見出し画像

23. ブジオスのカーニバル

 カーニバルは日本の夏祭りと同じように、ブラジルの夏に当たる2月に全国各地で繰り広げられます。ブジオスに行ったのが2月、カーニバルの直前でしたから、夜になると村の青年団がドラムの練習をしていました。
 海岸に飲み物や簡単な食事を供するバーがあり、その前の広場に50人ばかりの青年や少年が集まる。それぞれにドラムを持っています。なかには、本物のドラム缶を半分に切ったようなものもありました。小さいスネア・ドラムから、大きいものは大人が腰に引っ掛けて地面に届くようなものまで、いくつかの種類があり、それが一丸となって強烈なリズムを刻みます。和太鼓も素晴らしい迫力がありますが、ブラジルのドラムはさらに荒々しい、地の底から湧いてくるような響きがあります。

ブジオスでカーニバルの練習風景

 既に夜も深く、暗闇が広がる中に裸電球の光を受け、中学生ほどの少年から20代の青年までが汗を流しながら、ひたすらドラムを叩きます。一定の形で繰り返す荒波のようなリズム、照りつける太陽のような灼熱のリズム、時に、煮えたぎるようなドラムの響きを切り裂くかのように、笛の音が走ります。厳しい相貌のリーダーが指揮棒を振り、笛で合図を送っているのです。汗が流れて、ドラムの音が地を這い、陶酔の夜が進行していきます。

 カーニバルそのものはカトリック教国の祝祭ですから、ブラジルに限ったものではありません。ブラジル、とりわけリオのカーニバルがよく知られているのは、ほかに類を見ない熱狂によるものでしょう。
 ヨーロッパからブラジルへとカーニバルが入ってきたのは、19世紀の中ごろとされています。このカーニバルがアフリカの黒人奴隷たちの宗教と混合し、ブラジル独自のエネルギッシュなカーニバルが育っていったのです。全国の村それぞれに、カーニバルのために組織された青年のグループと踊り子たちがいて、その腕と華麗な踊りを競い合います。こうして選抜されたグループがリオに集まり、雄を決することになるわけで、優勝するとたいへんな名誉となるそうです。そのために、ドラムの練習にも熱が入る。

 今夜の練習でも、その周囲には村人や観光客が集まり、頼もしそうに聞き入っていました。そしてまた、ドラムに合わせてステップを踏み鳴らす黒人の女の子たちがいます。
 よーく見ると、この子たちは、髪が何だか黒人らしくありません。しかも、顔立ちも黒人というよりは、コケイジアン(白人)に近い。
 そう、ブラジルは人種の坩堝です。黒、白、茶色、黄色、それからこれらの中間。歴史的に見ると、大雑把に茶色は原住民、白はポルトガル人中心のヨーロッパ人、黒はアフリカ人、黄色は中国および日本人となるわけです。今日ではそれが混じりあっていて、この写真に見るような混血が多く見られます。アメリカでは人種差別問題がいまだに燻っていますが、ブラジルでは人種に関する柵は高くなかった。ポルトガルの人々が移住してきたとき、現地人との間に拮抗があり、そこで採られたのが融和政策だったのです。人種の違いは積極的に混合されて青い目の黒人、肌が黒いブロンドなど、僕たちには不思議な光景です。
 しかしこれは1500年以降の歴史をとどめている、言ってみれば、宿命です。外見に表れたものばかりではなく、血となって身体を流れている宿命。長い歴史の果てに、この小さな命が背負っている宿命を、ちょっと考えたりしました。

 目を返して、自分の本国を見れば、ガイジンに変身したいと憧れているのではないかと勘ぐりたくなるような、度を越した茶髪の流行。突然僕は口うるさいオヤジに変身して、「ボク、オジョーチャン、流行もいいけどね、いつか自分のアイデンティティのことを少しだけ考えてみようね」なんてイヤミも言いたくなるのでした。「流行は珍奇に始まり、滑稽に終わる」と喝破したのは三島由紀夫でしたが、さて、日本の現状を何と見るか。

それはともかく、速いステップにキャッキャッと声を上げながら踊る、愛くるしい女の児たちを見ていて、飽きることはありませんでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?