどんどん時間だけは流れていって、気づいたらあっという間に終わってしまって、狐につままれたような気持ちで、映画館を後にすることになります。

 ですので。映画の意味が分からなかった方は、できましたら上記を念頭に置きながら、もう一度、劇場に観にいってみてはいかがでしょうか。この映画はコース料理ではありません。前後の繋がりや整合性、シーン間の跳躍は気にしなくても構いません。一つの器に山のように盛られた雑多なごちそうから、いま手に取った1つ1つを「その場面ごと」「そのシーンだけ」に集中し観察し想像しながら食べていきます。

たとえば絵の描かれ方。
 駅に迎えにきた人力車のサスペンション(ばね)が、乗り込む人間や載せる荷物によってどのように動くか、どう描かれているかを見てみましょう。
 なんか変な鳥が飛んできたな、この鳥の登場でこれからどんな物語が始まるのだろうと物語の展開を先読みするのではなく「この鳥はどのように翼や体を動かして飛んだり着地したりしているか」をじっくり観察してみましょう。人が描いた単なる絵で、恐ろしいほどのことが起きています。

たとえば脚本とセリフ。
 継母さんの寝室へ見舞いに行ったとき、彼はなぜ煙草をくすねたのでしょうか。それを描くことによって、彼がどんな人間であると伝えたかったのでしょうか。そのあと、婆に煙草をせびられた時の「中身は二本しかなかった」というセリフには、どういう意図があるのでしょうか。
(もしこれが「煙草はもう爺に全部渡してしまったから無い」というセリフであってもシーンは成立しますが、内容が変わります。しかしいずれにしても、この後のストーリー全体には、まったく何の影響もありません。)

 1つ1つ、目の前に出された料理だけを集中して味わう。次のものが出てきたら、前後の繋がりではなく、いま出てきたものだけをしっかりと味わう。それを2時間、繰り返す。相当に濃密ですよ。胸やけの覚悟を。

 じゃぁこの映画は、細かい短編シーンの集合体に過ぎず、全体を通して明らかになるストーリーなど無いのか?というと、そうではありません。むしろ逆に、極めてシンプルな、分かりやすいストーリーが語られます。

 この映画は一言でいえば「少年は塔に行って、塔から帰ってきました」。ただそれだけの話です。気づきにくい伏線も、複雑な叙述ギミックも、タイムパラドクスもマルチバースもありません。混乱する場所がない。
 そんなことくらいは自分にも分かったよ。行って帰ってきた。だからなんだと聞いている。そのストーリーの意味こそがわからないんだ。という方もおられるでしょう。

 おそらくそこに、深い真実や意味合いはありません。行って帰ってきたこと。そういう体験をしたこと。つまり「私はそのように生きたのだ」と語ること。ただそれだけです。そしてそれ自体が、最も大切な価値です。
 旅とは常にそういうものだし、おそらくは人の一生も同じでしょう。

 簡単に結論だけ書くつもりが、随分な量になってしまいました。実はここまでは単なる前置きの概論で、ここから各シーンの主題と見どころについて、「私はどう味わったか」を書いていくつもりでしたが…

 とりあえず、自分が忘れてしまわないように、簡単なシノプシスだけを残しておきます。月末のワンフェスに向けての作業が終わったら、後日少し加筆するかもしれません。

※ワンフェス…ワンダーフェスティバル。立体造形物のコミケみたいなイベント。私も謎の造形物を作って持っていきます。2023/7/30幕張メッセ、ブース番号は7-21-11です。お待ちしています。



物語の展開と、一つ一つの料理の主題について

1つ目の料理 風立ちぬの続編として戦争を描く

 前作「風立ちぬ」は大傑作ではありますが、引退作とするには少し惜しく、描き残したことがありました。戦争そのものが描かれていないのです。
 第二次大戦の戦闘機をモチーフにしている物語でありながら、その舞台は戦前であり、夢とも幻ともつかないシーンの中での「飛行機は1機も戻ってこなかった」というセリフで、このあと戦争が始まることとその戦争の終わり方を示唆するにとどまりました。

 しかしそもそも宮崎監督は生粋のミリタリーオタクです。戦争は絶対的に憎むべき悪であると教育された戦後の平和主義の申し子であると同時に、兵器のカッコよさや美しさにどうしようもなく惹かれてしまう、古きミリオタの葛藤を胸に抱えています。
 若いころは、コナンのギガントや、ルパンのアルバトロス、やらかしてしまった紅の豚のように、時に無邪気に戦争と兵器を描いてきましたが、真正面から火垂るの墓のような映像作品は作っていません。
 風立ちぬのように別人に自分を仮託するのではなく、自分自身を主人公にして物語を紡ぐのであればなおのこと、今度こそ逃げずに「自分も体験した戦争をちゃんと描く」必要があったのかなと思います。

 そうしてこの物語は、戦前を描いた風立ちぬから続く形で、幼少期の記憶から自伝を語り始める形で、いきなり戦中の空襲風景から始まります。
 その後に展開するファンタジー物語とはほとんど何の関係もなく、売上や子供ウケにも寄与せず、作劇上の必然性もないにも関わらず、しかしどうしても真摯に戦争を描く必要があったので、描いています。

2つ目の料理 自伝を語る

 ここに関しては、これからネタバレ解禁と同時に、色々な人が様々な資料に基づいてトリビアを開陳し、考察し、語りまくるでしょうから言及を省略します。他人の人生のプライバシーとか、あんまり興味ないですし。
 幼い頃に空襲風景をみていること。疎開していること。父親は軍需工場を経営していたこと。母親は大病で臥せっていたこと。そういった事実を予め知っていれば、これは自伝の物語なのだなとすぐに気づけますが、そうでなくても観ていれば、これは監督の自伝かなと気づくはずです。

 ポイントとなるのは主人公の醜い描写。自傷しながらも「誰それにやられた!」という明白な嘘はつかず、しかし意図通りに親を誘導する極めて悪質なズル賢さ。見舞いに行った寝室から煙草を盗んでくる手癖の悪さ。自伝だとお客に認識されている状態で、自分の醜さを自分で描いていくのは難しいことですし、また主人公の「正しくない」部分を描くビターなテイストは、これまでの監督作品ではほとんどなかったかと思います。これが本作の、過去作に比べて突出した「児童文学らしさ」に強く寄与していると感じます。

 あと、肥後守(バタフライナイフじゃないですよ…)で夢中に工作する、本当に楽しそうに丁寧な描写が続くシーケンス。よかったですねぇ。プラモデルが趣味で専門誌のモデルグラフィックス誌を読んでいる俺ら、宮崎駿のもう一つの側面をよく知ってる俺らには、堪らない描写でした。
 もしこの映画を一緒に観たあなたのお子さんが、自分のナイフと材料を欲しがったのなら、ぜひとも渡してあげてくださいね。それこそが、監督が最も望んだことのはずです。

3つ目の料理 幽世に行く

 リアルな戦争風景から始まり、丁寧でリアリティのある生活描写が続き、これはもしかしたらこのまま何も起きないつまらない、退屈な映画になってしまうのかな…とヤキモキし始めたころ。
 アオサギのしつこいにもほどがある勧誘と催促によって、物語はどうにかこうにか重い腰を上げてファンタジーの世界に入っていきます。アオサギの行動は、漫画家に原稿を催促する編集者のようでした。

 リアルな物語と描写から、いきなり展開で始まるザックリしたファンタジー世界。リアリティラインのギャップがすごいです。ここでよし来た!と思考フル回転させて、どうやってあちらの世界に行ったのか?転送の仕組みは
?あの世界はどういう世界?あの世界の謎は??みたいなことを考えてはじめて、気もそぞろになるのは全く無意味です。

 そもそもSFとファンタジーの違いは、世界のありようとそのルールを説明するかしないかにこそあって、本作は明らかにファンタジーなのです。しかも幼い少年少女を対象としたファンタジー(児童文学)なのです。
 むしろ逆に、本作はその割には相当丁寧に説明した部類じゃないでしょうか。隕石が落ちてきて、伯父さんが隕石を塔にした。塔の中に入ると「あちらの世界」に行ってしまう。ふらっと戻ってくる人もいるが、戻ってきた人は消えた時の姿のまま記憶だけを失っている。世界の輪郭を納得するに十分な説明だと思います。

 我々大人チームは「設定の裏側に設定された謎解き」のようなものに心を捕らわれがちですが、せっかく深読みするのであれば、ちりばめられた寓話の意味を考えてみるのはどうでしょう。
 たとえば、異世界の冒頭。釣り上げた大魚の解体をただ待つ、虚ろな人々は誰をモチーフにしているのか。内臓を与えられて力を蓄え天に昇っていく可愛い物体とその行動の意味は何か。モフモフたちを無残に食べてしまうペリカンが表しているものはなにか。
 私も最初は「なるほど。今回はこういうファンタジー世界で来たかー」としか思えませんでしたが、終盤で各配置の意味合いに思い至って、ほとんど泣き出してしまいました。

 私が感じたことが、監督の意図と同じかどうかはわかりません。観て、考えて、自分と照らし合わせて、自分だけの答えを見つけること。それが映画の楽しみ方の一つではないかなと思いますし、お客にそう楽しんでもらうための、前情報なし宣伝戦略だったのかなと思います。考えましょう。

4つ目の料理 ジブリ共和国の終焉とアニメーション界の崩壊

 前半が子供時代の自伝だとしたら、大伯父や鳥王が出てくるあたりからの後半戦は大人時代の自伝です。大人というか晩年、ほぼリアルタイムの「今」を語っているように思います。(ちなみに、スタジオを立ち上げた頃の若き日の風景は、風立ちぬの中で既に描かれています)

 無の場所に世界そのものを創造し、作り上げた王国に君臨し、自らの手でその維持管理をしてきた大伯父。不安定な形の積み木をどうにかバランスをとるように積み上げて、その日その日をギリギリで回してきた。しかしもはや老いて、限界は近い。この大伯父は誰を指しているのか。

 王国の遺産は自分が継ぐから、あなたは引退してあとは私に任せなさい。なんなら新しい世界だって今まで通りに作ることが出来ますよ。と自信満々で乗り込んできた、元は子飼いの鳥の王。それは広告屋か出版社かテレビ局か。(少なくとも庵野監督のことではないと、私は思う)

 そして字義通りに鳥の群れとして戯画化された「烏合の衆」たち。あの鳥たちは誰を描いているのか。

 それぞれ全てが、現実との1対1のメタファーではないと思います。パクさんをどう配置するかは意見が分かれるところかもしれません。
 とはいえ、シーン全体を通して観れば、描かれているものはほとんどあからさまで、隠喩ではなく、自分の組織と業界全体の現状および行く末を語っていると受け止めていいのではないでしょうか。

 小さな会社であっても、社員を雇って抱えたことがある人、その側近となった人ならわかると思います。組織の長には、背負って立つ者の責任、こいつらを喰わせてやらなければいけないというプレッシャーが常にあり、一方で、こいつらは真面目に一生懸命に働いてくれていることは分かるけれども、しかし物足りない。自分とは覚悟が違う。ぬるい。俺はこんなにも身を削ってお前たちの為にやっているのに。もう知らん。面倒は見切れん。あとは勝手にやれ。時にそういう怒りと虚しさに襲われます。(と聞きました)

 真面目に、黙々と、言われた通りに働く王様の兵隊たち。そして彼らは増えすぎて、世界に食料は行き届かず、常にお腹を空かせて飢えている。
 そういう連中を、俺は囲って守って喰わせてやってきたじゃないか。この業界全体を底上げして地位向上もさせてきたじゃないか。俺は立派にやりとげてきたぞという自負心。
 でも同時に、王である自分たちは、彼ら彼女らをすりつぶし使い潰し、その人生を犠牲にし、羽ばたけるはずの鳥までもエゴの元に飼い殺してきたのではないかという後悔と罪悪感。近藤監督の早世は本当に残念でした。

 物語のクライマックス、崩壊した塔から常世にあふれ出た鳥人たちは、元の鳥となって空へと羽ばたいていく。君たちを解放するよ。もう自由だよ。それぞれ好きに生きていきなさい、自分自身の表現をしていきなさい、とエールを送るように。
 しかし現実には、一度ペットとして飼われたオウムやインコを鳥籠から野に放っても、彼らはもはや外では生きてはいけないことも王は知っている。外に放つのは無責任で虐待に等しい行為だとも思っている。
 でも仕方ないじゃあないか、王国の創造主はもはや老衰で死ぬのだから。

5つ目の料理 2人の男の旅の軌跡と終着点

 5人目のビートルズという言葉があります。それにならっていうなら、3人目のジブリ、いや、2人目の宮崎駿という方が近いでしょうか。
 間違いなくスタジオジブリの根幹をなすキーマン、鈴木Pという男。この物語の主人公が宮崎監督本人であるのなら、アオサギは彼で間違いないでしょう。

 現実の二人の関係性を表すエピソードは、調べればいくらでも出てくると思いますが、私がゴシップ的に一番知りたかったのは「それで宮崎監督自身は、心の中で鈴木Pのことをどう思っているのか?」です。
 有能な仕事のパートナーでしょうか。不可欠ではあるけれど憎たらしい存在でしょうか。水と油のように相容れない存在でしょうか。
 スタジオを設立して約40年。ここまで二人三脚で、ひたすらに旅を続けてきました。いろんなことがありました。
 でも旅の最後に、主人公はアオサギのことを「ともだち」だと言います。それを聞いたアオサギは驚いて、感極まります。とても好きなシーンです。

出てきていない料理 夢小説

 ここは映画では描かれていないシーンです。でも俺には見えてしまったのだから仕方ない。描かれたものも描かれなかったものも、等しく映画の体験です。

二人の男が、王国が崩れていく様子を眺めています。

 二人で(パクさんも含めて三人で)長い歳月をかけて積み上げて、心を込めて作り上げてきた素晴らしい世界。しかしそれも終わりの時が来ました。

 息子は跡を継ぎませんでした。継がせられませんでした。目を掛けた弟子たちは皆それぞれ独り立ちして、業界の未来を背負って立つほどの国を既に築いています。クリエイターではない有象無象の連中にブランドを身売りする気もありません。

 だからこの世界はここで終わりです。自分の手でぶっ壊してきっぱりと終わりにしたいのです。爺は「壊してしまうがそれでいいよな」と隣に立つ男に聞く。男は「それでいいですよ」と答える。二人は目を合わせず、遠く崩れ行く景色を一緒に眺めている。

 製作委員会を組まずに自社資本だけで作って、タイアップもせず、メディア宣伝もしないという大博打を決行したっていうのは、大失敗しても構わない、全てを失ってもなにも問題ない。そういうことじゃないでしょうか。
(まぁあのサギ野郎の内心には、勝算もあったでしょうが…)

 そしてもう一つ、宮崎監督には、宮崎-庵野というそれは強い関係軸が存在します。実質的なジブリの始まりであるナウシカにおいて大事なシーンの作画を任せるほどにその才能を愛し、可愛い弟子であり、逃げて行った息子であり、忌々しいライバルであり、全く理解できず決して相容れない圧倒的な他者であり…

 私は二人に師弟関係を超えた絆と、エモエモな妄想を広げてしまいますが、今回の映画の感想とは完全に脱線するので省略します。

 ただ個人的な妄想としては(本テキストは全て妄想なのですが)、かつてのエヴァ旧劇の「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」と、同時期公開もののけ姫の「生きろ。」が対をなしていたのと同じように、シン・ゴジラの「私は好きにした、君らも好きにしろ」という言葉と、本作の「(私はこう生きた。)君たちはどう生きるか」は対になっているんじゃないかなーと感じています。

 2つの言葉は似ているようにも見えて、しかし大人が子供に対する姿勢の現れとしては、ほとんど正反対に近いメッセージなんですよ。最後まで相いれない信念をぶつけ合っている。エモい…

6つ目の料理 常世への帰還

 話を戻して。そうして旅の最後であらためて母親とのお別れを済ませた少年は(今回のヒロイン、マザコンの拗らせが極まっていましたね…)、新しい母親の子供となって、母と共にこちらの世界に帰ってきます。
 戦争も終わり、疎開も終わり、新しい母親と新しい弟と一緒に、新しい世界での新しい現実が始まります。めでたしめでたし。

 こうして、極めて王道的でストレートな「ゆきて帰りし物語」が、あっけないほどにシンプルに幕を閉じました。普通は旅を終えて一回り成長した少年が、大人への一歩を踏み出す形になるところ、本作では大人もどきが、まだ親に庇護されるべき子どもに戻るという形になっているところが、少し捻りが入っているかもしれません。

 幽世の小さな石をくすねてきた少年は(またまた手癖が悪い!そして俺もあの石を模したグッズが欲しい!!)、持ち帰った石=いつか見た夢=読み終わった一冊の本を大切に抱えて、大人になるための世界へと歩き出していきます。 

全ての料理の調味料 大好きだった作品たち、自分を形作ってきた作品群へ、あらためて言及

(後日加筆予定。ポインタのみ掲載)
不思議の国のアリス(ちなみに作者はロリコン)、幽麗塔(宮崎イラスト版あり)。
ホビットの冒険、指輪物語。ゲド戦記(原作を読め)、ナルニア国物語(原作を読め)、はてしない物語(原作も読め)。その他たくさんの岩波。
海辺の王国、ブラッカムの爆撃機を始めとしたウェストール諸作品(復刻や出版に尽力。推薦帯あり)
白雪姫と七人のこびとを始めとした初期ディズニー作品。
やぶにらみの暴君、王と鳥。
そして自分たちで作ってきた過去の作品の数々。

料理を載せた皿 人生における時間感覚の相対性と、この映画の狂った尺配分や異常にアンバランスなテンポ感

(後日加筆予定。概略のみ記載) 
 たとえば私にとって1983年~1985年という時代と、その頃に出会った作品群のことは、今も濃密に鮮明に思い出せる記憶です。しかしそれはもう40年も前の遠い昔の話です。
 これが、時間にしてまだ半分にも満たない、2000年位から今日までの20年はあっという間の出来事で、40年のうちの半分を占めているなんて到底信じられません。どの記憶もまだつい先日のこと。FFXの発売が22年前なんて、きっとなにかの間違いでしょう。
 そして恐らく、ここから先の20年は、もっとさらに早く、一瞬のこととして流れ去っていくのでしょう。生きていられるなら、だけれども。

 人生の時を刻む目盛りは、均等ではない。時の流れる速度と圧縮された記憶の密度も、均等ではない。
 そのおかしくて不可思議な、年寄りだけが実感できる主観的な感覚をも、自伝を語るフィルムの中に、そのまま体験として入れ込もうとしたのではないか?

終わりに

 以上にて、「私が観た」君たちはどう生きるかの感想文は終わりです。

 映画とは、単にスクリーンに照射された光であり、光の前に立つ人ごとに違った影を落とします。私の足下に広がった影はこんな形でしたが、あなたの影はまた違うものだったでしょう。

 ぜひそれを読ませてもらえたらと思います。書いてください。きっと読みにいきます。

おしまい。

(お賽銭はここまでのお代ということでお願いします。ここから先に、金額相応の内容はありません。自分語りをしますので、恥ずかしくて課金ロックをかけていると思ってください)

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