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バッティングゲームは「読み合いのゲーム」ではない

※この記事は、PCに保存されていた2015年執筆の未公開文章を、少し手直しして公開したものです。

バッティングゲームと言うと、「相手の手を読み合うゲーム」というイメージがある気がする(違うと思う人はこの記事読んでも面白くないと思うので、ごめんなさいw)。

相手の手を読み合って、その結果「読んだ内容がぶつかって」ハプニングが起こる。推理と推理のガチのぶつかり合い。そういうゲームがバッティングゲームだ、と。

自分自身もそう思っていたし、別に大きく間違っているわけでもないと今でも思っているのだが、最近思うのは、「実はそうではないとも言えるのではないか?」ということだ。

バッティングゲームの代表と言えば「はげたかのえじき」「宝石商(またはバサリ)」「魔法にかかったみたい」だろう。

場の状況を見て、手札から1枚を選ぶ。その1枚は、他の人も選んでいる可能性があり、その場合、自分は損をすることになる…(もしくは、相手の得になる可能性がある)。

なので、よくよく相手の考えを読み、そこを避けていったり、敢えてぶつけていったり、というのが楽しい、そういうゲームになっている。しかし、果たして実際のところ、「相手の手を読める」ゲームなのだろうか?

バッティングゲームでは、相手の選択する手を100%読み切ることは不可能だ。というか、読み切ることができるのであれば、バッティングゲームにならない。相手がAならばB、でも自分がBを出すならば相手はCを出してくるので、じゃあ自分はA…という堂々めぐりが起こるのが、バッティングゲームの肝である。

つまり、やっていることは、じゃんけんでしかない。じゃんけんは、「読み合いのゲーム」なのだろうか?

「そうだ、じゃんけんは読み合いのゲームだ」と答える人もいるだろう。でも結局それは、運である、とも同時に考えている人も多いはずだ。

「はげたかのえじき」において、各プレイヤーは最初15枚の手札から1枚を出す。ところがここでいきなり「バッティング」することがある。15枚ものカードから1枚を選んでいるのに、他の人と同じカードを出してしまうのだ。しかしそれはデザイナーによって意図的に「誘導」されている結果である。場札に応じた「相場」はなんとなく形作られており、そこから手札の選択肢はすでに制限されている。そして、複数人でプレイすることにより、バッティングの可能性は高まっている。さらに、たとえ同じカードを出していいなかったとしても、「10を11で潰された」のように、近い数字で「疑似的なバッティング」を起こす可能性はより高くなっている。

つまり、はげたかのえじきでは、意図的に「バッティング」を起こしやすくデザインされている。「読み合い」のゲームというよりは、「読んでいるつもりがなぜかバッティングしてしまう」ゲームなのである。避けようとしているのにバッティングを起こさせる仕掛けが重要なのであり、決して「読みによってバッティングを避けれる仕組み」が大事なのではない、ということだ。

例として、バッティング・メカニクスを使ったゲームの秀作に、「グラスロード」がある。全員が同じ15種類のアクションカードのセットを持ち、その中から5枚選んで3枚使う。選んだ5枚のうち、他のプレイヤーがそのアクションを使ってくれたら、自分も無償で追加アクションができる、という構造だ。

相手が3/15で選んだカードを、5/15で当てるわけなので、2人プレイで考えても確率的には1枚はほぼ当たる。何も考えずに選んでも当たるようになっている、というか、そういう風にデザインされている。

つまり、作者であるローゼンベルク自身、「これは読み合いのバッティングゲームではない」と考えている、ということだ。バッティングゲームは、バッティングする瞬間が一番面白い。そしてそれは、実際には読み合いの結果でなくとも、偶然であっても面白い

グラスロードは、改めて考えるまでもなく、「バッティング+アルファ」のゲームであり、むしろ「リソースマネジメント+アルファ」のプラスアルファの部分にバッティングが入っている、ぐらいの勢いのゲームだ。多分、バッティング要素がなくてもそれなりに面白いはずで、バッティングを入れたのは、ソロプレイ感を少しでもなくすための方策に過ぎないと思われる。

これと同様に、バッティングをメカニクスに採用しつつも中核にはしていない例が、国産インディーズゲームの「VIVA!ココノッツ」だ。このゲームは、「はげたかのえじき」をベースに、ゲームを広げ、バッティング以外の面白さを追加することで、結果的に「はげたか」の占める割合を大幅に低下させることに成功している。だからこそ新しい「面白さ」が生まれている。

具体的には、ココノッツで行われているのは、「場の特殊能力の利用(コンボの発見)」と「陣取り」だ。そこが面白さの源泉であり、はげたか方式の「せーのでカードを出して数字の強さ比べ」は、面白さの大きな要因ではあるものの、全てではない。実際、はげたかと違って手札は10枚のうち3枚となっており、この部分の運要素は強い。はげたかのように、「相手と自分の条件が同一」ではないので、読みの基準が薄まっている。つまりこのデザインの意図は「はげたか部分の読み合いで勝負するゲームではない」ということだ。

ココノッツにおいて、最も面白いのは、「今の自分の手札なら、あのナッツカードの特殊効果を誰よりも一番うまく使えるはず」という読みだ。これはトリックテイキングにおける「今のこの手札なら、このカードでトリックを取れるはず」というような感じに近い。また同様に、トリックテイキングのように「これを取った後、次はこちらのナッツを取って…」のような組立も可能だ。それによって陣取りも同時に行えるのである。もちろん、手札は3枚であり、山札から新たに引いてくるカードによっては(デザイナーの意図通り)計画も簡単に破たんするわけだが。そしてそこに、フレーバー的に「バッティング」要素が生きてくる。数字も1-15ではなく1-10と「狭く」なっており、特殊効果で数字の増減はあるものの、よりカジュアルにバッティングしやすくなっている。ゲームを盛り上げてくれる一要素である。

これらから分かるように、実はバッティング要素というのは、「読み合いをする為」というよりは、「バッティングすること」そのものを楽しむ為にゲームに組み込まれているように思う。

「読み合いをした結果、たまたまバッティングする」のではなく、「バッティングした時の盛り上げの為に、(答えのない)読み合いをさせる」のがバッティングゲームである、ということだ。

グラスロードやココノッツは、バッティング要素を「ゲームの1要素」として取り込んで成功しているゲームだが、「バッティング」のみで勝負して成功している他のゲームもある。国産インディーズゲームのその名も「バッティング(X-ing)」である(「クロッシング」という名前で海外からも出版されている)。

これは、言ってしまえば「宝石商」から要素を削ぎ落としたゲームだ。しかし、削ぎ落とし方がすごい。宝石商にあった「お金を取る」「宝石を取る」「カードを取る」という選択肢をなくし、「宝石を取る」だけにしてしまった。しかも、バッティングした場合は交渉もなく、単に「取れない」。新しい要素もちょっと入っていて、獲得した宝石は一旦「キープエリア」にキープされ、それを「確定」させるまでは他の人に奪われる危険もあるが、確定ばかりしていると非効率なので溜めこみたい、という、ちょっとした「バースト」的な要素も入っている。

このゲームがすごくて、5人プレイなら宝石は4か所、4人プレイなら3か所、と、ほぼ必ずバッティングするようになっている。他人のキープエリアも狙えるようになっているので、必ずしもそうはならないのだが、まぁ、ほぼバッティングが発生し、悲鳴が上がる。これはつまり、このゲームも「読みのゲームではない」ということだ。もちろん読み合いとその外れ方が楽しいゲームなのであるが、そういうのに関係なく、バッティングは発生するようデザインされている。

いずれのゲームにも共通することだが、単にシステムによってバッティングが発生するだけのゲームではない。その前段階として、システムによるバッティング誘導から「逃れようと足掻く」ことがプレイヤーには許されている。これが許されている(又は、許されているとプレイヤーに感じさせる)事が重要だろう。そうでないと、運ゲーであると感じさせてしまい、プレイヤーは白けることになる。まぁ、そうやって足掻いた結果、それでもゲームデザインによってバッティングしてしまうわけだが。

いつまで経ってもデザイナーの掌の上なのに、プレイヤーはそれを感じず、相手の手を読もうとし、自由にハプニングを楽しんでいる。そんなバッティングゲームが、私は大好きである。

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